「あなたは今、荒野にいる!」         
聖書箇所:マタイによる福音書26章36節から56節


【あなたは今、荒野にいる!】

先週はイエスさまが十字架に付けられる前夜、弟子たちとともに過越の祭りを
守った箇所を分かち合いました。イエスさまは弟子たちとご自身の血によ る新
しい契約を結ばれたのです。この契約はイエスを救い主と信じるすべての者と、
今日も結ばれるものです。
イエスさまご自身が十字架上で過越の犠牲となられ、その血をもって、信じる全
ての者を罪の奴隷から、死の滅びから解放して下さいます。

過越によってエジプトから開放されたイスラエル人は、約束の地へ旅立ちました。
しかし、エジプトから約束された地の間には荒野がありました。シナイ半島の荒
野です。
神はイスラエルの民を約束の地に、神の民に相応しく整えるために、荒野の訓練
を用意されました。

エジプトからイスラエルまでは、車で二、三時間の距離です。国境を接して隣の
国です。
しかしイスラエルの民は荒野を通って約束の地にたどり着くまで四〇年も掛かり
ました。
エジプトを脱出したイスラエル人はヨシュアとカレブを除いて誰ひとり、約束の
地に辿り着けなかった。彼らの世代は荒野で滅び、彼らの子孫だけが約 束の地
に入ることを許されたのです。

神に逆らう者たち、奴隷の精神を引きずる者たち、信仰よりも、快楽を選ぶ者た
ちは皆、荒野で滅ぼされました。ただ清められた次の世代だけが約束の 地を受
け継ぎました。

これは私たちに対する霊的な教訓です!
私たちもイエスの血により新しい契約を結び、罪の奴隷から開放され、神の国を
目指して罪の世を旅立った者です。そして私たちは今、まだ神の国には 達して
いません。
イエスの再臨とともに到来する神の国を待ち望んでいます。
私たちが今いる場所が、信仰の荒野なのです。
神の国に入るのに相応しく、私たちを整える訓練の地を私たちは歩んでいるのです。

シナイの荒野をヨシュアとカレブが乗り切ったたように、私たちも信仰の荒野を
乗り切るための模範が必要です。私たちの救い主イエスは、救い主であ るとと
もに、信仰の模範でもあります。ご自身が先ず、信仰の荒野を、信仰の訓練を受
け、私たちにその道を示してくださいました。

イエスさまの救い主としての生涯、約三年と考えられる公の生涯は正に荒野の旅
でした。
水のバプテスマを受けた後、直ぐに荒野に導かれ、悪魔の試みを受けられました。
イエスさまは悪魔のすべての試みに勝利されましたが、それで荒野の訓練が終
わった訳ではありませんでした。最後の訓練、ゲッセマネの園での訓練が 残さ
れていました。

イエスさまは血のような汗を流すほど、苦しみ悶えて祈られたと聖書に記されて
います。
十字架での死を直前に、イエスさまは苦しまれたのです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる
方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そし てその
敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けに
なった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従 うすべての
人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの
位に等しい大祭司ととなえられたのです。」ヘブル 5:7-10

イエス・キリストは父のみこころに完全に従われ、十字架の死と復活を通して、
信じる者全てを救う救い主となられたのです。そして信仰者の模範とな られた
のです。

私たちにも信仰の荒野が用意されていること、今ここが信仰の荒野であることを
覚えましょう。この荒野は私たちを滅ぼすためにあるのではありませ ん!
私たちを神の国に相応しく整えるための訓練であることを覚えましょう。

神に逆らう性質、罪を懐かしく思い、罪を慕う性質、神のみことばよりも自分の
気ままな思いに従う性質、それら全てを捨て去り、主イエスのように、 心から
父に従うための訓練の場所です。

職場の人間関係、家庭での人間関係、付き合いにくい人、難しい人、意地悪な人
とどのように愛を持って接するのか。優先順位の問題、自分の時間を、 自分の
お金をどのように使うのか、それら全てが訓練です。

私たちは誰ひとり荒野で滅びる者になってはなりません!信仰の失格者、また自
らエジプトに帰る者、罪と堕落した生活を懐かしむ者があってはなりま せん。

主イエスを模範として、荒野の訓練を乗り越えましょう!
ヨシュアとカレブのように、信仰の勇者として大胆に荒野を進みましょう。
荒野はあなたを滅ぼすためではなく、信仰の勇者、勝利者に成長させるためにあ
ります。

【あなたが荒野を乗り切るために必要なこと】

神の御子であるイエスさまでさえも、十字架の道に従うことは苦しみでした。
イエスさまは私たちを救い、信仰の模範となるために、人間の弱さをも負われま
した。
神だから、問題なく十字架を背負えた訳ではないのです。弱い人間として十字架
を負われました。だからイエスさまは苦しまれ、また私たち信仰者すべ ての模
範なのです。

「そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどで
す。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』そ れか
ら、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。でき
ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、 わたしの願
うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」マタ
26:38.39

出来ることなら、十字架を背負いたくない。これは人となられたイエスさまの本
音でした。
しかし、もう一つの本音、自分の願いではなく、父のみこころがなりますように。
この狭間でイエスさまは苦しまれたのです。これが信仰の試練です!

罪の奴隷は罪を犯すことに、何のためらいもありません。何の苦しみもありません。
信仰者が苦しむのです。なぜなら父のみこころを行いたいという本音があるから
です。
だから試練を感じている人、主に従うに苦しみを覚えている人は救われている人
です。
そして苦しみを経て、勝利者になりましょう!苦しいだけで終わっては残念です。

十字架を負いたくない、この気持を抱えていたイエスさま、しかしゲッセマネの
園を後にするときには、完全に変えられていました。十字架を父のみこ ころだ
と確信し、大胆に十字架に向かって進まれました。

イエスさまはどのようにして、弱さを克服し、信仰の試練、苦しい迷いから勝利
されたのでしょう。私たちはイエスさまの模範から学びましょう。

@祈り:イエスさまは「わが父よ」と心にある全てを注ぎ出して祈られた。
祈りと聖書のことばなしに、心が変えられることはありません。
私たちは聖書を通して天の父の喜ばれることを知り、祈りを通して心を変えてい
ただくのです。聖書の教えと自分の考え、思いが違う時、正直に天の父 に告白
して祈りましょう。
従うのが難しい時、辛い時、天の父に自分の思いをそのまま伝えるのです。
祈りを通して、神は私たちの心に平安をもって答えて下さいます。

Aスモール・グループ:「ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行
かれた」イエスさまは苦しみ悶える祈りの場に、ペテロとヤコブ、ヨハ ネを連
れて行きました。
イエスさまでさえ、祈りの友、信仰の仲間を必要としたのです。
自分の試練に向きあうために、自分の心を正直に分かち合える信仰の友は不可欠
です。
信仰は、決して個人の頑張りで乗り切るものではありません。
信仰の成長は神との正しい関係、神の家族との正しい愛の関係によって成長する
のです。

(注意!)スモール・グループは大切です。これ無しに健全な信仰の成長はあり
ません。
しかし、この時の十二弟子のように、聖霊に満たされていない人たちがスモー
ル・グループを持つと、却って信仰が妨げられる危険があります。

イエスさまが招かれたペテロとヤコブとヨハネ、残念ながらイエスさまの力には
なりませんでした。却って、イエスさまの苦しみを増す存在でした。苦 しむイ
エスさまの傍らで、眠りこけていたのですから。また、イエスさまが祈りを終え
て十字架に進もうと決断された後、ペテロは大祭司の僕に剣を 持って打ち掛か
り、またもや十字架の道を邪魔しました。

イエスさま眠りこける弟子たちに注意を与えました。

「わたしといっしょに目をさましていなさい。」マタイ26章38節
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」マタイ26章41節

イエスさまは「目をさましていなさい」と繰り返して注意しています。
自分が今、どこにいるのか?神の国を目指しながら、しかし御国にふさわしい者
に整えられるための訓練を受けていること、このことをいつも覚えてい るもの
が目をさましている者です。自分がどこから来て、今どこにおり、どこに向かっ
て歩んでいるのか、聖書により明確に知っているものです。

私たちが他の兄弟姉妹の助けとなり、またスモールグループが互いの霊的成長に
役立つために、私たちは絶えず目をさまして祈り、兄弟姉妹を助けるも のとな
りましょう。

また聖霊に満たされること無しに、私たちが兄弟姉妹の良き助けになることはあ
りません。
キリストの愛と赦しに生き、神の国の拡大のために祈り、証しし、福音を伝える
者が聖霊に満たされるのです。

お互いが信仰の荒野を乗り切り、神の国に入るにふさわしい者と整えられるため
に、目を覚まし、聖霊に満たされ、互いに愛しあい助けあって進みま しょう。