「イエスさまの弟子となったペテロ(4)」
聖書箇所:ヨハネ21章1−19節


イエスさまとペテロの師弟関係から恵みと教訓を学ぶシリーズは今回で最後にな
ります。
今回はヨハネ21章から分かちあいます。ヨハネ福音書は20章で完結しています。
21章は追加された章と考えられています。21章が追加された理 由は、イエスさ
まを三度も否認したペテロがどうして使徒となり、初代教会を建て上げるリー
ダーの一人となったのか、その経緯を説明する必要があっ たからだと考えられ
ます。
またペテロだけでなく、他の弟子たちもイエスさまを見捨てて逃げたのですか
ら、彼らがどのように主に立ち返り、失敗の傷が癒されていったかを書き 記す
必要がありました。
ヨハネ21章は、傷ついた弟子たちが主の愛に触れて癒され、再び主の働き人とし
て整えられる箇所であります。この箇所から主の恵みと癒し、希望と 励ましを
受けましょう。

【船の右側に網をおろしなさい!】

イエスさまは復活後、弟子たちにガリラヤに行くように指示されました。(マタ
28:10)
ガリラヤ地方は弟子たちの故郷であり、イエスさまと出会い訓練を受けた場所で
した。
エルサレムはイスラエルの都であり、宗教の中心でありますが、弟子たちにとっ
ては愛する主が十字架に付けられ殺された場所、主を十字架に付けた祭 司たち
やパリサイ人の支配する場所であり、決して心の休まる場所ではありませんでした。
イエスさまは傷つき、落胆している弟子たちを励まし、慰めるため、彼らの再出
発する場所として、良い思い出の詰まった彼らの故郷であるガリラヤを 選ばれ
たのです。

弟子たちは再び漁に出ていますが、これは弟子を辞めて漁師に戻ってしまったの
ではありません。ただ単に食料確保のためだと考えられます。
しかし残念ながら一晩中、漁をしても魚は取れませんでした。(当時の漁は夜に
行った)
夜が開け始めてしまいました、それでも何も取れません。すると、その暗がりの
中、誰かが声を掛けたのです。

「イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ。食べる物がありませんね。』彼ら
は答えた。『はい。ありません。』イエスは彼らに言われた。『舟の右 側に網
をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。する
と、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかっ た。5.6節」

暗がりのため、弟子たちはその声の主がイエスさまだとは分からなかったようです。
しかし、そのことばにしたがって船の右側に網を下ろすと、網を引き上げること
が出来ないほどの大量の魚が網に掛かりました。
ペテロと他の弟子たちも、自分たちがイエスさまに従うきっかけとなった奇跡が
再び目の前で起こったのです。彼らは声の主がイエスさまであることに 直ぐに
分かりました。
「船の右側に網をおろしなさい」、落胆し、失望している弟子たちを再び主の弟
子として整えるためのイエスさまの再教育のことばです。

船の左側ではなく、右側です!左側とは、聖書的には人間の罪深い性質、神に逆
らう側面を象徴的に表しています。それに対して右側は神に従う側、神 に属す
る部分を表します。

主を見失い、希望を見失っていた弟子たちは再び自分中心の生き方に戻ろうとし
ていました。しかし、それは一晩中働いても、なんの実も結ばない虚し い生き
方でした。
しかし、主のことばに従って船の右側に網を投げるなら、主のことばに従う人生
を再び歩むなら、そこには豊かな実を結ぶ人生が開けるのです。

イエスさまはご自分を裏切った弟子たちを見捨てず、見守り続け、再びご自分の
ことばに従う弟子として召されたのです。

私たちも、船の左側に網を投げるような、いつの間にか主のことばではなく、自
分中心の古い生き方に戻ってはいませんか。そこから虚しさを刈り取っ てはい
ませんか。
主のことばに従って、船の右側に網を投げましょう!
主はあなたを決して見捨てません!変わらぬ愛を持って、あなたを導き続けます。
主のことばに従い、永遠の実を豊かに結ぶ、主の弟子の人生を歩みましょう。

【ペテロは主であると聞いて…湖に飛び込んだ】

「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。『主です。』すると、
シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとっ て、湖に
飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟で
やって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だった からである。
7.8節」

ペテロは声の主がイエスさまだと分かると、居ても立ってもいられずに湖に飛び
込んで、主のもとにまで急いで泳ぎました。ペテロの性格がよく現れて いる箇
所です。
ペテロは大胆、思いついたら直ぐに行動する性格でした。
しかし、だからと言って他の弟子と比べて優れていたと言うことではありません。
他の弟子たちは魚に満ちた網を引っ張って、主のもとに戻って来ました。

私たちは比較競争の文化の中に置かれていますから、直ぐに誰かを比較してします。
自分と誰かを比較し、優れているか、劣っているかと競争してしまう。
しかし、私たちは主の弟子なのです!主が選ばれたのです。
ペテロにはペテロの、ヨハネにはヨハネの優れた部分があり、課題があります。
比較競争して、だれが一番良い弟子なのか?それは主の選びを無駄にすることです。
比較競争して、互いに足を引っ張るのではなく、互いの違いを尊重することが大
切です。
あなたには、あなたにしか出来ない働き、優れた部分があります。
【空腹の弟子たちに朝食を用意されたイエスさま】

「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パン
があるのを見た。9節」

弟子たちが疲れ、空腹であることを知っておられたイエスさまは彼らのために朝
食を用意されました。これが私たちの神です!これが私たちの救い主で す。
天の父なる神は、私たちのすべての必要を知っておられ、私たちが祈る前から私
たちの必要を用意されておられるのです。

自分が置かれている状況が辛くても、先行きが見通せなくても、天の父に不平や
不満を漏らし、不信仰な態度を取るのを辞めましょう。神は私たちの見 ておら
れない所で、すでに解決を用意し、私たちのために道を備えておられるのです。
信じましょう!

イエスさまが準備された朝食!どんなに美味しかったことでしょう。
大きな失敗をしでかした弟子たち、しかしイエスさまは彼らの失敗を責めること
をせず、彼らに仕えられました。弟子たちはイエスさまの愛と優しさに 支えら
れえて、再び立ち上がる力を得ていくのです。

私たちエクレシアは一対一の弟子作り、そしてセル・グループを強調していきます。
一対一の弟子作り、セル・グループとは、このイエスさまの愛を体験する場所です。
互いに仕え合い、赦し合い、励まし合い、神のことばに従う力を得る関係です。

【百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった】

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさ
い。』シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百 五十
三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れな
かった。10.11節」

百五十三匹の大きな魚!どんな魚だったのでしょう。なぜ百五十三匹と具体的な
数が書かれているのか確かな意味は不明ですが、当時、知られている魚 の種類
が百五十三匹だったという説が注解書に書かれていました。この説が本当だとす
ると、ヨハネはイエスさまのことばに従って網に掛かった魚は、 世界中のすべ
ての魚、そして、それは弟子たちの投げる福音の網によって、すべての国民、民
族が救われることを表していると言えるでしょう。

「それほど多かったけれども、網は破れなかった」のです!
イエスの愛と赦しはどんな人でも包み込み、破れることはありません。
私たちがイエスさまの福音の網となって、人々の魂を救いに導きましょう。
福音の網です!イエスさまは釣竿で釣り上げろとは言いませんでした。
釣竿は個人プレーです。網は関係であり共同作業です。
互いに愛しあい、赦しあう関係が全世界を救いに導くのです。
一対一の弟子づくりの関係、セル・グループの関係、この網で人々を救いに導き
ましょう。

【ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。】

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの
子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテ ロはイ
エスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じで
す。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』 15節」

イエスさまを三度も否認したペテロ、それは遠い昔のことではなく、つい先日の
ことです。ペテロは自分からイエスさまに声を掛けることなどとても出 来ませ
んでした。
彼は自分の犯した過ち、弱さを恥じていました。

イエスさまペテロの気持ちをよくご存知で、ご自分の方から和解の手を差し伸べ
てくださいました。

イエスさまは三度「わたしを愛しますか」とペテロに尋ねられました。
ペテロが三度イエスさまを否認した過ちを、愛で覆うために尋ねられたのです。

イエスさまは兄弟が罪を犯したら、七度を七十倍するまで赦しなさいと教えられ
ました。
イエスさまご自身も、どんな時も愛と赦しを実践されました。
過ちを犯した弟子には、やり直す道を備えられ、弱さを愛で覆われたのです。
私たちも主の模範に従い、兄弟姉妹を進んで赦し、弱さを愛と恵みで覆いましょう!

イエスさまはペテロにアガペーの愛でわたしを愛するかと二度尋ねられました。
アガペーの愛とは無条件の愛です。どんなことがあっても愛し続ける神の愛です。
それに対し、ペテロはアガペーではなく、フィレオ−で答えます。
フィレオーは友情の愛です。アガペーを無条件の愛とするなら、条件のある愛です。
罪を犯す前のペテロなら、間違いなく三度ともアガペーの愛で愛すると答えたで
しょう。
しかしペテロは自分の弱さを自覚して、フィレオーの愛、人間的な不完全の愛で
しか愛せませんと答えるのがやっとでした。

これが成長だと思います。

私たちは、無条件、絶対の愛で神を愛し、従うことはできません。
私たちの中には神の愛アガペーで、神と人を愛せるほど愛はないのです。
自分は不完全であり、自分には欠けたところがあることを認めること、これが信
仰です。
神の愛は私たちの弱さ、欠けた部分に注がれます。