「アモスに学ぶ預言者の姿勢」

聖書箇所:アモス書から

「ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わしてこう言っ
た。『イスラエルの家のただ中で、アモスはあなたに謀反を企てていま す。こ
の国は彼のすべてのことばを受け入れることはできません。アモスはこう言って
います。「ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその国から必ず 捕えられて行
く。」』アマツヤはアモスに言った。『先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その
地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預 言するな。ここは王
の聖所、王宮のある所だから。』アモスはアマツヤに答えて言った。『私は預言
者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は 牧者であり、いちじく桑の
木を栽培していた。ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せら
れた。「行って、わたしの民イスラエルに預 言せよ。」と。』」アモス書7章
10−15節

【主の言葉に単純に従う預言者アモス】

預言者アモスはテコア出身であると1章1節に書いてあります。テコアは南ユダ王
国に属しています。アモスは故郷を離れ、北イスラエルに移動して預 言活動を
はじめました。

彼の預言は北イスラエルの堕落した信仰と不正を徹底的に糾弾するメッセージで
した。
ベテルの祭司アマツヤが「この国は彼のすべてのことばを受け入れることはでき
ません(10節)」とヤロブアム王に訴えているように、彼の言葉は王 や祭司、金
持ちなどの有力者たちには耳の痛い言葉、痛烈な批判でした。
アモスは王、祭司、有力者たちに対する痛烈な批判を離れた南ユダの地で語った
のではなく、北イスラエルにわざわざやって来て語りました。国の外れ や人の
いないところではなく、ベテル(北イスラエルの聖所が置かれた場所、宗教の中
心地)で語り、サマリヤ(北イスラエルの首都)で大胆に語りま した。

彼は身の危険をも顧みずに、捨て身になって、大胆に主の言葉を伝えたのです。
ここに預言者の精神、預言者の心を見ることが出来ます。

アモスは「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であ
り、いちじく桑の木を栽培していた(14節)」者でした。
これは彼が宮廷に仕える職業的な預言者や、また預言活動をしていた預言者の群
れにも属していないという意味でしょう。現在ならば、教団・教会に属 する牧
師でもなければ、神学校を卒業したものでもない、職業を持った普通の信徒とい
う意味になると思います。
彼の預言活動は、この世の権力によって承認されたものではなく、ただ15節、
「行って、わたしの民イスラエルに預言せよ」との主の語り掛けに従っ たもの
でした。

「主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』」アモス
7章15節

アモスのように、単純に主の言葉に従うことが大切です!
主のことばに単純に、素直に従う時、私たちは実を結び、主の栄光を見ます。

主はアモスだけに語られ、私たちには語られていないのでしょうか?
そうではありません!今の恵みの時代、主は主を信じる全ての者に語っておられ
ます。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地
においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなた がたは
行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名に
よってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておい たすべての
ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつ
も、あなたがたとともにいます。』マタイ28章18−20節

この言葉は11弟子だけに語られたものですか?それなら宣教は使徒の時代だけで
終わったでしょう。この言葉は給料をもらって働く牧師、宣教師、神 学校を卒
業した者だけに語られたことばでしょうか?違います!主を信じ受け入れた、全
ての者に語られたことばです。(もちろん、より良く主と人に 仕えるために訓
練や教育を受けることは大切です)

愛する兄弟姉妹の皆さま!アモスのように素直に、単純に主のみ言葉に聞き従い
ましょう。
主が語られる言葉に聞き従いましょう。 ただ聞くだけの者であってはいけません。
忍耐を持って、諦めずに主の言葉に従う時、必ず実を結びます!

主の言葉に従う時、時には苦しみ、身の危険、孤独、迫害がやってくる時があり
ます。
しかし、それでも主の言葉を批判し、否定し、自分勝手に解釈して、自己中心の
生活、自分を楽しませるだけの人生よりも、比べることの出来ない喜び があり
ます!

アモスはいちじく桑の栽培と羊を飼う仕事を手放してまでも、主の言葉に従いま
した。
彼がやっていた仕事は大切な働きでしたが、それでも彼は主の言葉に従うことを
さらに優れた働きと受け止め、主の言葉を伝えることに専心しました。
アモスの受けた報いは計り知れないものです。もちろん、この世でその報いを受
けませんでしたが。

私たちにも主の約束の言葉があります。

「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者は
すべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」マタ イ19章29節

これは父・母を軽んじるとか、世話や責任を放棄することでは決してありません!
それは注意して下さい。家庭に対する責任を放棄するものは信仰者と言えないと
パウロは注意しています。この言葉は人間関係で最も大切な父・母を優 先する
ことよりも、神のみ言葉に仕えることを優先しなさいという意味です。そうする
ならばあなたも、あなたの家族もいのちと祝福を受けるとの約束 なのです。

これほど大切な祝福を伴う言葉を私たちは受けているのですから、主の救いの言
葉、癒しと恵み、希望の言葉を家族、友人、職場の人に伝えましょう。
あなたが主の言葉により、希望と平安に満ち、愛と慰めに満ちて生きているな
ら、必ずいのちの影響が人々に伝わります。

これが主イエスの言葉を第一にする生き方、主イエスの弟子の生き方です。
主イエスの弟子が、弟子を生み出すことが出来ます。
全てを捨てて単純に主の言葉に従ったアモスのように、私たちも主イエスの言葉
に従う、主の弟子になりましょう。

【主の言葉を聞く預言者】

「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに
示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろ う。神
である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」アモス3章7.8節

預言者は主の言葉を語るだけが仕事ではありません。
預言者がまず第一に大切にしていたことは、語ることよりも聞くことにありました。
主の言葉を聞くこと、言葉を通して主の燃えるような愛に触れることが最も大切
なことでした。イエス様がどんなに忙しくても、また大切な決断の前は 時間を
取り、山に登って天のお父さんと親しい交わりを第一にされたのと同じです。

主の言葉、主の燃える愛に満たされなければ、主の言葉を大胆に語ることは出来
ません。
キリストの愛に満たされなければ、人を救いに導く命の言葉、影響力のある言葉
を語ることは出来ないことです。

決して義務感や、間違っても恐れが動機で主の言葉を語らないで下さい。
私たちは宗教を伝え、信者を増やすために主の言葉を語るのでは決してありません。
主の愛に燃やされて、神の恵み、神の愛、赦しと和解、希望を伝えるのです。

アモスはこの箇所で、天のお父さんの大切なご性質を教えています。

「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに
示さないでは、何事もなさらない。」アモス書3章7節

天の父は、ご自分のしもべ、預言者たちに、積極的にご自分の思いを伝えたいと
願っておられるのです。なおさら、自分の子どもたちにはその思いを伝 えたい
と願っているのです。

私たちが祈りとみ言葉によって天のお父さんに近づくなら、天のお父さんは喜ん
でご自分の心を神の子どもたちに示して下さいます!

アモスや他の預言者たちも、祈りとみ言葉を通して天の父の心に近づき、天の父
の懐の中に長く留まっていたのだと確信します。天の父の燃える愛、そ の愛に
触れられ、自分の心にも神の愛が宿るのです。するとこの世にあるすべてのこと
を神の愛を通して見ることが出来るように、心が変えられていく のです。

天の父の愛を知らない人は、この世にあるすべてを自分の損得で見ます。もしく
は好き嫌いで見ます。それらは全て自己中心の視点です。しかし、父の 心を知
る者は全て神の視点、神の国を建て上げるため、隣人の徳を高める視点で物事を
見るように養われます。
物の見方が変えられるのです。

アモスが当時の北イスラエルを天の父の視点で眺めた時、そこに行われている不
正、弱者を抑圧する社会の格差、不平等が見えたのです。彼は燃える怒 りを
もって罪を糾弾しました。

「主はこう仰せられる。『イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむき
の罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金のために正 しい者
を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の
ちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところ に通って、わ
たしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物
の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の 宮で飲んでい
る。』」アモス書2章6-8節

旧約は「裁きの神」が描かれ、新約の「愛の神」と異なる印象を持たれる方がい
ます。
しかし、本質はまったく変わりません。旧約の神も、「愛に燃える神」なのです。
愛は決して社会的な不正を見過ごすことを意味しません!
愛は弱者が虐げられ、食い物にされていることを見過ごすことではないのです!
愛は社会的な弱者を守り、擁護し、彼らの権利を守ること、彼らに代わって叫ぶ
ことです。

私たちも第一に祈りとみ言葉によって天のお父さんの愛の心に近づきましょう!
イエス様の十字架の贖いによって、私たちは神の子供とされました。
私たちは恐れること無く、何時でも天の父に近づくことが赦されているのです。
イエス様も、預言者たちもそうしたように、その愛の懐で安らぎましょう。
父の愛に心満たされ、愛の視点を通して物事を見ることが出来るように変えられ
ましょう。
そして、私たちも預言するのです!

パウロは私たちが預言することを勧めています。

「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話し
ます。
預言する者は教会の徳を高めます。」第一コリント14章1.3.4節(一部省略)

預言とは決して、相手の罪や弱さを指摘することではありません!
キリストの愛に満たされ、隣人の徳を高め、信仰の勧め、励ましと慰めの言葉を
語ることです。教会はキリストの愛が溢れる言葉で満たされる場所で す。
教会の外でも、私たちはキリストの愛を語りましょう。

アモスの預言者としての精神を学び、私たちも主の愛に溢れて主の言葉を語りま
しょう。