「イエスさまが教える本当の幸せ@」
聖書箇所:マタイ福音書5章から

イエスさまの山上の説教(垂訓)を分かち合いたいと思います。
この教えはイエスさまの弟子たちに与えられた八つの幸せの教えから始まります。

イエスさまに従うことは、最高の幸せです!
イエスさまは私たちを、最高の幸せに導いて下さるのです。

クリスチャンになることは宗教家になることではありません。
イエスに従うことは、決して禁欲主義に生きることではありません。
本当の幸い、本当の幸福を得ることなのです。

多くの人は、この世の楽しみ、喜びを捨てないとクリスチャンになれないと思う。
だからクリスチャン・ライフは堅苦しくて詰まらないと思う。
ある意味で正しいのですが、ある意味で間違っています。

正しいのは、この世の楽しみ、喜びを捨てることです。
なぜならこの世の楽しみ、喜びとすることは、本当は私たちの楽しみにも喜びに
もならないからです。この世の快楽は必ず苦痛に変わるのです。本物の 楽しみ
ではないのです。
だから捨てるのです。

そしてイエスに従うことは決して堅苦しく詰まらない人生ではありません。
それは本当の幸いを与え、永遠に続く喜びなのです!

しかし、この幸い、喜びはクリスチャンになったら自動的に手に入るのではあり
ません。
宗教としてのキリスト教には人を変える力はありません。
大切なのは、その人がイエスの教えを実践することです!
イエスのことば、イエスの教えを信じ、行う人が真の幸せを手にするのです。

山上の説教の最後の部分には、このことが強調されています。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自
分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し 寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てら
れていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自
分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押 し寄
せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひど
い倒れ方でした。」マタイ7:24-27

イエスの教えを聞いて、行うことが大切です。イエスの教えは絵に描いた餅では
なく、実際に食べられるもの、いや食べるべきものです。イエスの教え を良く
理解し、それを人生に適用するなら、喜びと平安に満ちた、本当の幸せを体験す
るのです。


【霊が貧しいことを謙虚に認める人は幸せ】

Happy are those who know they are spiritually poor; the Kingdom of
heaven belongs to them.(TEV)

自分が霊的に貧しい(ことを謙虚に認める)人々は幸いです。
彼らは天国にいるのも同じです。                   (個
人訳)

このイエスさまの教えを理解するためには、当時の状況も考えなければなりません。

5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもと
に来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

イエスさまの教えを求めて、大勢の群衆がイスラエルの各地から集まって来たの
です。
電車もバスもない時代、みな歩いてやって来ました。人里離れた山にまでイエス
さまを求めて集まって来たのです。彼らは神の教えに飢え渇いていたの です。
その飢え渇きをイエスさまのことばで満たしていただきたいと集まって来たのです。
イエスさまは彼らの行動、態度を見て、幸いであると言われたのです!

自分の霊が貧しい、満たされていないことを謙虚に認め、イエスさまによって霊
を満たしていただきたいと願う人が幸いなのです。

【霊が貧しいとは・・・】

霊が貧しいとは、どういうことでしょうか。
霊とは心の一番深い部分です。その部分が貧しい、空っぽ、満たされていないの
です。
神を知らないこの世の人々も、自分の心の奥底には満たされていない部分がある
ことを知っています。しかし、多くの人はその貧しさを物質的な豊か さ、この
世の地位や名誉、ある人はアルコールや薬物で誤魔化そうとしています。

自分の心の奥底にある貧しさ、虚しさを認めたくないのです!

なぜなら自分の貧しさを認めたところで、本当にそれを満たす方法を知らないか
らです。
魅力的な異性と関係を持つことで、心は満たされるかもしれない。
初めは心がときめき、しばらくは生きる喜びを得られるかもしれない。
しかし、互いに満たされていないもの同士です。やがて意見の不一致が起こり、
ケンカが絶えなくなる。最初は魅力ある異性が、この世の中で一番憎い 人に変
わってしまう。
そして、また新たな異性を求めて彷徨う。

心の虚しさを満たす方法が、異性でなくても、地位や名誉、お金、アルコール、
美容整形、ギャンブル、薬、何でも同じです。
最初は満たされていたように思えても、必ず最後は、もっと惨めになる。
この世の中に、あなたの心の奥底を満たすことが出来るものは何もないのです!



【霊は神との関係によってのみ満たされる】

私たちの心の奥底、霊の部分はこの世の何物をもっても満たすことは出来ません。
霊は、神との正しい関係によってのみ満たすことが出来るのです!

聖書は人間を霊・魂(心)・体の部分から成ると解釈できる箇所があります。Tテ
サロニケ5:23

体は物質で出来ています。栄養ある食物、暖かい着物、住む場所といった物が必
要です。魂(心)は、正しい人間関係が必要です。家族、友人との正し い人間関
係なしに健全な心は保てません。そして、心のさらに深い部分である霊の部分
は、神との正しい関係によって育てられ、養われて生きるので す。

霊の部分とは、心を支える部分であり、生きる目的、生きる意味、善と悪を正し
く識別する部分です。神のことばと愛が宿る場所です。
しかし罪によって堕落してしまった私たちは、霊の部分が死んでいる、もしくは
眠っていると聖書は教えています。(エペソ2章参照)

霊を人間に造られた神だけが、霊を満たすことが出来るのです。
神との正しい関係を通し、神の人格に霊が形作られるのです。
それが本来のあなたなのです!

イエス・キリストは罪によって断絶した私たちを、再び神と結び合わせるために
来られました。イエス・キリストは私たちと神とを結ぶ道であり、神の いのち
を流すパイプです。
イエスを通して私たちは神の霊、聖霊を受け、神のみことばといのちに溢れるの
です!

イエスを通して聖霊が私たちの霊に流れ、みことばといのちに溢れるには、私た
ちが蛇口を開かなければなりません!それは私たちが神を礼拝すること です。

日曜日の礼拝もそうです。神を賛美し、感謝の祈りを捧げ、みことばを聞き、従
う決心を主に捧げる。これが礼拝です。礼拝を通して聖霊は心に溢れ、 みこと
ばといのちに満ちます。これを日曜日だけでなく、毎日、神を礼拝するのです!

人間関係も同じです。誰かと会う頻度は、その人との心理的な距離をそのまま表
します。神さまとの距離も同じです。毎日、賛美し、感謝の祈りを捧 げ、聖書
を読んで、神の御心に従おうとしている人は聖霊に満たされています。その人が
幸いな人なのです。
イエスさまを通して神さまをいつも礼拝している人は、天国に暮らしているのと
同じです。

自分が霊的に貧しい(ことを知っている)人々は幸いです。
彼らは天国にいるのも同じです。  (個人訳)

神さまと少しでも離れたら、直ぐに自分の霊が力を失い、元気を失うことを謙虚
に受け止め、進んで、熱心に神を礼拝する人は幸いな人なのです。
これに勝る幸せはないと心から思える人が、霊的に成熟した人です。

礼拝の喜びを知って下さい。聖書があなたの力となり、導きとなりますように、
また祈りの中に聖霊の励ましと導きを体験しますように祝福します。