「平安があなたがたにあるように」
聖書箇所:ヨハネ20章1-23節

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所で
は、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に 立っ
て言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手
とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 19.20節」

今日はイエスさまの復活を祝う復活祭です。イエスさまは神と私たちを隔ててい
た私たちの罪を身代わりに十字架で負われ死なれました。しかし三日目 の朝、
罪と死に勝利されて復活されました。復活こそ、イエスさまが主であり、救い主
キリストである証です。イエスさまは全人類に罪の赦しをもたら し、信じる者
に復活のいのちを与える救い主となられました。主の復活の確かさ、復活の希
望、また教えを、本日の聖書箇所から学びましょう。

【キリストの遺体が墓から無くなり、残されたのは巻かれたままの亜麻布…】1-10節

復活の朝の出来事、それはイエスさまの遺体が墓から消えてしまった混乱で始ま
りました。
イエスさまが十字架で息を引き取られた後、次の日が安息日ということもあり、
遺体は簡単な処理をされただけで墓に安置されました。イエスさまを愛 し従っ
ていた女性たちは、ご遺体を綺麗に洗い、しっかり埋葬しようとやってきたのだ
と考えられます。
ところが、だれが移したのか、愛するイエスさまの墓が空になっている。
動転したマグダラのマリヤを始めとする女性たちは、弟子たちに話し、ペテロと
主の愛する弟子、たぶんヨハネと考えられる弟子がやって来て空の墓の 確認を
しました。
彼らはそこで、不思議な光景を目にするのでした。

「シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエ
スの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所 に巻か
れたままになっているのを見た。」ヨハネ20章6.7節

イエスさまの遺体に巻かれた亜麻布が巻かれたまま、すなわち遺体を巻いた形の
まま置かれてあって、包んでいた遺体だけが無くなっていたのです。
例えは良くないのですが、昔、ミイラ男という怪人が、映画かマンガに登場して
いました。
そのミイラ男の形のまま、亜麻布が置かれてあって、中身が無くなっていたのです。

「そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして見て信じ
た。8節」

「見て、信じた」とありますが、残念ながらペテロもヨハネも信じたのは不思議
な出来事が起きたことを信じただけでした。彼らはまだ、イエスさまが 復活し
たことを信じたのではなかったのです。そのため彼らは復活の第一の証人にとは
なれませんでした。

「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、ま
だ理解していなかったのである。9節」
聖書が預言している復活を理解していないため、彼らは復活の明確な証拠を見な
がらも、それが彼らの心を変え、彼らの人生を変革する信仰の力とはな らな
かったのです。

私たちは神が与えたしるし、奇跡を見聞きしたとしても、聖書のことばと結び合
わせられないならば、それらは決して人生を変える神の力、信仰の力と はなら
ないのです。

私たちは神の奇跡や、不思議な体験、劇的な状況の変化を求め、それこそが神の
助けであると考えやすいのですが、それらを求めるよりも、まず神の約 束、神
のことばをしっかりと心に蓄えることが大切です。

神のことばをしっかりと心に蓄え、聖書のことばを通して日常を見る時、そこに
は神の恵みが溢れていることに気付かされ、感謝と賛美が沸き上がって くるの
です。
神が今日もいから強く働いておられることを見ることが出来るように、神のこと
ばである聖書を熱心に読み、それを理解する力を神に求めましょう。

【復活の第一の証人:マグダラのマリヤ】

「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きなが
ら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。11節」

マグダラのマリヤが復活の第一の証人となりました。十一弟子ではありませんで
した。
弟子たちは家に帰って行きましたが、マグダラのマリヤは墓にとどまったからです。
マリヤはイエスさまなしに生きていくことは考えられないほど、イエスさまに依
存していました。彼女はイエスさまが死んでもなお、イエスさまを求め 続けて
いました。
これが信仰です!そして神は私たちの信仰には必ず答えて下さいます。
神はご自身を求める者に、必ずご自身を表して下さる。これは今日も変わりません。

あなたがどれほど神を求めたのか、それがそのままあなたの信仰となり、神との
体験の深さとなるのです。

ヨハネ福音書ではイエスさまはマグダラのマリヤ個人に現われたことになってい
ます。
他の聖書箇所では複数の女性たちが墓を訪れていますが、ここではマリヤ個人に
スポットが当てられています。聖霊はこの箇所を通して、私たち個人の 霊的生
活の大切さを教えておられるのだと思います。日曜日の礼拝、スモールグループ
での礼拝、祈りも大切ですが、それとともに個人での礼拝の時 間、神を求める
時間も同じように大切です。

マグダラのマリヤのように、主を求め続けましょう!日々、主に出会い、復活の
いのちの喜び、復活のいのちに満たされましょう。
【平安があなた方にあるように】

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所で
は、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に 立っ
て言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手
とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 19.20節」

まだ復活を信じることが出来なかった弟子たちはユダヤ人を恐れ、戸を閉めて家
に引きこもっていました。彼らは不安と恐怖の中に置かれていたので す。
しかし、復活されたキリストは不安と恐怖におびえる弟子たちの真ん中に来られ
ました。復活の主は彼らに平安と喜びをもたらしたのです!

復活の主がおられるところはどこでも、恐怖は喜びに、不安は平安に変わります。

もし私たちが難しい状況に置かれ、希望が見いだせず、恐れを抱いていたとして
も、まず復活の主を礼拝しましょう。人類にとって最大の敵である死と 罪に勝
利され復活された主を心の真ん中に、また問題の真ん中にお迎えしましょう。主
の勝利が不安と恐怖を平安と喜びに変えます。

イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。
イエスさまが天に変えられてから、弟子たち、私たちに、復活のいのちを注がれ
るのが聖霊、神の霊だからです。イエスを神の一人子、救い主キリスト と信じ
る者は誰でも、聖霊が与えられるのです。これは神の約束です。

聖霊を受けるのに、何の努力も、修行も必要ありません。私たちが聖霊を受ける
のは私たちの願いよりも、神の願い、約束だからです。

しかし、聖霊が与えられているにもかかわらず、聖霊を通してキリストの復活の
いのちと喜び、平安に満たされてないクリスチャンもいます。何が聖霊 の働き
を妨げているのでしょうか。主のことばに答えがあります。

「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父が
わたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』21 節」
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれ
かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。23節」

21節にあるように、聖霊は神の御国の拡大のため、神に遣わされる者に平安を与
えるのです。自己中心な願い、自分の栄光を求める者に聖霊を通して 神の平安
が与えられることはありません。

また聖霊の働きを止めてしまう罪、それは赦さないこころです。
聖霊は赦しと和解をもたらすために、私たちを通して力を表されます。
しかし、私たちが赦さない心、憎しみと恨みを抱え続けるなら、聖霊は私たちを
通して働くことが出来ません。

神の御国の拡大のため、福音を伝えるために自分を捧げ、赦しと和解を実践する
とき、私たちの心に、聖霊の平安、復活のいのちの喜びが流れるので す。