「イエスさまの弟子Cニコデモ」
聖書箇所:ヨハネ3章1-21節

【ニコデモが求めたもの】

今月はイエスさまの弟子から信仰を学んでいます。今日の聖書箇所、人物はニコ
デモです。
ニコデモは十二弟子ではありませんでした。ニコデモは十二弟子のように、全て
を投げ捨ててイエスさまに従った弟子ではありません。今日の聖書箇所 からも
分かりますが、彼は直ぐに信じ、直ぐに従うタイプではありませんでした。この
時はイエスさまのことばが分からなかったようでありますが、そ れで真理を求
めることを止めたりはしませんでした。三章では人目をはばかって、夜中にイエ
スさまに会いに来ていますが、七章ではユダヤ議会の中で イエスさまを堂々と
弁護するようになっています。そして十九章になると、ニコデモは重要な働きを
します。それはアリマタヤのヨセフとともに十字架 で息を引き取ったイエスさ
まの遺体を引き取り、埋葬したことです。彼らはイエスさまが確かに死なれ、葬
られたことの証人となったのです。これは大 切な働きです。
ニコデモは目立つ弟子ではありませんでした。ヨハネ福音書以外に、彼の名前は
出てきません。しかし目立たず、ゆっくりであったとしても、彼は真理 を求め
続け、キリストの死と葬りの証人となり、また確かにキリストの死の目的も知っ
て救われたのだと確信します。

さて三章に戻りますが、ニコデモはユダヤ人の指導者であり、教師、国会議員で
した。
彼は人生で成功した人でしょう。その当時、求められる名声を全て手にしていた
とも言えるかもしれません。また彼自身が言っているように、既に高齢 でした。
そんなニコデモがなぜ、人目を避けてまでも夜中にイエスさまに会いに来たので
しょう。
ニコデモはいったい何を求めてイエスさまのもとに来たのでしょう。

ニコデモが持っていないもの、ずっと求めていたけれども、得られなかった何か
をイエスさまは持っていた、だからわざわざイエスさまのもとに出向い て教え
を乞うたのでした。それほどまでにニコデモが求めたものは何だったのでしょう。

「この人が夜イエスのもとにきて言った、『先生、わたしたちはあなたが神から
こられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あな たがな
さっておられるようなしるしは、だれにもできはしません。』」ヨハネ3章2節

ニコデモはイエスさまを見た時、この人は神とともにいることが分かったのでした。
ニコデモは今まで聖書を学び、学問を学び、人の上に立つ者になった。しかし、
神がともにおられる、そのような体験をしたことがなかった。
ニコデモはイエスさまの人格の中に、神を見たのです。そのような生き方、人生
を送りたい、その秘訣は何かを知りたかったのです。
ヨハネ二章にはイエスさまの神殿清めの事が書かれています。

サドカイ派の人々が利益を得ていた両替商の台を倒し、信仰の場としての神殿、
その本来のあり方をイエスさまは人々に示されたのです。ニコデモもそ れを見
ていたのでしょう。この老人は胸を打たれたのだと思います。
若干三十になったばかりの男性、それも学問も、地位も、お金もない。ほんの数
日まで大工をしていた人間が堂々と国の中心である神殿で、祭司たちの 不正を
清めたのです。
イエスさまの聖さに圧倒されてしまった。生ける真の神がともにおられるのでな
ければ、決して出来ないとニコデモは悟ったのでしょう。

ニコデモもイエスさまのように、人を恐れず堂々と生きたい!
どうしたらイエスさまのように、自身に満ち溢れた人生を送れるのか、それがニ
コデモがイエスさまのもとに来た理由でした。

イエスさまはニコデモに大切な真理を語ります。
イエスさまはご自身のもとに来る者を決して拒みません!
真理を求める者には必ず真理と救いの道を示して下さいます。
私たちもイエスさまに救いと導きを求めるなら、必ず聖霊を通して示して下さい
ます!

イエスさまがニコデモに教えられたことば、本日の聖書箇所をしっかりと学びま
しょう。
キリストの弟子として生きるための真理がこの箇所にあります。

【人は新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません】

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、
新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」ヨハネ3 章3節

イエスさまのように感じ、考え、行動すること、これが弟子の目標です。
イエスさまのように生きること、イエスさまのようになることは、今までの人生
の延長線上にはないことを覚えなければなりません。

それは、獲得する生き方によってではなく、与えられる生き方です。

ニコデモは今まで頑張って、努力して生きてきました。今の地位を築き上げたの
でしょう。しかし生まれることは、誰も努力して出来るものではありま せん。
それは産んでくださる方の努力です。私たちは母親、父親のお陰で生まれてきま
した。

神に100%頼ることなしに、イエスさまのように生きることは出来ないのです。
イエスさまの力の源は、天の父なる神でした。天の父に頼ることがイエスさまの
力でした。

努力すること、一生懸命やること、それもとても大切です。
しかし、もっと大切、いや一番大切で欠かせないことは、私たちもイエスさまの
ように、天のお父さん、父なる神から生きる力を毎日いただくことで す!
父の愛に満たされ、励まされ、押し出されて、ありのままの自分を生きることです!

天の父と、いのちの関係を持たずして、イエスさまのように生きること、その弟
子となることは出来ないのです。

【水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない】

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ヨハネ
3章6節

肉によって生まれたものは肉です。これは人間の性質、その限界を教えています。
良い人間になろうと努力する。素晴らしいことです。しかし残念なことに、努力
すればするほど、努力を誇りたくなるのが肉の性質です。良いことのた めに頑
張れば頑張るほど、自分を出したくなる。肉のいのち、これは聖書ではプシュ
ケーというギリシャ語が使われています。それに対し、永遠のいの ちはゾー
エーが使われます。日本語では同じ「いのち」ですが、聖書では使い分けてい
る。それは全く性質の違う「いのち」があるのです!
人間はプシュケー、肉のいのちだけでは限界がある。やがて肉体とともに滅びて
いく。
肉のいのちと共に、神のいのち、神と生きた関係を持つことで生まれるいのち、
ゾーエーに生きることこそ救いなのです。

神のいのちに生きるために、イエスさまは大切なことを二つ教えられました。

「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と
御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』」 ヨハネ3
章5節

@水によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ない。

水によって生まれる、これは洗礼のことを指しています。
イエスさま自ら、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、救い主キリストとし
ての公の生涯に入られました。ユダヤ教では、異邦人がユダヤ教に改宗 する儀
式に洗礼(ミクべ)がありました。(ユダヤ教のミクべと洗礼は根本的な意味が
違います)
バプテスマはキリストの十字架の死に与る、つまりキリストとともに自分の古い
生き方、古い性質、罪深い性質に死ぬことの信仰的な表明です。
バプテスマは教会が定めた儀式ではなく、主イエスさまご自身が定められたもの
です。
水のバプテスマを信仰をもって受けることは、神が確かに認めて下さることなの
です。
そして、バプテスマは罪深い性質、神に逆らう性質に死ぬことの表明なのです!

A御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ない。

水のバプテスマを受けることは、私たちの信仰の決断によります。
しかし、御霊によって生み出されること、これは私たちの都合にはよりません。
もちろん私たちが拒絶すれば、それは起こりませんが、だからといって、いま強
く願えば、すぐに御霊によって生み出されるものでもありません。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てど
こへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりで す。」
ヨハネ3章8節

神を求め、日々みことばを心に蓄え、神の御心に生きようと願う中に、自然と、
私たちの中に聖霊の変化、新しいいのち、性質が芽生えるのです。時に は静か
に、気付かずに、時には激しく、圧倒されるぐらい強烈に、聖霊の御心のままに
私たちは生み出され、養われていきます。神を求め、神に全てを 委ねることが
大切です。
日々神を賛美し、神のご計画を信頼し、あらゆることを感謝しましょう!

【信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです】

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人
の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられな ければ
なりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため
です。」ヨハネ3章13-15節

やがて滅びていく人間。誰も罪深い人間の性質から逃れることは出来ない。
どうして永遠のいのち、まったく性質の異なる神のいのちを受けることが出来る
のか。
ニコデモの優れた知性を持ってしても理解できなかったようです。
私たちも、誰一人、頭で理解して救われる人はいません。ただイエスさまが歴史
上で成して下さった事実を見て、信仰を持って受け止めるしかありませ ん。

だれも自分の力で天に上ることは出来ません。自力による救いはないのです。
しかし、神が人となることは不可能ではない。
神のひとり子が、私たちを救いのために人となられた。
そして神と人とを妨げていた罪を私たちに代わり十字架で背負われたのです。
キリストは罪の呪いを私たちから取り去って下さった!

私たちはイエスをキリスト、神が遣わした救い主として信じる時、神といのちの
交流が始まるのです。

神はこれほどまで、私たちを愛して下さり、私たちとの交わりを求めています。
私たちも心を開き、そして積極的に神を求めましょう!
神は溢れるほどに聖霊を私たちに遣わして下さり、新しいいのちに歩む力を与え
て下さいます。ニコデモのように、私たちの罪のために死なれたイエス を見上
げ、信仰を持ってキリストの復活のいのちに満たされましょう。