「十字架」
聖書箇所:ヨハネ19章17-42節

キリストの復活を祝う復活祭の日曜日が来週16日(日)となりました。
教会暦では今日9日(日)がパーム・サンデー、棕櫚の主日です。
イエスさまがエルサレムに入城されるのを群衆が棕櫚の葉を道に敷き詰めて歓迎した日です。今日から受難週と呼ばれる週が始まります。私たちの教会は厳密に教会暦に従うものではありませんが、この受難週は特にキリストの十字架の苦しみ、その意味に心を留めて過ごし、復活の喜び、救いの喜びを深めたいと思います。

今週もヨハネ福音書から分かち合います。ヨハネ福音書19章のみことばからキリストの十字架について信仰を深めましょう。

【聖書が成就するために】

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。」ヨハネ19章28節

19章の中には「聖書が成就するため」ということばが36節でも用いられています。
これはイエスさまの十字架の意味、目的をよく表していることばです。

なぜキリストが十字架に付けられなければならなかったのか?
キリストは自分の犯した罪のためでも、偶然や、間違い、成り行きで十字架に付けられたのではありません。十字架に付けられなくてはならなかったのです。
一体何のために?

聖書が成就するためなのです!

これは私の考えではなく、聖書自身が繰り返し主張していることです。
聖書はハッキリとキリストの十字架は聖書の約束の成就のためだと主張しているのです。

それでは聖書の何を成就するためなのでしょう。聖書のどの約束を成就するためにキリストは十字架に付けられたのでしょう。28節に関しては「〇〇」と書かれてある聖書のことばが成就するためにとは書かれていません。「聖書が成就するために」とあるだけです。

このように考えると聖書が一体何の為に書かれたのか、その理由を知らなければなりません。聖書は一体何の為に書かれたのですか?

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネ20章31節
聖書が書かれたのは、まさにこのためであり、あなたが信じていのちを得るためにキリストは十字架に掛かられたのです。

このいのちは神によって与えられるいのちです。罪深い、自己中心的な生き方ではなく、神の愛に生きるいのちです。積極的に神の愛と赦しを実践し、平和を造り、神と隣人に支えようとする心です。キリストは新しい生き方、新しい心を私たちが持つために十字架に掛かられたのです。

パウロはキリストが十字架に掛かることによって何故わたしたちに神のいのちが与えラられるのかについてローマ書6章4節とガラテヤ2章20節に書いています。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」ローマ6章4節

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
ガラテヤ2章20節

キリストは私たちの罪深い性質を十字架で滅ぼし、神の子供としての新しい心、新しい霊を与えるために復活されたのです。

十字架の意味を信仰を持って受け取りましょう。

あなたを、そしてあなたのまわりの人を苦しめてきたあなたの罪深い性質は、キリストが十字架として背負ってくださいました。キリストが必ずあなたを罪から解放して下さることを信じ続けましょう。罪や悪習慣に対してはキリストの十字架がこの身になるようにと祈り、願い続けましょう。

あなたはキリストと一緒に十字架で死んだのです!これがバプテスマです。
神に背を向ける生き方、神が喜ばれない生き方に対しては死にましょう。
バプテスマは一度だけではありません。古い性質に死に続けることです!
古い性質に死に続ける時、あなたにはキリストの復活の力が現れるのです。

復讐や憎しみに死んで、赦しに生きましょう!積極的に敵を祝福しましょう。
不平・不満に死んで、感謝と喜びに生きましょう!
受け身の生き方、してもらう生き方から、積極的に自分から愛する生き方、仕える生き方に生きましょう。生まれつきのあなたは死んで、あなたは既にキリストにあって神の子供です。十字架による救いの意味をしっかりと覚えましょう。
【わたしは乾く】

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。」ヨハネ19章28節

私はイエスさまが「わたしは乾く」と言われたことばの一面しか理解していないことに、このメッセージを準備している時に気付かされました。
今までは、キリストが真の過ぎ越しの祭の子羊であり、その流された血潮によって私たちの罪は覆われ、神の怒りは過ぎ越したのです。贖いの代価としての血を強調していたので、キリストは私たちを死と滅びから贖うために、ご自身のいのち、血を一滴も残さずに注がれた、それ故に乾かれたのだと思っていました。もちろんこの解釈を否定するつもりは無いのですが、それは大切な一面であるのですが、もう一つの面があることに気付かされました。

それは「すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために・・・と言われた」ということです。イエスさまは、すでに贖いの業が完了したのを知っておられたのです。そして、聖書が成就するために「わたしは乾く」と言われたのです。

ご自分が為すべき救いの働きは完了した! あとはすべての人々が信仰によって十字架につながり、復活につながることを願うだけです。
乾くとは、乾き求めるという意味でイエスさまは語られたのだということです。

自分は救いの業を完全に成し遂げ、あとはすべての人が信じて救われることを乾き求める!と言われたのです。

キリストはあなたが十字架の死と復活の力を体験することを切に求めておられます!
キリストは信仰によってあなたの古い人が十字架で完全に滅び、神の子どもとして輝いて生きることを乾き求めておられるのです。私たちも同じように何にも増して、キリストの十字架と復活のいのちに生きることを飢え乾いて求めましょう。

【完了した】

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」ヨハネ19章30節

完了した!テテレスタイとイエスさまは言われました。十字架の最後のことばです。
これは完了形の受動態なので「支払われた」と訳することができます。
マタイ福音書では最後に大声で叫ばれれてから息を引き取られたとあります。(マタイ27章50節)マタイ福音書ではその直後に神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとあります。罪の代価が完全に支払われたのです!人類を罪と滅びに縛り付けていた負債が全てキリストのいのちによって支払われたのです!
栄光の神を覆っていた幕が取り除かれました。キリストの贖いを信じるものは誰でも罪のない神の子とされたのです!救いに必要な全てをキリストが支払い、私たちはただ信じるだけで良いのです。

キリストがご自身のいのちを差し出して開いて下さった救いの道、神との自由な関係を私たちは信じましょう。信仰によって、さらに神のみ座に大胆に近づきましょう。
神を求めれば求めるほど、神はあなたに近づいて下さるのです!
もし神を遠くに感じるなら、それはあなたが神を求めないからです。
キリストが支払いを済ませて下さったのです。
その前は律法による義人の祈りしか聞かれませんでした。神殿で犠牲を捧げなければなりませんでした。祭司による執り成しがなければ、ユダヤ人でも自由に神に礼拝を捧げることは出来ないのです。祈りが聞かれるには、何かしらの行いが必要だったのです。
ところがキリストが支払われたのです!支払ったと叫んで下さったのです!
私たちは恵の世界に活かされているのです。信じて神を求めましょう。呼び続けましょう。主は求めるものに近くおられるのです!

この驚くべき恵の世界に、ご自身のいのちによって私たちを招いて下さった主イエスを心から礼拝しましょう!大切なひとり子を私たちの救いの為に遣わされた父なる神を心から崇めましょう。キリストの赦しといのちを私たちの内に実現される神の聖霊を心から歓迎し褒め称えましょう。