「イエスのたとえ話B天の父のこころ」聖書箇所:ルカ福音書15章1-10節

【パリサイ人、律法学者たち、・・・宗教の毒】

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄っ
て来た。
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪
人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼 らにこ
のようなたとえを話された。」ルカ15章1-3節

宗教には毒があります!パリサイ人、律法学者たちは宗教の毒によって、大切な
ものが見えなくなっていました。これは私たちも気を付けていなければ ならな
いことです。

パリサイ人、律法学者の毒! イエスさまは彼らのパン種、すなわち彼らの教え
に気を付けなさいと弟子たちに警告されました。教えをパン種、イース ト菌に
たとえたのは、それが少しでもこねた小麦粉に入るなら、発酵して、全体が膨ら
み始めるからです。
宗教の毒には、そのような死の力があります。

パリサイ人たちは、人は自分たちのようにならなければ、救われないと思ってい
ました。
罪人が罪人のままで救われる、取税人が取税人のままで救われることなどあり得
ない!
罪人、取税人のような社会の底辺の人間、人生の失格者など、神にとっては何の
価値もないと思っていたのです。

宗教に熱心な者、まじめに聖書を読み、宗教活動、集会に忠実に参加する者だけ
が神に価値を認められ、愛されるのであり、そうでない者は神に愛され るはず
がないと思っていたのです。しかし、それは大きな誤解でした!まったくの大間
違いでした!

宗教に熱心。熱心に聖書を読み、熱心に教会の礼拝に参加し、宗教活動を行う、
これは良いことです!しかし、その熱心さのあまり、その行いによって 自分は
神に愛されている、自分と同じようにしていない者は価値がない、神に愛されて
いないと思うなら、その熱心さは毒になっています。自分の行い を誇るあま
り、大切なものが見えなくなっています。その大切なものとは、失われることの
ない自分と隣人の価値、変わることのない神の愛です。宗教 の毒は、それを見
えなくさせてしまう。

宗教の毒から、そのパン種から守られるにはどうしたら良いのか考えて見ました。
その答えの一つは、このルカ15章のたとえ話を何度も黙想し、そこに描かれてい
る父の愛に絶えず触れ続けることだと思います。

一昨日、映画の試写会に行ってきました。タイトルはとても刺激的で「神は死ん
だのか」です。ぜひ皆さんに見ていただきたいと思いました。12月 13日(土)
から上演です。
その中で印象的なセリフは「徹底的な無神論者は元はクリスチャンだ」と言うも
のでした。
神に失望して教会を去る人が残念ながら少なくありません。
しかし、その神は本当に、天の父なのか?宗教が作り上げた行いに価値を置く宗
教の神なのではないか?そのような疑問が私の中にあります。

天の父なる神、天のお父さんの心を知ったら、どうして父に絶望することがある
でしょうか。ぜひ宗教的なメガネを外し、ルカ15章を黙想して下さ い。父の心
に触れて下さい!

【いなくなった一匹の羊】

『「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくし
たら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つける まで捜
し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、
友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけま したから、
いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それ
と同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める 必要のない九十九
人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ15章4-7

羊九十九匹になっていますが、この数をもう少し増やして考えみたほうが、この
たとえが言いたいことが明らかになると思います。あなたが羊十万頭を 所有す
る大牧畜家だとします。冬の寒い夜、十万頭いる羊のうち、一匹だけがいなく
なったら探しに出かけますか。
九万九千九百九十九匹も羊がいるのだから、一匹ぐらいいなくなっても良い、何
も直ぐに探しに出ないでも良いんじゃないか。これが正直、私たちの思 いでは
ないでしょうか。
ましてやいなくなった羊が病気の羊だったり、痩せていて、商品価値の少ない羊
なら、なおのこと探しに行く気にならないでしょう。

しかしイエスさまは、天の父はそうではないのです。100万頭、一千万頭の迷わ
ない、立派な羊がいても、一頭でも道に迷い、傷ついている羊がいる なら放
おって置けないなのです。自ら探しに出て下さるのです!

羊が単なる商品であるなら、そこまでする価値があるか考えるでしょう。
傷つき、病気の羊なら、そこまでする価値がないと判断したら決して探しに行き
ません。
九十九匹を置いて、一匹を探しに行く羊飼いは羊を商品としてみていないのです。

天の父は私たち一人ひとりを決して商品のように見てはいません。
価値があるなら救おう、価値がないなら見放そうとは考えないのです。
天の父は私たちを、人間すべて、クリスチャンであろうとなかろうと、イスラム
教徒だろうと無神論者であろうと、すべての人間をご自分の子どもとし て選ば
れたのです。
一人ひとりは比べることの出来ない、大切な存在です!
神に背を向ける者も、クリスチャンを迫害する者も、やっている行為は間違いで
すが、彼らの存在は、天の父にとっては他に比べることの出来ない大切 な存在
なのです。
イエス・キリストはクリスチャンのためだけに死んだのではありません!
全人類のために死なれたのです。すべての人のために死なれたのです。
一人ひとりを滅びから、永遠の死から贖い出すために、天の父がイエスを遣わし
ました。神に背を向けている人も、既にイエスさまを信じている者も、 天の父
にとっては同じ価値、ひとり子イエスさまと同じ価値なのです!
だから、いなくなっているなら尚更、探しに行かずにはいられないのです!

神はクリスチャン以外、愛さない、これはパリサイ人と同じ宗教的な考えです。
神は宗教に熱心な者を愛して下さり、聖書を読まなかったり、集会に定期的に参
加しないクリスチャンを呪い、病気にし、不幸にする。これも全くの間 違いです!
もちろん天の父は、永遠の実を結ぶことに自分の子どもたちが熱心になることを
願っています。しかしそうでなくても、父の愛は変わらず、私たちを良 いもの
で満たそうとする親の願いが変わることはないのです。

天の父は無条件、変わらない愛を持って、あなたを愛しておられます!
ご自分のひとり子イエスさまを与えるほどに、あなたを自分の子どもとして受け
入れて下さっているのです。この愛はまだ神を知らない人、神に逆らっ ている
人にも変わりません。

そして天の父は、父の心を知り、同じ心を持って欲しいと私たちに願われています。
パリサイ人のように、自分たちが選ばれ、愛され、価値があるだと思い上がるの
ではなく、神の一方的な愛によって自分は愛され、同じように神はすべ ての人
を、この世では価値が認められない人たちも同じように愛しておられ、彼らのは
かり知れない価値を認めて欲しいと願われているのです。

【十枚の銀貨】

「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりを
つけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。」ルカ 15:8

この十枚の銀貨のうち、一枚が無くなり、持ち主の女性が懸命に探す。これはい
なくなった一匹の羊のたとえと同じです。失われたものに対する天の父 の愛を
表しています。
そして、この銀貨のたとえにはもう一つ意味があると思います。
それは無くなった銀貨が見つかることは、無くならなかった銀貨にとっても価値
のあることです。この銀貨は当時、女性が結婚の時に持っていく嫁入り 道具の
一つだと考えられています。十枚セットの記念硬貨のようなものです。一枚でも
欠けると価値が半減します。

失われたものが見つけられて、それが全体の価値をも高めていく!
これが神の国の価値観です。

この世の中は比較競争の世界です。物を作る、製品を作るのには比較競争は良い
方法です。
しかし、心、人格を育てるのに比較競争は適しているとは言えません。
この世の中は規格に合わないものを切り捨て、勝者を生むために敗者を作ります。
神の国の価値観とは真逆です。

失われたものに価値がある!自分の隣人の価値を再発見することが、自分の価値
をも高めていく! この神の国の価値観に気付き、生きましょう!
先ず教会の中で、神の国の価値観を実践しましょう。
教会の中にも、簡単にこの世の価値観が流れ込みます。この世の中で評価される
人だけが教会の中でも評価され、そうでない人は切り捨てられ、見下さ れる。
そうなったら、教会は終わりです!

人間はみな違います。それぞれが神の傑作です。大量生産品ではありません。
一つの基準で、価値をはかることは誰にも出来ません。
それぞれに神の使命があり、賜物があり、イエスさまのいのちと同じ価値が有る
のです。
しかし、それがこの世の間違った基準、一方的な基準によって隠されている。
私たちは天の父が探しだして下さったように、必死になって隣人の、また自分の
価値を探し出しましょう!

隣にいる兄弟姉妹の、それぞれが持っている神による絶大な価値が再発見される
時、それが本当のエクレシアのリバイバルだと信じます。神に造られた ありの
ままの自分を互いに喜び会える神の教会を目指しましょう。