「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」
聖書箇所:マルコ福音書14章1節から11節

「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておら
れると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏 のつぼ
を持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤
慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにした のか。この香
油なら三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうし
て、その女をきびしく責めた。」マルコ14章3-5節

【何のために、香油を・・・】

今月の最後の日曜日、3月31日(日)はイエスさまの復活を記念する復活祭です。
今月はイエスさまの十字架と復活をテーマにみことばを分かち合いたいと思います。
イエスさまはエルサレムに入場される前、ベタニヤで過ごされました。
ベタニヤにはイエスさまの愛されている弟子、マルタとマリヤ姉妹とラザロがい
ました。
イエスさまの頭に高価なナルドの香油を注いだのは、ヨハネ福音書12章によると
マルタの姉妹のマリヤであることが分かります。ヨハネでは香油を足 に塗った
とあり、マタイとマルコでは頭に注いだとあります。マリヤはイエスさまの全身
に、頭から足まで香油を注いだのでしょう。三百グラムもの香 油を注いだので
す。家は香油の香りでいっぱいになりました。

さて、なぜマリヤはイエスさまに高価なナルドの香油を三百グラムも注いだので
しょう。
弟子たちが指摘しているように、三百グラムものナルドの香油をお金に替える
と、三百デナリにはなったようです。一デナリは当時の労働者の一日分の 賃金
でした。仮に一デナリを一万円とするなら三百万円です!三百万円分の香油を一
気にイエスさまに注いだのです。弟子たちが驚き憤慨したように、 マリヤがし
た行為は普通ではありませんでした。
なぜマリヤは高価な香油をイエスさまに注いだのでしょう。

私たち日本人は風呂に入る文化があるため、あまり香水や香油を塗る、注ぐと
言った文化は発達しませんでした。しかし風呂文化のない国々では体臭を 消す
ため、また皮膚を守るために香油を注ぎ、油を塗ると言った文化が発達しました。
そしてイスラエルでは日常生活に香油が不可欠なだけでなく、儀式などにおいて
も香油が大切な役割を持っていました。

旧約聖書では王、祭司、預言者の働きに就く時に、頭に油が注がれました。
幕屋や祭壇、聖所の器具には特別な油が注がれ、神さまのものとされました。
神のための働きをするものには、まず油が注がれ、神のものとされたのです。
そして旧約聖書に預言されている救い主はメシア、ヘブル語では油注がれた者と
呼ばれています。
「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそ
がれた者とに逆らう。」詩篇2編2節

「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てか
ら、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その 苦しみ
の時代に再び広場とほりが建て直される。」ダニエル9章25節

なぜマリヤは非常に高価な油をイエスさまに注いだのか、それはマリヤの心から
の信仰の告白だったと言えるでしょう!

イエスさま、「あなたこそ私のメシア(油注がれた方)です!」と信仰の告白を行
動で表し、イエスさまを礼拝したのです。

しかし、まだ疑問が残ります。なぜ、この時にマリヤは油を注いだのか。
その答えはイエスさまのことばの中にあります。

「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」マ
ルコ14:8

油は神聖な儀式のためにも用いられましたが、葬儀で遺体の腐敗臭を消すために
も用いられました。マリヤはイエスさまが十字架で死なれる時期が近い ことを
知っていたのです。

イエスさまはご自分がエルサレルムで十字架に付けられ殺されることを何度も弟
子たちに話して来ました。しかしいつも一緒にいた十二弟子たちはその 意味が
分かりませんでした。
主の足元で、教えに聞き入っていたマリヤだけはハッキリと分かっていたのです。

地上でイエスさまに会えるのはこれが最後だと分かった彼女は大切に準備してい
た嫁入り道具の一つである高価なナルドの香油を信仰の告白と、十字架 の準備
のために主に注いだのでした。

【・・・無駄にしたのか!】

マリヤが惜しげも無く、高価なナルドの香油を、それも三百グラムも一気にイエ
スさまに注いだのを見た弟子たちは憤慨したと聖書にあります。その値 段を考
えると、無駄であり、常識を超えているとマリヤの行為を責めました。

しかし、マリヤの行為は無駄だったのでしょうか。
香油を節約して、五グラムぐらいをしっかり量って注げば良かったのでしょうか。

そうではないと思います。マリヤが高価な香油を量らずに、一気に注ぎ尽くした
ところに、マリヤのイエスさまに対する心からの愛が表されているので す。
イエスさまはマリヤの行為が世界中のどこでも福音が伝えられる所で、記念とな
ると言われました。これは驚くべきことばですが、この意味は、彼女の 行為の
中に礼拝の本質があると教えておられるのだと思います。

計算高い愛は、本当の愛ではありません。愛は相手のために全てを捧げ尽くすこ
とです。愛は相手のために、自分を見失うことです。愛には何の打算も 含まれ
ません。
これは神を愛することも同じであり、神への礼拝の姿勢でもあります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御
子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つた めであ
る。」ヨハネ3:16

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、な
だめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるので す。」Tヨハ
4:10

まず神ご自身が私たちを愛するために、途方も無い大きな愛を私たちに注いで下
さったのです!これが父なる神の愛です。

初めはマリヤも計算高い、人間的な愛しか知らなかったのでしょう。
しかし、人間的な愛、自己中心と欲望中心の愛に振り回され、心底疲れ果て、絶
望している時にキリストに出会ったのだと思います。
マリヤを無条件、無代価で愛し、赦し、受入れて下さるイエスさま。
自分のために、自分の罪のために死のうとしているイエスさま。
イエスさまの愛がハッキリとマリヤの心に示された時、彼女の心にも愛が生まれ
ました。

彼女は自分自身として、高価なナルドの香油を惜しむこと無くイエスさまに注ぎ
尽くしたのです。そして、これが神を礼拝するこころです!

イエスさまは「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。マルコ
14:6」とマリヤの愛と礼拝をしっかりと受け止めてくださいました。

この箇所には礼拝の本質が描かれています。
そして、あと二つ礼拝に関して学ぶことがあります。

○主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい(エペソ5:10)

「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがた
がしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わ たし
は、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」マルコ14:7

神に仕えること、礼拝を捧げることがマンネリ化してはならないのです。
その時その時で、主が何を願われているのか、何を喜ばれるのかを聖霊によって
知ることです。みことばと聖霊に導かれる生きいきとした、主に喜ばれ る礼拝
を捧げましょう。

○自分に出来ること、それが最善の礼拝

「この女は、自分にできることをしたのです。」マルコ14:8

私たちはマリヤに倣って高価なナルドの香油を注ぐ必要ありません。それはマリ
ヤにとって最善の礼拝でした。自分にできる最善の礼拝、それを神は喜 ばれる
のです。

ある人は、一週間働き通し、疲れが残っているにもかかわらず、日曜日の朝に教
会に来ること、それが主に喜ばれる、最高の主への捧げ物として受け入 れられ
るのです。
イエスさまはある貧しいやもめが、レプタ銅貨二枚を捧げたのをご覧になって、
他のどの人よりも彼女は多くを捧げたと、彼女の礼拝の姿勢を喜ばれ、 また認
められました。

主はあなたの捧げる心、姿勢をご覧になっておられること、そして心からの礼拝
を喜ばれることを覚えましょう。

【そうして、その女をきびしく責めた】

しかし、残念ながらこの愛を、礼拝の本質を理解しない人たちが弟子の中にいま
した。
その筆頭はイエスさまを裏切ったイスカリオテのユダでした。
彼はマリヤの行為に憤慨し、大変な浪費、無駄であると彼女を責めたのです。

私たちもマリヤのようにキリストの愛に触れられると心が新しくされ、開放され
ます。
マリヤのように神を喜ばすことが生き甲斐になり、喜びに変わります。
さまざまな奉仕に時間を捧げ、喜びから回りの人達に福音を伝え、生活全体が主
を中心に回っていきます。

しかし残念なことは、私たちのこの新しい生き方を回りの人が理解してくれるこ
とが殆ど無いことです。頭がおかしくなった!宗教に騙されている!人 生を無
駄にしている!と口々に主に仕える人生を非難し責めます。ユダがマリヤを責め
たのと同じです。

ユダを始め、主に仕える者の生き方を非難し、無駄だ、浪費だと思う人たちは主
の愛を知らないのです。主の愛によって変えられた人生を知らないので す。

裏切り者のユダはなぜイエスさまに従っていたのでしょう。
ユダがイエスさまに従った理由は、それが彼にとって利益になると思ったからで
す。ユダも、そして弟子たちの多くも、イエスさまを政治的なメシア、 革命家
だと思っていました。
イスラエルをローマから開放する民族の英雄になると考えていたのです。彼に
従っていれば、自分も相応しい地位と名誉が与えられると考えていまし た。自
分の利益のためです。

このことから一つのことをハッキリと言わなければなりません。それはキリスト
に肉(自己中心)の満足を求める者は、必ずキリストを裏切るようにな るという
ことです。

私たちはユダの教訓から学ばなければなりません!
自分がキリストに従う動機が、何かをしてもらうためにキリストに従っているのか?
もしくは、キリストがしてくださったことに感動してキリストに従っているのか
です。

マリヤのように主の足元にひれ伏し、主が私たちのために何をして下さったのか
を聖書のみことばの中に求めましょう。十字架に示された神の愛を見上 げま
しょう。

一つの霊的な質問をさせて下さい。

あなたは回りの兄弟姉妹たちが純粋に、打算無しにキリストに仕え、捧げている
姿を見て、自分の中に冷めている部分、批判的に見ている心はないで しょうか。
あなたの心の目が十字架のキリストを確かに見ているか、自分の心に問うて下さい。

次に、キリストの愛を知っている、愛に感動している兄弟姉妹に尋ねたいと思い
ます。
その受けた感動を、受けた愛を、心の中に留めるだけではありませんか。
心に留めるだけ、またキリストの愛を知識として知っているだけでなく、マリヤ
のように、自分の出来る最善をもって表現して見ませんか。
天の父は、あなたの礼拝を心から受けたいと願われています。