「イエスさまの弟子から学ぶ@アンデレ」聖書箇所:ヨハネ1章35-42節

【あらゆる国の人々を弟子としなさい】
「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えば、キ
リスト)に会った。』と言った。 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。」
ヨハネ1章41.42節

今月は「イエスさまの弟子から学ぶ」という題をもって恵みを分かち合いたいと
思います。イエスさまは大宣教命令の中で言われました。

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、
聖霊の御名によってバプテスマを授け…」マタイ28章19節

イエスさまの弟子となること、人々をイエスさまの弟子とすること、これはイエ
スさまのとても大切な命令です。

イエスさまは決して人々をキリスト教徒にしなさいとは言われませんでした。
儀式や形式だけ、形だけの宗教者ではなく、イエスさまご自身に従う弟子としな
さいと言われたのです。このイエスさまのことばの意味をしっかりと受 け止め
たいと思います。

イエスさまは弟子を作ることに熱心でした。バプテスマのヨハネから洗礼を受け
られ、先ずされたことが弟子を作ることでした。共観福音書では悪魔の 試みを
受けられることが先ですが、悪魔・サタンに勝利されて後にされたことは福音宣
教と弟子づくりでした。
イエスさまの約三年に渡る公の生涯でなされたことは福音宣教と弟子づくりでした。
決して教会堂を建てたり、宗教書を書き記すことではなかったのです!

なぜなら弟子とその集まり(エクレシア)こそが神の神殿、生ける神の宮だから
です!
これは大切なポイントです。イエスさまは建物ではなく、人を作られたのです!
エクレシア(教会)が目指すことも同じでなくてはなりません。弟子づくりです。

イエスさまの弟子とは何か?
弟子となることを学ぶことは私たちの信仰生活においては不可欠です。

弟子づくりは長い間、キリスト教会から失われてきた本質です。
しかし、今日、聖霊の御声に導かれている生きた教会は弟子づくりの大切さを強
調しています。ただ残念ながら、弟子づくりに関しては極端な教えや偏 りも見
られます。
私たちは先ず聖書から、イエスさまと弟子の関係、イエスさまの弟子から、弟子
となることを学びたいと思います。聖書から本質を学びましょう。

【自分の形を知る】

アンデレはイエスさまに出会い、イエスさまこそ聖書が約束していた救い主キリ
ストであることが分かると、自分の兄弟シモン(ペテロ)に伝えまし た。
そしてシモンをイエスさまのもとに連れてきたのです。

アンデレは人をイエスさまのもとに連れてくる弟子でした。
五千人にパンと魚を分け与える奇跡では、五つのパンと二匹の魚をイエスさまに
捧げたいと願っている少年をイエスさまのもとに連れてきました。

またイエスさまの最後一週間、エルサレムで過ごされた時、イエスさまに会いた
いと願うギリシャ人をイエスさまのもとに連れてきました。
アンデレが主のもとに連れてきた人たちは、主の栄光を表すために用いられました。

人をイエスさまのもとに連れてくることがアンデレの才能、特技でした。
イエスさまもアンデレの才能、特技を喜ばれていたのでしょう。
一度も「なぜ、そんな人間をわたしのところに連れてきたのか」と怒ったり、
叱ったりされませんでした。アンデレが連れてきた人を受け入れ、神の国 のた
めに用いられたのです。

自分に何が出来るだろうか?そう思われている方、少なくないかもしれません。
私たちには出来なくても主は出来ます!私たちが心から捧げる奉仕を神は喜んで
受け取り、ご自身の栄光のために用いて下さるのです。

イエスさまは弟子たち一人ひとりの個性や才能を尊重されました。
アンデレに対し、兄弟ペテロのようになれとは言いませんでした。
イエスさまはペテロはペテロの良さを、アンデレはアンデレの良さを認め、それ
を積極的に用いられました。

私たちは一人ひとり、神の作品です!神のデザインです。
一人ひとり、みな違います。同じ人は一人もいません。それぞれ個性があり、好
きなこと、きらいなこと、得意なこと、不得意なことがあります。
神は全部ご存知です。全てをご存知で、私たちをご自身の子どもとして受け入れ
て下さいました。神は私たちの個性を尊重されるのです。

アンデレにはアンデレの個性があり、才能がありました。ペテロにはペテロの個
性に相応しい働きがあり、あなたにはあなたの個性と才能を用いた働き があり
ます!

まず自分の個性、才能、関心を持っていること、使命感を感じることを自分自身
が受け入れることが大切です。自分自身の形を知るのです。
決して人と比べないこと、誰か称賛を浴びている人の真似をしないことです。

パウロがペテロの真似をしていたら、彼の能力は生かされず、大変な損失になっ
たことでしょう。自分らしさ、それは神のデザインであり、計画であ り、賜物
であると受け入れ、それを積極的、最大限に用いることが弟子の生き方と確信し
ます。
アンデレは自分の出来る事と出来ないことを受け入れ、出来ることを精一杯しま
した。
アンデレの出来る事は、神さまに心を開いている人を見つけること、その人をイ
エスさまのもとに連れてくることでした。
アンデレの出来ないことは、その人を神の働きのために絶妙なタイミングで用い
ることです。そしてこれは、イエスさまの働きなのです。

弟子には出来ないことがあって良いのです!
弟子が全て出来てしまったら、神は必要ありません。信仰は不必要です。
弟子が出来ないことは他の弟子が補い、神が完成させて下さるのです!

私たちの不完全の中に神は完全に働いて、神の栄光を表して下さるのです。

だから、自分の出来る事は精一杯、積極的にしましょう。
出来ないこと、不完全なことは、分かち合い、神に委ねましょう。

【弟子とはイエスを個人的に知る者】

「イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすればわかります。』そこで、彼
らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、そ の日彼
らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。」ヨハネ1章39節

アンデレは初めバプテスマのヨハネの弟子でした。ヨハネがイエスさまを救い主
キリストだと証ししたことばを聞いて、直接イエスさまにあって確かめ ようと
したのです。

アンデレの素晴らしいところは、バプテスマのヨハネの証言だけで満足せず、自
分で行って確かめたことです!

イエスさまの弟子になるには、個人的にイエスさまを知るものでなければなりま
せん。

もちろん初めは人からイエスがキリストだと伝え聞きます。
アンデレもそうですし、シモン・ペテロもそうでした。十二弟子全部が誰かから
イエスさまがキリストだと伝えられたのです。そして彼らは本当かどう か自分
で確かめました。
人の言葉で満足しなかったのです。
それは実際にキリストに出会い、個人的にキリストに従うためでした。

弟子は一人ひとり、自分の師匠を知り、師匠との出会いの中に喜びを体験する者
です。
「来なさい、そうすれば分かります」。アンデレはイエスと一晩中語り合い、イ
エスを知ったのです。この方こそ聖書が約束している救い主であるこ と、そし
て自分の師匠であることを。アンデレはイエスさまとの語らいの中に平安と喜び
をいただきました。
この方に一生従おうと情熱が心の底から沸き上がってきたのです。
これが信仰を導く力、原動力です!

「来なさい、そうすれば分かります」、イエスさまはご自分のもとに来るものを
決して拒みません。誰でも受け入れて下さいます。そして求めるものに はご自
分が誰であるのかをみことばと聖霊によって示して下さるのです。

弟子はいつでも師匠に従います。毎朝、いつでも自分にとって最善の時に個人礼
拝を通してイエスは私たちを導いて下さいます。導きが必要なときには 道を示
し、励ましと慰めが必要な時は力を与えて下さいます。イエスさまを離れては弟
子は何も出来ません。
イエスさまの下に来て、イエスさまのところに留まるものが弟子です。

主はあなたを招いておられます!「来なさい、そうすれば分かります」。
毎朝、いや今この時、主の招きに応じましょう。祈り、賛美、聖書を読むこと、
黙想を通して主に近づきましょう。

【弟子は喜びを分かち合う】

「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えば、キ
リスト)に会った。』と言った。 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。」
ヨハネ1章41.42節

アンデレがシモンをイエスさまのもとに導いたときの情景を考えてみましょう。
アンデレの顔は悲しみに沈んでいましたか?それとも喜びに輝いていましたか?
アンデレがイエスさまを紹介した動機はどうでしょう?義務感からですか。
自分が褒められたいからですか?それとも喜びを分かち合うためですか?

福音を伝えることが喜びでなく、辛いことだと感じている方が少なくありません。
福音を分かち合うことが義務や、ましてや誰かにやらされていると感じるなら残
念です。それは福音を分かち合うことではなく、宗教活動をさせられて いるに
しか過ぎません!

宗教活動しないで下さい!

宗教ではなく、喜びを分かち合いましょう。
福音が喜びであると日々感じるまで、イエスさまとの深い交わりを求めましょう。
あなたの心が聖霊とみことばに満たされ、喜びが溢れて回りの人を潤すことが出
来ます。イエスさまが葡萄の木です。イエスさまにしっかりと結びつ き、愛と
恵み、平安と喜びをいただきましょう。そうすれば時が来れば実がなるのです!