「安息日」聖書箇所:マタイ福音書12章1-14節

【安息日とは何か】

「すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。『ご覧なさい。 あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。』」 マタイ 12章2節

旅人が他人の麦畑の穂を摘んで食べても律法では罪になりません。(申命記23:25 参照)
律法には旅人や貧しい人を保護することが書かれています。
パリサイ人が罪だと指摘したのは、その行為ではなく、それを行った時でした。
安息日にはいかなる労働も禁止されていたからです。
パリサイ人は麦の穂を摘むことさえも労働と見なして、厳しく責めてきたのです。

安息日とは何でしょうか。

安息日はモーセを通してユダヤ人に与えられた十戒の四番目の戒めです。
十戒は出エジプト記の二十章に書かれています。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての 仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息で ある。 あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それに あなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中に いる在留異国人 も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのも のを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、 主は安息日を祝福し、こ れを聖なるものと宣言された。」出エジプト20章8-11

安息日は、本来、神が神の民に与えた喜びの日でした!
「聖なる日とせよ」とある通り、安息日は神を礼拝する日です。神の喜ばれるこ とを行い、神と親しい関係を深める喜びの日でした。そして、安息日は 霊・魂 の喜びだけでなく、体にとっても喜びの日です。一日、ゆっくりと体を休めるこ とが定められたからです。

肉体には休息が必要です。一日、人によっては違いますが八時間の睡眠が必要で あり、一週間のうち一日はゆっくりと過ごす、労働から解放された日が 健康の ために欠かせません。
安息日は神が、人の霊的・精神的・肉体的な健康のために定めて下さった喜びの 日です。

これはユダヤ人だけのものではなく、奴隷や家畜、外国人、全てに適用されるも のでした。労働者に、労働者だけでなく、家畜にも休む権利と必要性を 神は認 められたのです!
律法は神からの霊的な法であることが良く分かります。愛と知恵に満ちています。

律法は多くが「〜してはならない」と否定表現で書かれていますが、その目指し ている事はすべて愛です!律法は本来、私たちを罪と滅びから解放す る、つま り自由を与えるために神が与えて下さったものなのです。
「戒め」と言うと、何か自由を奪い、束縛するもののイメージがあります。
しかし、それは大きな間違いです!イエスさまは律法の本質をこのように教えら れました。

「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし て、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めで す。『あ なたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じよ うにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めに かかっているの です。」マタイ22章37-40節

律法が目指すものは愛と自由であり、安息日も本来、愛と自由、そして喜びを神 の民に与えるためのものだったのです。

【律法主義者パリサイ人】

しかし、この本来は神の民に愛と自由を与えための律法、安息日を、束縛と苦痛 の日に変えてしまった者たちがいます。それがパリサイ人たちです。

パリサイ人は安息日にしてはならないことを、聖書が言っている以上に厳しく定 義しました。安息日に移動して良い距離までも定め、それを超えた者を 罪人と 責めたのです。
これは今日のイスラエルでも見られることです。ホテルのエレベーターに乗る と、安息日は各階に止まるように設定されています。それは自分が止まる 階の ボタンを押すことさえも労働とみなされるからです。安息日にはしてはならない 行為なのです。
(※安息日でも普通に使える外国人用のエレベーターもあります)

ここまで厳しく安息日の行動が定義されると、息が詰まります!安息日は罪のリ スト表をもって自分の行動を一つひとつチェックしなければならない苦 痛の日 になります。

頑張っている人は、頑張っていない人を見ると怒るように、パリサイ人は、喜ん で安息日を過ごしているイエスさまとその弟子に向かって苛立ち、彼ら を罪人 と責めました!

パリサイ人たちの信仰、それを律法主義と呼びます。
律法を守ることによって、神の前に自分の正しさをアピールする人たちです。
パリサイ人たちは旧約の律法、六一三もの戒めがあると言われていますが、それ らを全て覚え、行い、さらに独自の戒めまで付け加えて守っていまし た。
パリサイ人たちは自分たちは神の前に正しいと確信を持っていました。
だからイエスさまの恵みや赦しを必要とせず、イエスさまを救い主として受け入 れなかったのです。

しかし、パリサイ人は本当に律法を守っていたのでしょうか?答えはNo!です。
彼らは表面的には律法を守っていたかもしれません。しかし律法の精神である愛 を見失い、心は神から遠くはなれていたのです。彼らは生ける神に忠実 なので はなく、自分たちが勝手に作り出した宗教に忠実でした。
本来、人々を神に導くための宗教がかえって人々を神から遠ざけ、人々の魂を苦 しませる重荷となることがあります。当時のパリサイ人もそうでした。
宗教が真の神を見失い、人々を愛ではなく敵意や差別、束縛に人を駆り立てるこ とがあります。キリスト教も同じだろうと言われるでしょうが、確かに 宗教の キリスト教も同じ過ちを犯します。

宗教とは人からの神の道です。何らかの真理は含まれるでしょう。
しかし的外れの人間は、決して神に辿り着くことがないように、宗教に救いはあ りません!

救いは人から神の道ではなく、その反対です!
神から人への道、神から人へ与えられた恵みの道、それが真の救いの道です。
その道とは、救いのために人となられた神、イエス・キリストであると私たちは 信じるのです。

イエスさまは人々を間違った宗教、宗教が課す重荷から解放するためにも来られ ました!

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わた しがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだって いるか ら、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば たましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11章28-30節

パリサイ人が導く宗教的な教えによって疲れ、重荷を負わせられている人々に対 して、イエスさまは癒やしと回復を約束されています!

これは今日、さまざまなカルト団体や宗教団体の間違った教えによって神に疲 れ、神に失望しているすべての人に対して語られていることばでもありま す。

イエスのもとには、神との真の和解があり、神の安らぎがあります!

イエスさまは「わたしに学びなさい」と言われます!
聖書の本当の解釈は、イエスさまの生き方にあります。
イエスさまが父なる神と親しく交わりを持たれたように、私たちも父なる神を知 るならたましいに安らぎ訪れます。イエスさまが律法を守られたよう に、イエ スさまの心を知って、同じように律法を守る時、律法は愛と自由、喜びを私たち にもたらすのです。

あなたは神に疲れていませんか?教会生活が重荷になっていませんか?
イエスさまから目を離し、表面的、形だけの自力で頑張る信仰生活になってはい ませんか。
主イエスを見あげましょう!主イエスから愛と本当の自由を学びましょう。


【イエスさまのように安息日を喜ぶには】

イエスさまのように、安息日を喜ぶにはどうすればよいでしょう。
どうしたらパリサイ人のようにならず、聖書の戒めからも自由と解放を得られる でしょうか。信仰生活が神の意図した通り、自由と喜びに満ち、愛の実 を豊か に結ぶにはどうすれば良いでしょう。

@戒め(聖書の教え)の本質にいつも焦点を当てる。
文字通りではなく、原則は何かを考えながら読む。

聖書は大切な教えは何回も繰り返し書かれています。安息日も、新約聖書に初め て登場したのではなく、旧約聖書、それも創世記、神が世界を六日間で 創造さ れ、七日目に休まれたことから安息日は始まりました。この安息に関する思想は 聖書を貫いています。
安息日、安息年、そして五十年ごとに訪れるヨベルの年になります。ヨベルの年 は借金が全て免除され、奴隷の者は解放され、土地を失ったものは回復 される という驚くべき恵みの年、この年は前年の安息年も含めて二年間、労働から解放 される年です。
これらは全てイエスさまが再臨される時に起きる救いの完成を予め示した型です。
安息日は毎週、そのことを覚え、安らぎ、神と交わる日なのです。
しかし、聖書には安息日についてしてはならない禁止事項も書かれています。

安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならな い。  出35:3

また民数記15章には、安息日に薪を集めていた男性が、石打の刑で処刑されるこ とが書かれています。

この戒めや、刑罰の記述だけを読んで安息日を理解しようとするなら、パリサイ 人のように安息日は恐ろしい日にしかなりません。聖書全体が安息日に ついて 何と言っているかを知る必要があります。これは他の戒めも同じです。

安息日に薪を集めて殺された男性もいますが、その刑罰を安息日を破る全ての人 に適用したらどうなるでしょう?みんな石打にあって殺されているはず です。
出エジプトの35章は、そうせざるを得ない背景があったのであり、全ての人に適 用することは間違っています。これは安息日の本来の目的を見失うと ころから 来ています。

聖書が書かれたのは二千年、三千年も前の文化も民族も異なる人によって書かれ たものです。一つの箇所だけを文字通り、今日の私たちに適用すること は出来 ないのです。
この箇所は何を自分たちに教えようとしているのか、今の自分に適用できる原則 は何かを祈り求めながら、読むことが不可欠です。


Aご利益宗教的な考えを捨てる! 良い子でなければ愛されない思考を捨てる

パリサイ人、律法主義者は行いによって救われると考えました。
頑張り、努力し、神の受け入れる標準に達しなければ救われないと思ったのです。
もし、それが本当ならば、イエスさまは十字架で死ぬ必要はありませんでした。
だれひとり、努力や修業によっては救われないのです。
人が救われるのは一方的な神の恵みによります!これが神の道です!

良い子でも救われ、良い子でない子も救われるのです!
神はイエスさまによって、全ての人を愛していることを示され、ご自分の子ども として受け入れることを示されたのです。クリスチャンも愛される、ク リス チャンでない人も、神は同じく愛し、祝福して下さるのです!

神の恵みを見失うと、聖書は自分を苦しめる苦痛の本になります。
恵みを見失ったキリスト教はパリサイ人の宗教と変わらなくなります。

私たちは既にキリストによって、罪赦され、救われ、天においてキリストととも に父の右の座に着いているのです!神の愛に満たされ、押し出されて歩 むのが クリスチャンライフです。

Bイエスさまを模範とする

イエスさまは律法を完全に守られ、その生涯で罪を一つも犯されなかった唯一の 方です。イエスさまはパリサイ人のように表面的に律法を守られたので はな く、律法の精神に忠実でした。律法の精神、聖書の中心とは愛です!愛に生きる 者は決して律法を破ることはないのです。

イエスさまの力の源は礼拝にありました。いつも荒野に退き、父なる神との親し い交わりの時間を保たれました。私たちもイエスを通して、天の父と親 しい交 わりを持ち、父の心に触れ続けるなら心は愛で満たされます。
私たちには自分の力で愛に生きることは難しいです。しかし、心が神の愛で満た され、その溢れる愛で隣人を愛することは決して難しいことではありま せん。
イエスさまがいつも父と交わりを持たれたように、私たちも毎朝、自分の一番良 い時間に神との交わりを持ちましょう。神の愛を求め、満たされましょ う。

イエスさまがどのように地上を歩まれたのか、聖書を通して学ぶことも大切です。
イエスさまならどうされただろうか?イエスの弟子である私たちは、イエスさま のように感じ、考え、行動することを求めましょう。
Cキリストによって自由にされた人の考え方、生き方

 6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわ けではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんな ことにも 支配されはしません。第一コリント6章12節