「キリストの愛の教え(1)」

【聖書を成就するために来られたキリスト】

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄
するためにではなく、成就するために来たのです。」マタイ5章17節

今日は山上の説教を分かち合う三回目になります。
イエスさまの教えと働きは当時のユダヤ人にとって、とても新しく見えました。
安息日でも人を癒やされる。それは安息日を厳守していたパリサイ人には聖書を
否定する行為に見えました。またイエスさまは宗教家から見ると罪深い 者、神
から遠く離れた者と思われていた取税人や売春婦たちにも分け隔てなく接し、神
の恵みを伝えていました。
イエスさまの教えと行為を、聖書を否定するものだと不快に思う宗教家もいたの
でしょう。イエスさまはハッキリと「わたしが来たのは律法や預言者 (当時の聖
書を指していることば)を廃棄するためだと思ってはなりません」と言われたの
です。
聖書を廃棄するどころか、イエスさまの教えと働きは、聖書の本質、その精神を
実現していると言われたのです。

皆さんは、聖書をどのように読まれていますか。聖書を読んで、どのように感じ
ておられますか。特に旧約聖書、イエスさまの当時は旧約聖書(律法と 預言者)
しかありませんでした。

旧約聖書の感想を聞くと、「難しい!」「神さまが怒っている、厳しい!」
「愛の神だと思えない!」などの否定的な感想をよく聞きます。

しかしダビデは聖書についてこのように感想を述べています。

「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のした
たりよりも甘い。」詩篇19章10節

ダビデが読んでいた聖書と、私たちが手にしている聖書は違うのでしょうか。
同じ聖書です! 同じ聖書なら、なぜこのように読んだ感想、印象が違うので
しょう。

聖書の読み方が違うのです。何を通して聖書を読んでいるか?
それが大きく聖書を歪めてしまうのです。

最初から神と奇跡を否定して聖書を読むなら、聖書は古代人の神話になります。
また、現代の常識、日本人の考え方を通して聖書を読むなら、非常識、文化習慣
のまったく違う、難解な書物になるでしょう。

【何を通して聖書を読むのか?】

私たちキリストの弟子は、イエスさまの十字架と復活を通して聖書を読みます!
イエスさまの愛と赦し、恵みを通して聖書を読むのです!

イエスさまの十字架と復活によって表された、神の愛と恵み、赦しなしに聖書を
読むこと、特に旧約聖書を読むことは出来ません!

旧約時代、神に選ばれた大祭司であっても神のおられる幕屋、幕屋の中でも最も
神聖な至聖所には年に一度しか入ることが赦されていませんでした。
それも必ず牛と山羊の犠牲の血を携えて至聖所に入らなければなりませんでした。
それは犠牲の血を贖いの蓋に塗るためでした。
贖いの蓋とは十戒を収めた契約の箱の蓋のことです。贖いの蓋の上には一対のケ
ルビムが置かれています。ケルビムは天使です。神をお乗せする天使で あり、
罪を犯したアダムとエバが再びエデンの園に入り、いのちの木から食べることが
ないように園を守る番人でもあります。ケルビムは屈んで贖罪蓋 を見守ってい
ます。
十戒を完全に守る者だけが、罪無き者、神と顔と顔を合わせて交わりを持つこと
が出来るのですが、誰もいません!犠牲の血によって、十戒を覆わなけ れば、
だれも神と交わりを持つことは出来ないのです。

イエスさまの十字架と復活、その愛と赦し、恵みを通してでなければ聖書の戒め
は私たちを裁き、いつも神の前に相応しくないことを示します。キリス トの十
字架なしに、いのちの木に進むことは出来ないのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄
するためにではなく、成就するために来たのです。」マタイ5章17節

キリストの十字架の血を信仰によって受けている者には、戒めは裁きではなく、
いのちの道への道標に変わります!

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐこ
とがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私 の身も
また安らかに住まおう。」詩篇16章8.9節

ダビデはいつも信仰によってキリストを見ていました。キリストを通し全てを見
ていました。すべてが命の道に変わりました。

私たちも、聖書を読む時、イエスの愛を通して、恵みを通して聖書を読みましょう!
すでに完全な赦しを私たちは受けています。完全な勝利者、すでにキリストとと
もに天に置かれている者として聖書を読みましょう。
【パリサイ人にまさる義】

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサ
イ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、は いれま
せん。」マタ5:20

律法学者、パリサイ人、当時の宗教家たちはイエスさまの赦し、恵み、愛を受け
入れませんでした。彼らはイエスさま無しに聖書を読んでいたので、神 さまの
いのちに出会うことはありませんでした。

イエスさま無しに聖書を読むと、禁欲の勧め、努力と修行の勧めになり、どんな
に頑張っても満たされることはありません。自分を裁き、他人の罪を裁 き、い
つも惨めな思いから解放されることはありません。

パリサイ人はそれを誤魔化すために、聖書を表面的に読み、自分に都合が良いよ
うに付け足して解釈していました。どんどん神さまの心から遠くなって いった
のです。
私たちもイエスさま無しに聖書を読み、良い人になろうとするならパリサイ人と
同じ過ちを犯してしまうでしょう。

パリサイ人や律法学者、宗教家の正しさに勝る正しさ、それはイエスさまを受け
入れることです。イエスさまの愛を知り、イエスさまの愛を体験するこ と。そ
こから始まります。
宗教家のように聖書を読むのではなく、イエスさまのように聖書を読み、イエス
さまのように聖書の教えを守りましょう!そこにいのちがあり、そこに 自由と
解放があります!

それではイエスさまがどのように聖書をよみ、どのように聖書の教えを実践され
たのか見てみましょう。

【人を殺してはならない!=すべての人を敬い、大切にする】

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければな
らない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わた しはあ
なたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けな
ければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者 は、最高議会
に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込
まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとして いるとき、もし兄弟
に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置い
たままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲 直りをしなさい。それか
ら、来て、その供え物をささげなさい。」マタイ5章21-24

「人を殺してはならない」、これは有名なモーセの十戒にあります。
人を殺す、これが大きな罪であることは議論の余地はありません。
ただ聖書には「殺人」と正当防衛や、事故や過失による死、刑の執行による処刑
は使われていることばが異なります。十戒で罪とされている殺人は犯罪 による
殺人です。

パリサイ人や律法学者は「人を殺してはならない」を単に生理学上の死という意
味での殺人としてしか捉えていませんでした。殺したら、裁判を受けな ければ
ならない。
もちろん日本の法律も同じだと思いますが。

しかし、いのちの君であるイエスさまは、この箇所をそのような最低限のレベル
で理解するようなことはされませんでしたし、ご自分に従ってくる者に もその
ような理解でとどまることを許されませんでした。

「人を殺してはならない」をもっと、もっと高いレベル、人を高め、生かす解釈
をされました。

殺人を犯したものが裁判を受けるのではない!

「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡され ます。
また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

これはもちろん誇張された表現です。文字通りに受け取るべきではありません。
しかし、イエスさまの伝えたいことを私たちはしっかりと受け止めなければなり
ません。

イエスさまはどんな人に対しても見下げたり、価値を引き下げてはならないのだ
と厳しく私たちを教えて下さっているのです。

隣人を見下げること、価値を引き下げること、それは相手を生かすことにはなら
ない。
それは程度は違っても殺人と変わらないのだと言われるのです。
それゆえ、「殺してはならない」という戒めは、積極的に相手の価値を高めるこ
と、相手を敬うこと、相手の良い所を見出そうとすることによって初め て守ら
れるのです。

これがイエスさまの解釈、これがイエスさまの人を見る見方なのです。

どんな人とも良い関係を築くこと、それは神殿で犠牲を捧げることよりも神が喜
ばれることなのです!

隣人を罪人と蔑み、同じ信仰者同士だけで集まり、自分たちだけが正しいと思っ
ているパリサイ人の礼拝を神は喜ばれませんでした。

私たちクリスチャンも、イエスさまから目を離すと、同じ過ちを犯しやすいもの
です。
気を付けましょう。イエスさまのいのちの道を歩みましょう!
また、ここまで隣人の価値を引き下げることを厳しく戒める方は、私たちをも先
ずそのように扱ってくださっていることを覚えましょう!

私たちは神の目には罪人、神に背を向ける者でした。神を疑い、神の言葉に背
き、神から隠れていた者であり、もともとは土から造られ、死んだら土に 帰る
価値の無いものです。
そのような私たちに対して、神は決して蔑み、バカにしたり、価値を引き下げる
ことはなさらないのです。神ご自身が私たちを追い求めて下さり、最も 大切な
ひとり子のイエスさまを与えて下さいました!神はいつも最善の愛と好意をもっ
て、私たちのために私たちを愛して下さっているのです。

この愛を受けた私たちは、イエスさまがされたように隣人に対して愛と赦しを行
うことが求められています。このようにして神の愛が世界を満たしてい くこと
を神は願われています!