「あなたは赦されている、安心しなさい!」聖書箇所:マタイ9章1-8節

「子よ。あなたの罪は赦されている。安心しなさい!」2節

中風で寝たきりになった男性に、開口一番にイエスさまが言われたことばです。
「あなたは赦されている、安心しなさい!」、このメッセージこそイエスさまが
一番に伝えたいことです。罪の赦しを全ての人に伝えるためにこそ、イ エスさ
まは来られたのです。

【あなたは赦されている!】

このメッセージは中風で寝たきりになった男性にとって、一番必要なことばでした。
そして、私たちにとっても一番必要なことばです。

中風で寝たきりになる。医療が整った現代でも、脳血管障害は大きな問題です。
一度壊死してしまった脳は現代の医学でも再生できないからです。病院などな
かった当時のガリラヤ地方ならばなおのこと大変だったと思われます。
病気で体の自由が奪われた本人も辛い、そして介護する家族も大きな負担が強い
られます。
体を動かすことも、誰かと話すことさえ出来ない。なぜ自分は生きているのか?
家族にも大きな負担を強いている。なぜ自分は生きているのか?

生きている事自体、本来は喜びのはずです。生きることに疑問を感じる、これほ
ど辛く悲しいことはありません。

なぜ自分は生きているのか?生きていて良いのか?
仕事も、家庭もみな上手く行っているときは、決してこのようなことは考えません。
仕事も、家庭も、健康も、それらが上手く行かなくなる時、私たちは人生の意味
を問い始めるものです。そして行き詰まる。

なぜ自分は生きているのか?生きていて良いのか?
体も動かせない、口も利けない中風の男性は、一日中、天井を見上げながらこの
ようなことを考えていたのではないかと思われるのです。答えが出せな い否定
的な堂々巡りの思い。
「死んだほうが楽だ!自分も、家族も。」否定的で破壊的な思いしか思いつかない。

「なぜ自分は生きているのか?生きていて良いのか?」

昨年、多くの登山客で賑わう木曽の御嶽山が噴火しました。50名を超える貴いい
のちが犠牲になりました。多くの方が負傷しました。無事下山された 方、助
かったことを喜ぶのも束の間、多くの方がこの疑問を抱え苦しんでいるそうです。

「なぜ自分が助かったのか?自分が生きていて良いのか?」
普通の生活をしている私たちにはまったく理解できない、でも本人にとってはと
ても重く辛い現実の疑問です。一緒に山に登っていた登山仲間。中には 将来が
輝いている若い人たちが大勢いた。「彼らがなぜ死んで、自分はなぜ助かったの
か?自分が死んで、彼らが生きて、助かって欲しかった。自分の 生きている理
由が分からない。」と言うのです。

「なぜ自分は生きているのか?生きていて良いのか?」

この問は、私たちが生きている間に必ず直面する手強い問です。
誰でも、必ず直面し、答えを求められるでしょう。あなたはその時、何と答えま
すか?

多くの人が自分自身の中に生きている理由を探そうとします。
「自分は若いから、将来があるから、まだ生きなければ!生きる価値がある」と。
しかし、年をとったら生きる意味はなくなるのですか?
能力がある、お金がある、誰かの役に立つから・・・、しかし、それが無くなっ
たら?
それが最初から無い人は生きる理由がないのでしょうか?

生きている理由、人間はそれを自分の中には見つけられないのです!

なぜならいのちは、自分で獲得したものではなく、与えられたものだからです!
私たちは与えられて生かされ、そして赦されて、今を生きているのです。

あなたが今生きているのは、あなたに能力があるから、無いからではなく、あな
たを生かすと神が定めておられるからです!

私たちは神に赦されて生き、赦されて召されていくのです。
いのちの主権者は私ではなく、いのちの源である神なのです!

あなたは神に赦されている!だから生きているのです。

「なぜ自分は生きているのか?生きていて良いのか?」

この手強い敵に出会ったら、この答えを突きつけて下さい。
「私は神に赦されているから、今生きています!神は私を喜び、私の存在を喜ん
でおられるから私は生きます!」と。

生きるのに辛くなった時、人生に疑問を感じた時、自分の心に語って下さい。

「子よ。あなたの赦されている。安心しなさい!」と。
天の父はあなたの存在、あなたを喜んでおられます。
【父なる神の心も赦し】

当時の律法を知っているユダヤ人にとって、イエスさまの赦しの宣言は衝撃的
だったと思われます。

ユダヤ人は神に選ばれた民族です。彼らは地上の他の民族に比べ、遥かに真の神
を知っていました。それとともに、神との距離も知っていました。
真の神を知りつつも、神に至る道がどれほど遠く、険しいのかをよく知っていま
した。

神に至るには律法と儀式を通してでなければ、彼らには近づく道がなかったのです。

誰が本当に罪赦されているのだろうか?誰も確信はありませんでした。
聖書を読めば読むほど、自分の罪深さ、自分の不完全さしか見えません。
まして、神と親しい関係を持つことなど、誰も考えても見ませんでした。

まさに、罪が真の神を見えなくさせている状態です。

神であるイエスさまが人となって来られたのは、人間の側からではなく、神の側
から人間に、天の父なる神を明らかにするためでした。

天の父が先ず第一に伝えたいこと!
それが「子よ。あなたの赦されている。安心しなさい!」でした。

天の父はあなたを罰すべき罪人とは見ていません!
天の父はあなたを愛し、ご自分の子どもとし、全ての良いもので満たしたいと
願っている。
天の父はあなたを赦している!安心しなさい!これが天の父の心なのです。

【恵みが分からない律法学者】

「すると律法学者たちは、心の中で『この人は神をけがしている。』と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『なぜ心の中で悪いことを 考えて
いるのか。』」3.4節

福音は単純です。信仰と救いは単純です!だれでもが救われるためです。
救われるために、聖書を全て理解する必要はありません。神学を学ぶ必要もあり
ません。
聖書や神学を理解し、修行しなければ救われないなら、子どもや勉強の嫌いな人
は救われません。神は頭の良い人も、そうでない人も、お年寄りも赤ん 坊で
も、全ての人を救いたいと願っておられるのです。単純にイエスさまのことばを
信じ、イエスさまを救い主として心から信じ、告白するだけで救わ れるのです。

ところが頭が良すぎる人は分からないようです。律法学者と呼ばれる人たちがそ
うでした。
そんなに簡単に罪が赦されるなら、苦労して旧約聖書の戒律や儀式を守っている
俺達はどうなるんだ!罪赦されているのは俺たちパリサイ人だけしかい ない!
彼らはそう思っていたようです。自分たちの面目が潰されたと思ったのでしょう。
彼らは神を信じ、神に仕えていると良いながら、実は自分たちの体裁や宗教の専
門家という立場を守っているに過ぎなかったのです。

私たちも、パリサイ人や律法学者のようにならないように気を付けましょう。
大切なのは生きておられる神が、いま何を願っているか?です。
いのちのない宗教ではなく、生きている神に仕えましょう!

律法学者が分からなかったのは、赦しが一方的な恵みであることです。
恵みとは一方的に受けることです。何の努力もお返しも必要ありません。ただ受
けるだけです。プライドのある人はタダで受けることが出来ないようで す。
難しい教理を悟って赦される、修行して赦されるのほうが受け入れやすいようです。
しかし、私たちが恵みによらないで、自分の努力によって赦されようとしたら、
それは途方も無い努力が必要であり、不可能です!
どんなに筋肉を鍛えても、自分を持ち上げることが出来ないように、自分の努力
で罪の赦しを得るのは不可能です。罪赦されるにはいのちの代価が必要 だから
です。
死ななければ、赦してもらえないのです。

私たちの罪が赦されているのは、神が罪をいい加減に取り扱われたからではあり
ません。
イエスさまが十字架で罪の身代わりになって下さったから完全に赦されたのです。

イエスさまが着ておられた神の子どもとしての王のマントを脱いで私たちに代わ
りに着せて下さったのです。そして私たちが来ていた罪にまみれていた 死刑囚
の服を身代わりに着て下さり、私たちが受ける罰と死刑を身代わりに受けて下
さったから罪赦されたのです。
イエスさまの十字架の身代わりの死、これほど完全な罪の赦しはありません!
ただ信じるだけで、受け入れるだけで、あなたは神との関係を回復することが出
来ます。

【起きなさい!】

「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どち
らがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あ なたが
たに知らせるために。』こう言って、それから中風の人に、『起きなさい。寝床
をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると、彼は起き て家に帰っ
た。」5-7節

「罪赦された」と言うだけなら、誰にでもできます。しかし、罪の赦しの宣言、
それは神にしか出来ないのです。中風の人、当時は不治の病であり、彼 に起き
て、寝床をたたみ、家に帰れとは、確かに誰にでも口には出来ますが、そう言っ
たとしても何も変わりません。しかし、もし不治の病に犯された 人に命じるだ
けで病が治るのならば、それを語った方は人ではなく、神、もしくは神のことば
を委ねられている人しかいない。その人が罪の赦しを宣言 するのなら、その赦
しには確かであることの証明になるのです。

イエスさまは、私たちにも罪の赦しを宣言されています。
それは、神との関係の回復を意味し、神の子どもとして受け入れられるのです。
しかし、それをどうして知ることが出来るでしょうか。

私たちも中風の人のように、信じて起き上がる時、神との出会いがあります!
律法学者は神との出会い、和解を体験しませんでした。聞いていても、批判し、
受け入れなかったからです。しかしベッドに寝たまま連れて来られた中 風の人
はイエスさまの愛の眼差しを受け、赦しの宣言を受け、「起きて歩け」のことば
に応答した時、癒やしと回復が起きたのです。

みことばを聞くだけでは不十分です!応答する時、そのことば受け取ることが出
来ます!

中風の病人も、イエスさまのことばによって自動的に起き上がって、気がついた
ら家に帰っていたのではありません。イエスさまの赦しと癒しの宣言 に、信仰
によって応答したのです。今までは動かなかった体、手、足を、もう二度と動か
せないと思っていたにも関わらず、イエスのことばによって起 き上がることに
挑戦したのです。その時、信仰が生じ、その信仰の接点から神のいのちが彼に流
れたのです。