「わたしは罪人を招くために来た!」聖書箇所:マタイ9章9-13節

今週もマタイ福音書から分かち合います。聖書の箇所は先週に続いています。
この箇所も先週と同じく、なぜイエスさまが来られたのか、イエスさまが来られ
た目的がテーマになっています。イエスさまが来られた目的、それは 「罪人を
招くため」です。
これが福音(良い知らせ)の本質です。これが恵みです!この箇所を深く心に刻み
ましょう。

【収税人マタイの救い】

「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという
人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると 彼は立
ち上がって、イエスに従った。9節」

これは福音書の初めに置かれているマタイ福音書を書いたマタイ自身の救いと献
身の記事です。マタイは収税人でした。収税所で仕事をしている時に、 イエス
さまに声を掛けられて、そのままイエスさまの弟子になりました。

ちょっと想像できないことです。税務署で仕事しているのに、仕事も直ぐに辞め
てイエスさまの弟子になるとは!? 同じく弟子のペテロにしても、マ ルコ福音
書では直ぐに網も舟も捨ててイエスさまに従っていますが、ルカの福音書では大
漁の奇跡を通して救われ、イエスさまに従ったことになってい ます。これは想
像ですが、マタイもイエスさまに従う前に教えを聞いたか、またペテロのように
奇跡を見て信じていたのかもしれません。

ある映画では、ルカ福音書の18章9-14節のたとえ話をイエスさまがマタイの務め
る収税所で説教し、感動してイエスを救い主、主と受け入れたこ とにしていま
した。
※収税所と言っても、建物の中ではなく、カペナウムの町に入ってくる人や物品
に通行税や関税を掛ける関所のような所だと考えられます。

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスは
このようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上っ た。ひと
りはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の
中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆす る者、不正な
者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝しま
す。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十 分の一をささげて
おります。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、
自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の 私をあわれんでくださ
い。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサ
イ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を 高くする者は低くされ、自分
を低くする者は高くされるからです。』」ルカ18章9-14節

映画の中では、取税人の祈りが実はマタイが神殿で、神に向かって、心の中で
祈っていた祈りであり、マタイはその祈りをイエスさまが聞かれていたこ とを
知り、イエスさまを真の神と信じる設定になっていました。これは一つの想像に
よる解釈ですが、とても興味ふかいと思います。イエスさまは、確 かにマタイ
の心の叫びを聞かれていました。

イエスさまはマタイの心の叫び、心からの祈りを聞かれたように、私たちの心の
叫びもひと言ももらさずに聞き、受け入れて下さるお方です。

神が私たちの祈りを聞いてくださること、心の苦しみ、痛みさえも聞いてくださ
ること、これは信仰者の大きな慰めと励ましになります。
詩篇の作者たちは自分の悩み、苦しみを神が聞いて下さることに励ましを得てい
ました。
パウロはローマ人への手紙の中で、聖霊は私たちの祈りの言葉にすらならない呻
きや苦しみさえも神にとりなして下さるとあります。

苦しみは分かち合うことによって、心から聞き、受けて入れてくれる人格に分か
ち合う時に軽くなります。イエスさまはマタイだけでなく、私たちの心 の痛
み、苦しみをともに背負うために来て下さいました。

ぜひ心を神に向けて祈って下さい!あなたの重荷を負うために来られたイエスさ
まを思って、心を神に注ぎ出して下さい。上手く祈る必要はありませ ん。うめ
き声でも、つぶやきでも聖霊は受け止めて下さいます。祈ると心が軽くなりま
す!祈ると心に力を受けます。
それが信仰によって私たちに与えられる力です。

【マタイの家での食事会:エクレシア(教会)の姿】

「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来
て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。10節」

これはマタイの家で持たれた食事会と考えられています。マタイが仕事を辞め、
これからはイエスの弟子として歩んでいく。職場の同僚、収税人仲間を 集めて
のお別れ会です。
マタイは自分を弟子と選んで下さったイエスさまを、友人や同僚、家族や親戚に
も知って欲しかったのです。たくさんの人々を招きました。

イエスさまはマタイを受け入れたように、マタイの友人、同僚も受け入れて下さ
り、彼らと一緒に食事されたのです。ユダヤの文化では、食事に招く、 ともに
食事するのは家族、また親しい友だけです。一緒に食事するとは、その人を大切
な人、友人として受け入れた印なのです。

ここに大きな喜びがありました!

マタイを初め、他の収税人もイエスさまとの食事の交わりを心から喜びました。
イエスさまに友として受け入れられたこと、ここに喜びがありました!

取税人、そして罪人と呼ばれている人たちは、当時のイスラエルでは同じ国民と
認めてもらえませんでした。なぜなら外国のために同国人から金を集 め、本来
の徴収額以上に高額の税金を要求し、払わなければ暴力を振るうヤクザや暴力団
のような人たちだからです。
罪人と呼ばれている人たちが具体的にどのような人たちなのか分かりませんが、
売春婦などのような裏の社会で生きている人たちと考えられます。

なぜヤクザな取税人になったのか?お金が欲しかったから、自分からなったのか?
親の借金を返すため、何らかの理由でお金が必要だったから?いろいろな理由で
収税人になったのでしょう。人から憎まれ、恨まれる。人として受け入 れても
らえない。
それでももう辞められない。新しい人生など送れるはずがないと諦めていた収税人。
しかし、イエスさまは彼らを受け入れて下さった!友人としてだけでなく、マタ
イのように大切な弟子として受け入れて下さった!大きな喜びがありま した。

これがエクレシア(教会)の姿です!

この世の中では受け入れてもらえない人々、価値を認められない人々であって
も、教会はその人の、神にある価値を見失うことなく受け入れる場所で す。

私たちの人を見る目が、決してこの世の中と同じであってはならないのです!
この世の中は、自分にとって価値がある、自分にとってプラスになる人としか付
き合いません。しかし、教会は自分にとって価値があるという視点では なく、
神の視点、全ての人は神のイメージ、神の似姿としての価値があり、イエスがご
自身のいのちを支払うほどに貴い存在であるという視点で人を受 け入れる場所
でなくてはならないのです。

インドのカルカッタで活動したマザーテレサは多くの貧しい人々に対して愛と支
援の働きをされました。彼女は貧しい人々、宗教の違う人々、決して差 別する
ことなく助けました。
彼女はどんな貧しい人、家族から見放されたホームレスでも、その人の中にイエ
スを見ると言いました。彼女はどなん人でも、その人をイエスさまに接 するよ
うに接していたのです。素晴らしい態度、素晴らしい視点です。これは神が私た
ちを見ておられる視点と同じです。

誰もが神の似姿!誰もがイエスさまに似た者として、神ご自身が人をデザインさ
れたのです。しかし、この大切な価値が見失われているのです!
この世の偽りの価値が、一番大切な神にある価値を見失わせているのです。
自分の本当の価値を回復する場所、それがイエスにある交わり、エクレシア(教
会)です。

私たちは、このような失われた価値を再発見する共同体を目指しましょう。
そのためには、私達自身が、自分をこの世の中の価値で判断しないことです。
何が出来るか出来ないかで自分を裁くことを止めましょう。自分がどれほど神に
愛され、神のイメージにデザインされ、イエスさまのいのちで買い戻さ れたの
です。
神の揺るがないことばの上に、自分自身を建て上げる時、私たちは他の人々をも
引き上げる者になります。

【パリサイ人の非難】

「すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、
あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのです か。』11節」

パリサイ人は取税人や罪人とは一切、付き合いをしませんでした。一緒に食事を
する、家に招くことなど考えられないことでした。
パリサイ人の考えは、悪い人と付き合うと、自分が汚れる。汚れたものと一切関
わりを持たないことによって、自分を清く保つというのが彼らの考え方 でした。
パリサイという名称も「分離された者」を意味するヘブル語パールーシュに由来
するとされています。この考え方は旧約聖書のレビ記に由来すると考え られて
います。

「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、
聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生 するも
のによっても、自分自身を汚してはならない。」レビ11章44節

この世の汚れたものから離れることによって、自分をきよく保つ。これは聖書的
な考え方です。しかし、パリサイ人の生き方、考え方は神のみこころに 適って
いるでしょうか。
私たちはこのことを良く考え、理解しなければなりません。

教会は誰でも受け入れる!しかし、悪人、罪人がたくさん教会に来て、ありのま
まで愛されるとなったら教会は堕落してしまうのではないか?悪に流さ れるの
ではないか?そのように心配する人がいます。教会の質を維持するために、自分
たちの教会に相応しくない人を受け入れない教会も実際にありま す。しかし、
これはパリサイ人的な教会です。
しかし、またあらゆる人を受け入れることによって、教会の霊性が引き下げられ
る心配は実際に考えられることです。私たちは教会のきよさを保つため にどの
ような態度を保つべきでしょうか。イエスさまはどのように考えられたのでしょう。

この中に自分の子どもが泥遊びをして、手が泥だらけになって帰ってきた時、
怒って泥が付いた手を切り落とす人はいるでしょうか?一人もいないはず です。
手まで切り落とす必要はない、そんなことは考えられないからです。
汚いのは手ではなく、手についた泥です。手と泥を分けて考えなければならない
のです。

神は罪を憎みます!徹底的に、妥協せずに罪を罰します。しかし、罪人は愛され
ます!
憎むべきは罪の行いであって、罪人ではないのです。
罪人は、大切な神の子どもとして受け入れ、しかし、罪の行いは受け入れない厳
しさを私たちは持つべきです。これが神の愛と義を保つために大切で す。

罪人を罪とともに切り捨てることなく、また罪人の罪に流されることのない、誰
でも受け入れながら神のきよさを損なうことのないエクレシア(教会) を目指し
ましょう!

【医者を必要としているのは病人】

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、
病人です。」

これは誰が聞いても当たり前のことです!しかしパリサイ人も、パリサイ人的な
クリスチャンもまったく反対のことを人に、そして自分にも求めてしま います。
それは、自分で病気を直してから、神の前に出ようとすることです。

罪深い行いを止めたら、クリスチャンのようになったら教会に来て良い、クリス
チャンになって良いと勘違いをしているのです。病人が自分で病気を直した
ら、医者のところに来て良いのと同じ間違った考えです。

パリサイ人、そしてパリサイ人的なクリスチャンの一番悲しいところは、癒して
下さる神を知らないことです。神の前に安心して自分を委ねることが出 来ない
ことです。
彼らは神に頼らず、自分の努力にこそ信頼しているからです。

天の父は、私たちの努力や頑張りよりも遥かに優れた方です!
自分できよいクリスチャンを演じなくて良いのです!ありのままで良いのです!
ありのままで良いとは、罪深い行為を続けて良いという意味ではありません。
自分の罪を神に、信頼できるメンターに分かち合いながら、神の愛とみことばに
信頼し、聖霊の癒やしに委ねることです。神のいのちを受けることが治 療で
す。神を賛美し、神の恵みと愛を学び、聖霊が豊に心の中に住んで下さる時、癒
やしと解放が起きます!
これが神に委ねてありのままに生きることです。時間は掛かるかもしれません。
それでも良いのです。自分できよいクリスチャンを演じるのは止めま しょう。
自分が神によって癒やされ、開放される時、初めて他の人々をも癒やしと解放に
導くことが出来ます。癒しの神を指し示すことが出来るからです。

「わたしは罪人を招くために来た」とイエスさまは言われました。

私たちはイエスさまに招かれた罪人、病人です。罪、病を隠さなくて良いのです。
神に信頼し、神のいのちの流れにとどまり癒やしを受けましょう。
いのちの川が豊に流れるエクレシアを目指しましょう。