「イエスさまの弟子Aピリポ、ナタナエル」
聖書箇所:ヨハネ1章43-51節
【キリストにある一致】

「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとそ
の兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバル トロマ
イ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイ
エスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」マタイ10章 2-4節

イエスさまは弟子を作ること、育てることに熱心でした。
イエスさまの人格に触れて、一緒に生活しながら、イエスさまから学ぶこと。
これがイエスさまの弟子作りでした。自然と弟子たちはイエスさまのように考
え、感じ、行動するようになりました。私たちも聖霊とみことばによって イエ
スさまの弟子となり、弟子の共同体であるエクレシア(教会)を建て上げましょう。

イエスさまは初め十二人の弟子、そして次に七十人の弟子を選ばれました。
聖霊のバプテスマの時、弟子は百二十人、ペテロのメッセージで三千人に増えま
した。
これほど人数が増えると一致するのは非常に難しかったと思います。

十二弟子の中には、本来なら決して一緒の席に着くことは出来ない人たちがいます。
取税人マタイと熱心党員のシモンです。取税人とはユダヤを占領していたローマ
のために税金を取り立てる人です。彼らは祖国を売った売国奴、異邦人 のため
に働く者と憎まれていました。一方熱心党員というのは右翼です。愛国心が強過
ぎて、テロ行為を行う過激派です。取税人と熱心党員は本来は犬 猿の仲、水と
油のように一致したり、協力することはあり得ない人たちでした。

取税人と熱心党員程ではなくても、弟子たちの中には、イエスさまが引きあわせ
て下さらなかったら、本来は決して出会うことのない人たちが含まれて いたと
思います。
性格や生まれ育ち、考え方に違いはあっても、弟子たちの中には一致がありました!
イエス・キリストを見上げることによる一致です。

キリストから目を離すなら、すぐに相手と自分の違いに目が行くものです。
神さまのことばから目を離すなら、肉的な物の違いだけが目立ちます。
私たちのエクレシアが一致して神の国を表していくには、キリストを見上げ、キ
リストのことばに従う一致しかありません。キリストを見る時に一致が あるの
です。

エクレシアの中に不平や不満、不一致が起こるなら、私たちは各自がキリストを
見上げ、キリストに従うことを求めているか各自、自分の心を見つめな おす必
要があるでしょう。弟子を結び合わせるものはキリストです!

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働
く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組 み合わ
され、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。そこで私は、主
にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなし い心で歩んで
いるように歩んではなりません。」
エペソ4章16.17節
この世のものをエクレシアに求めるなら、そこには失望、怒り、敵対心しか生ま
れません。
キリストを求め、キリストの愛を互いに実践する時、私たちの間にキリストが表
されていくのです。そのために私たちは一人ひとりキリストによって選 ばれて
いることを覚えましょう。

【みことばが私たちをキリストの弟子とする】

「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼
はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書 き、預言
者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ヨハネ1章44.45節

ピリポはイエスさまの「わたしに従ってきなさい」の一言で、イエスさまに従い
ました。
もちろん、町で声を掛けられて直ぐに従うような、そんな軽率な人間ではなかっ
たと思います。
ピリポもアンデレのように、一晩中イエスさまと語り合い、心から納得してイエ
スさまに従ったのだと確信します。

ピリポがイエスさまに従った理由がこの箇所にはハッキリと書いてあります。
それは「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会い
ました」の箇所です。ピリポは聖書に書かれている約束の人物がイエス さまだ
と確信したのです!
聖書、神のみことばの確信のもとに、ピリポは日常生活の全てを捨てて、イエス
に従う決心をしたのです。

「モーセが律法の中に書き」とピリポが言っている聖書の箇所は申命記の18章18
節です。

「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者
を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わた しが命
じることをみな、彼らに告げる。」申命記18章18節

ピリポはその他、聖書にあるキリストについての預言を、約束のことばを熟知し
ていたのでしょう。いのちのことばであるイエスさまを見、語り合う中 で、彼
の確信は聖霊によって強められたのだと思います。

みことばです!聖書はキリストに従うための強固な土台です。
聖書を知ることがキリストに従う原動力になり、希望と喜びの泉になるのです!
あなたは何を根拠に、何を土台にキリストに従っていますか?
その土台は揺るぐことが無いですか?いつも希望と喜びをあなたに与えますか?
感情や一時の気分でキリストに従い続けることは出来ません。
聖書、神のことばは書かれてから四千年、変わることがないのです!

私は確信を持てない人に、キリストに従うことを決して強制しません。
それは盲従、盲信になります。キリストが誰か分からないのに信じても、何の意
味もありません。ただ!聖書を学ぶことを勧めます。聖書が如何に驚く べき書
物なのか、なぜ神のことばと言えるのか?聖書が神のことばであることが分かる
なら、キリストを信じることは難しいことでもなんでもありませ ん。自然と、
そして確信と喜びをもって、ピリポのようにイエスさまの弟子になっていくで
しょう。

【弟子の心を良く知っておられる主】

「ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』」ヨハ
ネ1章46節

ナタナエルは正直な人だったようです。ガリラヤ地方は熱心党(テロリスト)の活
動が盛んだったので、ナタナエルはまたキリストを名乗る過激な者が 表れたの
かとうんざりしていたのかもしれません。

いくら説明しても聞かないナタナエルに対してピリポは「来て、そして、見なさ
い」と直接イエスさまに会わせることにしました。

私たちも、私たちの交わりの中心におられるイエスさまに人々を会わせたいと思
います。
言葉で説明するよりも、私たちの間に生きておられるイエスさまを見せたいです。
私たちがみことばと聖霊に満たされ、愛に生きる時、このことが起きると確信し
ます。

イエスさまはナタナエルをご覧になり、とても高く評価されました。
「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ヨハネ1
章47節

イエスさまはナタナエルだけでなく、人の全てを知っておられながら、その良い
面を見て下さいます。アンデレやピリポと同じように、ご自分のところ に来ら
れる者をみな受け入れて下さいます。

ナタナエルも驚いたのでしょう。初対面なのに、なぜ自分のことを知っているのか?
彼は不思議に思って尋ねました。

「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを
見たのです。」

このことばが意味するところを知るのは難しいです。本当にピリポが呼ぶ前にい
ちじくの木の下にいたのかもしれません。しかしイスラエルにはいちじ くはい
たるところに植わっているので、それだけだと怪しい占い師のことばのようにも
思えます。ただピリポの家にはいちじくがたくさん植わってい て、彼がその木
の下で祈ることを日課にしていたのかもしれません。

私の解釈はいちじくはイスラエルの象徴であろうと言うことです。ナタナエルも
ピリポと同じように信仰の篤い人でした。イスラエルが霊的に回復する ことを
熱心に祈っている人物でした。「いちじくの木の下にいる」とは、彼の祖国を思
う熱心さを指して言われたのだと思います。
ナタナエルの情熱、信仰、生き方を短い言葉で言い当て、受け入れて下さるイエ
スさまの中に、彼は生涯かけて従っていく本当の師に出会ったことを確 信した
のです。

イエスさまは私たちの生まれも、育ちも、全てご存知です。
どんな人生を歩んできたのか?私たちの良い所も、悪い所も全てご存知で受け入
れて下さいます。いつも私たちの良い所を見て下さり、励ましと慰めを 与えて
下さいます。
イエスさまはあなたに何と声を掛けてくださると思いますか?
ぜひ祈りの中で、イエスさまに尋ねて下さい。

あなたを責める声、あなたの欠点を責める声はイエスさまの声、聖霊の声ではあ
りません。
悪魔・サタンは神のみ前に私たちを訴えるものです。過去の失敗、欠点、弱さを
責める声は神からのものではありません。耳を塞ぎましょう。否定的な ことば
は私たちを成長させることはありません。

聖霊の声はいつも私たちに励ましと慰めを与え、私たちの良い所をほめて下さい
ます。
内面の声を聞き分けて下さい。私の羊はわたしの声を聞き分けるとイエスさまは
言われます。
ナタナエルが救い主、自分の神の声を聞き分けたように、私たちも祈りの中でイ
エスさまの声、聖霊の励ましの声を聞きましょう。(聖霊は聖書のこと ばを
もって語られることがほとんどです。)

【イエスさまに従う者は神の栄光を見る】

「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわ
たしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさ らに大
きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことにまことに、あな
たがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を 上り下りする
のを、あなたがたはいまに見ます。』」ヨハネ1章50.51節

あなたは、それよりもさらに大きなことを見ます!これこそ、イエスさまに従う
者の人生です。
イエスさまに従って、人生がどんどん縮小し詰まらなくなる、そんなことは決し
てありません。
もしあなたの信仰生活がそうならば、どこかの時点で生けるキリストから、命の
ない宗教に従ってしまったのかもしれません。これは大事な見分けるポ イント
です。

キリストに従うのが弟子です!キリストのことばに挑戦され、従っていくのが弟
子です。
いつの間にか居心地の良い暮らしを守るために神を信じていませんか?
キリストに従うとは、キリストに似るために自分の心を変える者、生き方を変え
る者です。
あなたは自分の願望のために、神を変えようとしていませんか。

宗教の神ではなく、生けるキリストに従いましょう!
必ずあなたは、あなたの人生に神の栄光を見ます。