「十字架上の七つのことば(2)」
聖書朗読箇所:ルカ福音書23章


来週の日曜日はイエスさまの復活を記念する復活祭です。
今週は私たちの罪のために十字架を背負われたイエスさまの苦しみを覚える受難
週です。
イエスさまが語られた十字架上の七つのことばを通し、十字架の意味を覚えま
しょう。

パウロは主イエスの十字架について、このように語っています。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たち
には、神の力です。」Tコリ1章18節

十字架のことばは、私たちを救い、信仰から信仰に歩ませる神の力です。
十字架と復活、これこそが私たちの信仰の土台です。
十字架と復活の上に揺らぐことのない信仰、力あふれる信仰を築き上げましょう。

【わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか】

「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれ
た。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったので す
か。』という意味である。」マタイ27章46節

イエスさまを信じない人は、このことばをイエスさまの敗北宣言だと受け止めます。
イエスさまは十字架で泣き事を言っている。彼はキリスト、救い主ではないと。
しかし、イエスさまを信じている私たちにとっては、このことばこそ救いです!
イエスさまが確かに私たちを救って下さった、これは救いのことばです!

なぜイエスさまは神に見捨てられたのですか。
この時、イエスさまが神に見捨てられ、拒絶されたのは事実です。
聖書はイエスさまが神に見捨てられ、拒絶された理由をハッキリと教えています。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たち
が、この方にあって、神の義となるためです。」Uコリ 5:21

イエスさまは私たちの罪の身代わりになり、捨てられました。
本来は私たちが自分の罪のために十字架に付けられ、神を呪いながら死ななけれ
ばならなかったのです。私たちが犯した大きな罪をイエスさまは身代わ りに受
けられ、私たちの代わりに神に捨てられ、罰を受けられたのです。
イエスさまの身代わりによって、私たちは罪のない者、罪赦された者とされたの
です。

救われるためには、良い行いをしなければ、聖書の戒めを全部守らなければ救わ
れないと考えている人がいます。良い人になってから教会に行こうと考 える人
もいます。
それは間違っています。

先ず救われて、天の父なる神との関係が正しくされ、父からいのちと力である聖
霊をいただいて始めて良い行いが出来るのです。

救われる前に、神の前に正しくなることは誰にもできません!
もし人が自分の努力で救われるなら、イエスさまの十字架は必要ありませんでした。

先ずイエスさまを救い主として受け入れるのです。イエスさまの救いを信じるの
です。
あなたが今、どんな状況に置かれていても、まず信じるのです。
父なる神との関係を正しくし、父からいのちを受けるのです。それがあなたを変
えます。

また、すでにイエスさまを信じている人にお勧めします。
イエスさまはご自身が神に捨てられる、呪われた者となって、あなたと神の間に
ある全ての壁、交わりを邪魔する全ての呪いを取り除かれました。神を 求めま
しょう!
さらに父なる神との深い関係を求めましょう。あなたが願うだけ、父はあなたに
近づいて下さいます。

【わたしは渇く】

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するため
に、『わたしは渇く。』と言われた。」ヨハネ19章28節

「わたしは渇く」、これはイエスさまが肉体の苦しみを告げている箇所です。
主が十字架に付けられたのは午前9時頃、息を引き取られたのは午後3時頃と考え
られています。約6時間も十字架上に貼り付けにされ、血液や体の水 分は殆ど流
れ出て、激しい渇きに苦しめられていたと思われます。

なぜキリストは渇き、苦しまれたのでしょう。
「聖書が成就するため」と直前にあります。聖書のどの箇所でしょう。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは
思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼 は、私
たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲
らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たち はいやされ
た。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって
行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせ た。」イザヤ53章
4−6節

救い主イエスが罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのは、5節によると私たち
に平安をもたらすためであり、キリストの打ち傷によって、「私たちは いやさ
れた」とあります。

罪がもたらす呪い、病、心の不安も全てキリストが十字架でその身に負われました。
イエスを信じる私たちには十字架により、癒しと平安があります!
※肉体は必ず死を受けます。どんな信仰者であっても肉体の死は避けられませ
ん。しかし、それも勝利です。栄光の体が与えられるからです。すべての 障害
も病も栄光の体を受ける時、完全に癒されます。これが癒しの完成です。 
しかし、肉体を持っている現在も、神との交わりが再開されることを通し、神の
いのちに触れ、肉体が癒されることもあります。肉体の癒しも神に求め ましょう!
キリストの十字架による癒しと平安を大胆に求めましょう。

たとえこの世にいる間、病が治らなかったとしても、霊と魂が病に負けることが
ないように、キリストの癒しを信仰によって求めましょう。内なるいの ちが湧
き出るように。

【完了した】

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そし
て、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」ヨハネ福音書19章30節

イエスさまは救いの業を完了されました!

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これ
らのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔とい う、死の
力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放
してくださるためでした。」
ヘブル人への手紙2章14.15節

救いの完成は、私たちを死と悪魔の束縛から完全に開放しました。
私たちは死の恐れから開放されたのです。罪からも開放されました!

恐れるのを止めましょう!主が私たちに勝利を与えてくださいました。
罪を捨て、主を信じるに相応しい生き方をしましょう。罪から開放されているか
らです。

【父よ。わが霊を御手にゆだねます。】

「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こ
う言って、息を引き取られた。」ルカ福音書23章46節

全人類の救いの道を完成し、霊を父の御手に委ねたイエスさまには平安がありま
した。
ここに安らぎがあります。十字架の上とは思えない、平安と安らぎがあります。
イエスさまは地上で父のみこころを完全に成し遂げられました。使命を全うしま
した。
そこには何の後悔もなく、平安とやすらぎ、喜びがあったと確信します。
これがイエスさまの歩まれた十字架の生涯でした。

十字架の道を歩まれたイエスさまは、私たちも自分の十字架を背負ってイエスさ
まの後をついてくるように招いておられます。

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うな
ら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさ
い。』」ルカ9章23節

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることは
できません。」ルカ14章27節

自分の十字架を背負うとは、生まれながらの自己中心、人間中心の生き方を神の
みことばに従うことで否定することです。自分の栄光ではなく、神の栄 光、神
の国を第一にする人生です。十字架を背負う人生は時に辛い時もあるでしょう。
しかし、そこには救いの実が結ばれ、神の御国は拡大し、あなた に与えられた
使命を全うする生き方なのです。
主が息を引き取られた時、完全な平安にあったように、主に従う者も、満ち足り
た喜びと平安の中、パラダイスへと移されると確信します。

主の十字架の人生に従いましょう。自分の欲望、自分を第一に生きるならば、救
われていてもこの世を去る時、大きな後悔が残るでしょう。
自分の十字架を背負って、主に従いましょう!