「良きサマリヤ人のたとえ」

今週からイエスさまのたとえ話から信仰を学びたいと思います。

【愛しなさい。そうすれば、いのちを得ます】

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。 『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができる で しょうか。』イエスは言われた。『律法には、何と書いてありますか。あなたは どう読んでいますか。』すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、 思いを尽 くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あ なたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イ エスは言われ た。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 ルカ10章25-28節

最近、ある心理学の本を読みました。その中に人間が抱える悩みはすべて対人関 係の悩みであると書かれていました。対人関係が円満であるなら、人間 には悩 みがなくなるというのです。少し極論かもしれませんが、とても面白いと思いま した。

イエスさまは、どうしたら永遠の命を得られるのか?の質問に対して、聖書の本 質を行うこと、すなわち愛に生きることだと答えています。

悩みの話に戻りますが、どうしたら愛される人になれるか?どうしたらみんなか ら愛されるか?同じ愛でも、どうしたら愛されるか?と、愛されること を求め 始めると、私たちは底なしの悩みが始まると思います。

人から愛されたいと誰もが思います。それは正直な欲求です。
しかし、人から愛されようとすればするほど、私たちは人目が気になり、自分の 言動が気になり始めます。気に入られよう、愛されようと相手の喜ばれ るよう に行動し、話そうとすると大きなストレスになります。また本心を時には偽り、 演技することになります。
愛されたいと誰もが思うのですが、愛されたいと願うほど悩みを抱えることにな ります。

聖書は愛される人間になれ、そこに幸せがあるとは一言も教えていません。
ただ「愛しなさい」としか書いてありません。
私たちが聖書が教え、イエスさまの示した愛に生きるとき、本当のいのちを得る のです。

愛されることではなく、愛することを私たちは真剣に求めましょう!
そこにはいのちがあります。自由と解放、本当の自分らしさは実に愛する中にあ ります。



【隣人とは誰か?】

「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人 とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エ ルサレ ムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎと り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司が ひとり、その 道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人 も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行っ た。ところが、ある サマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄っ て傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいを し、自分の家畜に乗せて宿 屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の 主人に渡して言った。『介抱してあげてくだ さい。もっと費用がかかったら、 私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になっ たと思いますか。」
 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言 われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』 ルカ10章29-37節

イエスさまに質問した律法の専門家は、自分に自信があったようです。
イエスさまに自分のことを認めさせたい下心があったようです。
それに対してイエスさまはたとえを用いて答えられました。
直接、あなたの愛は不完全です!とか、あなたは愛の人とは言えません!と言う なら喧嘩になってしまうでしょう。たとえを通して律法の専門家、また このた とえを聞く私たちも含めて愛とは何かを考えさせるためにたとえを語られたので した。

エルサレムからエリコに下る坂道、とても長い坂道です。途中で海抜を表示する 標識が今は置かれています。長い長い坂道で、道の両脇は荒涼とした場 所です。
イエスさまの時代、救急車もない時代ですから、町から離れた場所で瀕死の重傷 者を助けることは大変だったと思われます。祭司やレビ人が登場します が、彼 らも律法の専門家と同じ聖書のことばを良く知っていた人たちです。ところが同 じユダヤ人が瀕死の重傷を負って倒れていても、見えない振りを して通り過ぎ ていってしまいます。

愛の反対は無関心、無視だそうです。助けを必要としている人がいながら、彼ら は無視して通り過ぎました。彼らが無視した本当の理由、それは自分の 利益に ならないと思ったからではないでしょうか。

しかし、ここにイエスさまはサマリヤ人を登場させます。
サマリヤ人とユダヤ人、本来は同じイスラエル民族でありながら仲たがいする関 係です。
今のパレスチナ人とユダヤ人の関係に近いかもしれません。それほどに犬猿の仲 でした。
しかしこのサマリヤ人はユダヤ人であるかないか関係なく、自分にとって何の利 益もないのに男性を助けます。もちろん、これはたとえ話です。もしか した ら、本当にあった話かもしれませんが。どちらにしろ、イエスさまはたとえ話を 通して伝えたいことがありました。それは、本当の愛の姿であると 思います。 愛は、人が見ているから行う、見ていないなら助けないというものではありませ ん。またユダヤ人だから、サマリヤ人だから愛さないのでも ありません。愛は 見返りを求めず、敵、味方の区別なく愛するものなのです。
律法の専門家には、このような愛を知りませんでした。
しかし聖書が求めている愛は、このサマリヤ人が行った愛なのです。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかまし いどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物 を持っ ており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完 全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありませ ん。また、た とい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼か れるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちませ ん。愛は寛容であ り、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒ら ず、人のした悪を思わ ず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべて を期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶 えることがありません。」第 一コリ13章1-8節

イエスさまは律法の専門家だけでなく、私たちにも「あなたも行って同じように しなさい」と言われています。

【あなたも行って同じようにしなさい】

イエスさまは難しいことを求めています。愛されることをは誰もが願います。
しかし、聖書の愛、アガペーを行うことを求める人は少ないでしょう。
そして聖書の愛を実践しようとすればするほど、自分には愛がないことが分かり ます。

どうすれば神の愛に生きられるのでしょうか?良きサマリヤ人のような愛を実践 できるのでしょうか?そもそも良きサマリヤ人のような人がいるので しょうか?

良きサマリヤ人、そのモデルはイエスさまご自身だと思います。
イエスさまこそ、ご自分の利益にならないのに、ただ私たちの救いのためだけに 十字架を背負われ、苦しまれたのですから。神の子であられるのに、そ れを捨 て、人となり、罪びとの代表にまでなって私たちを救われたのです。

「あなたも行って同じようにしなさい」、これはイエスさまと同じように愛の生 き方に私たちを招いている言葉だと確信します。

それにしても、どのようにすれば?イエスさまのように神の愛に生きられるので しょう?

@神の性質を受けることによって


「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。 生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者 をも愛 します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが 神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛すると は、神の命令を 守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、こ れこそ、世に打ち勝った勝利です。」
第一ヨハネ5章1-4節

律法の専門家は聖書の中で最も大切な戒め、人にいのちを与える神のことばを 知っていました。しかし、彼は知りながらも行えませんでした。知識だけ では 人を救うことはできません。知っているだけでは、神の愛に生きることは出来な いのです。

まず神の愛を受けることです!愛された者だけが、愛することが出来ます。
私たちには神の愛の完全な現れであるイエスさまが救い主として与えられました。
イエスさまを信じるとは、神の愛を受け入れることです!
神のことばである聖書、そして神の霊によって、イエスを信じる者は神の子と変 えられます。神の愛の性質が与えられるのです。

A神とともに歩むことによって

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがた に告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分 からは 何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうの です。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子 にお示しにな るからです。」ヨハネ福音5章19.20節

イエスさまの力の源、それは父なる神との親しい関係にありました。
イエスさまは祈りの中に、父といつも親しい語り合い、父の心に触れていました。
父の心と一つになること、父の思いを自分の思いとすること、父を愛することが イエスさまの愛の原動力でした。

まず大切な戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くし て、あなたの神である主を愛せよ。」でした。愛の源である方と親しく、 心と 心で交流を持つこと、これ無しには愛に生きることはできません。愛の神に近づ けば近づくほど、私たちは愛に生きると確信します。