「バプテスマ(洗礼)」
    
【バプテスマ(洗礼)は弟子のしるし】

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地
においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたが たは
行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名に
よってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいた すべての
ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつ
も、あなたがたとともにいます。』」マタイ28:18-20

大宣教命令の中でイエスさまは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じら
れました。
そしてバプテスマを授けることを命じられたのです。
バプテスマはキリストの弟子として人生を歩む始まりと言えるでしょう。
またバプテスマは確かに儀式としては一度だけです。決して何度も受けてはいけ
ません。
しかしバプテスマの持つ意味は、決して一度だけでは終わらないのです。
バプテスマにはキリストに従うために絶えず覚えなければならない大切な意味が
含まれています。今日バプテスマを受ける本人たちだけでなく、すでに バプテ
スマを受けた者も、これからバプテスマを受けようとしている人たちも、その意
味を深く覚えましょう。

【バプテスマ(洗礼)とは、キリストとともに死に、よみがえること】

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテス
マを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのでは ありま
せんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬ら
れたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみ がえら
れたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たち
が、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっ ているのな
ら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」ローマ6:3-5

パウロはこの箇所で、バプテスマ(洗礼)の意味を明確にしています。
それはバプテスマによって、私たちがキリストにつぎ合わされることです!(5節)
キリストにつぎ合わされる時、「いのちにある新しい歩み(4節)」に歩ませる
力が与えられるのです。

キリストにつぎ合わされること、これこそが信仰生活です。
イエスさまはヨハネの福音書で、ご自身をぶどうの木、私たちを枝と例えられま
した。
枝だけでは実を結ぶことは出来ません!しかし、枝がぶどうの幹にしっかりと結
び合わされているのなら、枝は自然に幹から流れる養分に押し出される ように
して実を結ぶのです。

バプテスマ(洗礼)とは、これからの生涯をキリストともに歩むことの決意の表
明であり、信仰生活そのものを象徴する儀式なのです。

次に、パウロはキリストの十字架の死を強調しています。
先ずキリストとともに死ぬことなしに、キリストとともに復活のいのち、いのち
にある新しい歩みはないと教えているのです。

さあ、ここで私たちは自分の心に問いかけなくてはなりません。
「キリストとともに死ぬとは?自分は何に死ぬべきなのか?」と。

私たちの信仰生活とは、日々キリストの十字架の死に向き合うことから始まります。
十字架の死の意味は、日々深く、重く、私たちの心に刻まれていきます。
キリストの十字架のことばが聖霊によって私たちの心に説き明かされ、その意味
が深まる度に、私たちの心は変えられていきます。十字架に触れる度 に、私た
ちの罪の鎖は解け、心はいのちへと解放されていくのです。
日々、キリストの十字架を見上げ、その意味を問いましょう!
聖霊が信仰により、私たちをキリストの十字架に結び合わせて下さることを求め
ましょう。



【罪の奴隷に死ぬこと】

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅
びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであること を、私た
ちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」ローマ6:6ー7

私たちは生まれながらに罪人であると聖書は教えています。
罪を犯したから罪人になるのではありません。罪人だから、何をしても罪になる
のです。
罪の奴隷です。奴隷は決して自分の努力では、奴隷から開放されることはありま
せん。
奴隷が自由になれるのは、誰かが彼を買い取って自由にするか、死ぬ時だけです。

私たちが罪の奴隷から開放されるために、イエス・キリストはご自身のいのちを
代価としてして支払い、またキリストとともに死ぬことを通して開放さ れるの
です!

【私たちを罪の奴隷に縛り付けるもの】

@自分の考えが一番正しいと思うこと。

A罪の闇を抱えること。

B助けを求めないこと。