「互いに足を洗い合いなさい」

ヨハネ福音書13章1−17節

【弟子たちの足を洗われた主イエス】

ヨハネ13章はイエスさまが十字架に付けられる前夜のことが記されています。
愛する弟子たちと最後の食事の時を持たれたイエスさまは、食事の前に驚くべき
ことをされました。それは弟子たちの足を一人ひとり洗われたことで す。

イスラエルの文化でも、師匠が弟子の足を洗うことはありえないことです。
その逆は普通であったかもしれません。しかし師匠が弟子の足を洗うことは普通
ではありません。弟子たちはたいへん驚いたことだと思います。

しかし師匠が弟子の足を洗う姿の中にこそ、神の国の本質が表されているのです。
師匠が弟子の足を洗う!これこそが神の国、キリスト教会の姿、また神の国の文
化です。

イエスさまが弟子たちの足を洗おうとされた動機が記されています。

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行
くことを知られ、(ヨハネ13:2.3)」

天の父なる神はイエスさまの手に万物を渡された、つまりその支配を委ねられた
とあります。イエスさまは全人類、そして全世界の支配者とされたので す!

あなたがもし全世界、全人類の支配者、また代表者とされたら何をしますか?
多くの人は権力を得ようと必死になっています。
そして権威や権力を得ると、人を自分の欲望のままに支配し、自分に仕えさせます。
権力を得ると、人格がコロリと変わる人が少なくありません。
自分勝手な主張を押し通し、人を人と思わない傲慢な者に変わってしまう。

しかしイエスさまは全世界の代表、支配者とされた時、進んで仕える者となられ
たのです。
客人の足を洗うしもべ、また当時の奴隷の仕事を進んでされました。
イエスさまは与えられた権威、権力を人に仕えるために用いられたのです!

足を洗うことは、ここでは象徴的な行為でした。それは弟子たちの罪を赦し、清
めることです。イエスさまが背負われる十字架の意味を前もって示すた めに行
われました。

イエスさまは全人類の代表として、全ての罪を十字架に背負われ、身代わりの罰
を受けられたのです。だからこそ天の父はイエスに万物を委ねられたの です。

イエスさまは15節で、このことを模範とするようにと教えています。
人の罪を身代わりに背負えるのはイエスさましかおられません。
私達が模範とすべきは、与えられた能力、力、時間、お金を人を支配するためで
はなく、積極的に人を建て上げ、人に仕えるために用いるべきことで す。

イエスは万物を、全人類を、自分を喜ばせるために用いられなかったのです。
その罪を贖い、全人類が罪の滅びから解放され、本来の正しい道に歩むために自
分自身を捧げられたのです。私たちはこの方を神、主と信じているので すか
ら、同じように歩みましょう。

多くの人がキリスト教に、教会に、クリスチャンに失望しています。
なぜでしょうか?理由の一つは、私達が主イエスの模範に従っていないからです。

私達がイエスの模範、その原則に従い、自分の能力、時間、力、お金を、隣人に
仕えために、積極的に建て上げるために用いるなら驚くべき変化が起こ るはず
です。
師匠が弟子の足を洗う、神の国の文化が日本で行われるならこの国は変わるはず
です。

イエスの模範に従いましょう!

まずエクレシア、神の家族の中で、そしてあなたの家族に、夫に、妻に、子ども
たち、兄弟、姉妹に、仕えましょう。積極的に仕えましょう。彼らが罪 から解
放されるように仕えましょう。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われるの
です。

【もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません!】

「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに
言った。
『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』イエスは答えて言われた。
『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるように
なります。』
ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イ
エスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何 の関係
もありません。』」                           
    ヨハネ13章6−8節

多くの人が聖書を読んでいます。キリスト教に関心がある人も少なくありません。
しかしイエス・キリストが分からないという人は少なくありません。
聖書を学び、キリスト教の勉強をしても神と出会う体験を持てないのです。
なぜでしょうか。

イエス・キリストに足を洗ってもらわないからです。

聖書や信仰を頭で理解しても、もし自分の生活に当てはめないなら、自分の生き
方を変えようとしないなら、何の意味もありません。
キリスト教は分かっても、神に出会うことはありません。
神との出会い、それはイエス・キリストに足を洗ってもらうことから始まります。

十二弟子の一人であるペテロも、このことが分かりませんでした。
なぜイエスさまが弟子たちの足を、そして自分の足を洗うのか分かりませんでした。
「自分の足くらい、自分で洗えます!」ペテロはそのように言いたかったかもし
れません。

ペテロは自分で自分の足を洗えないほど、罪に汚れていることが分かりませんで
した。
彼は自分はイエスさまのためなら、喜んで死ねると思っていました。
ところがイエスさまが捕らえられと、主の面前で三度も主を知らないと否定しま
した。
自分では洗い清めることができない罪の大きさに、彼はやっと気が付いたのでした。

イエスさまはペテロが自分を三度も否定することを知っていました。
その弱さ罪深さを知った上で、彼の足を洗われたのです。
ペテロの弱さ、罪深さを知りながら、イエスさまは彼を受入れてくださったのです。

自分では自分の罪を解決できないほど、自分は罪深い人間であることをイエス・
キリストの前に告白し赦していただくこと、罪をきよめて下さいと切に 求める
ことがキリストの出会いをもたらすのです!

キリストが罪を赦されるのは、ただ単に罪をウヤムヤにされたのではありません。
キリストはあなたの罪を赦すために、ご自身の血を流し、十字架の上で罪の罰を
あなたに代わって受けられたのです!キリストがあなたの罪の代価をご 自身の
いのちで支払ってくださったから、あなたの罪は赦されたのです!

このキリストにある赦しと愛を受け取ること、これがあなたとキリストを結びつ
けます!

またイエス・キリストはあなたの足を洗う関係を持ちたいと、神の方が願ってお
られるのです。足を洗う関係というのは、自分の一番汚れている部分、 自分の
一番弱い部分、それを神に委ねる関係です。表面的な関係でない、一番深い部分
で関係を持ちたいと天の父は願っておられるのです。

人間関係でも、良い部分しか見せない関係は表面的な関係です。
自分の強い部分、自分の優れた部分しか見せないのは、相手をまだ信頼していな
いのです。弱さを見せられる関係、安心して自分の本音を分かち合える 関係、
それが深い関係です。神との関係、教会での人間関係も同じです!

あなたはどこまで自分の罪をイエスに告白しましたか。
あなたはどこまで、自分の罪が赦されていると確信していますか。
あなたは、ありのままで神に受け入れられている確信、平安がありますか。
もし、そのように思えないなら、何が神との深い関係を妨げているのでしょう。
あなたの足を洗って下さるイエスさまと、真実な深い関係を築きあげて下さい。

【あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです】

13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのです
から、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは
あなたがたに模範を示したのです。

イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは模範を示すためでした。
イエスさまはこの模範に従い「たがいに足を洗い合うべきです」と教えられました。

教会での人間関係の基本が、ここに教えられています!互いに足を洗い合うこと
です。

互いに支え合う以上の意味があります。足を洗うことは、罪を赦すことでした。
クリスチャンの関係とは、互いの罪を赦し合い、互いに罪から解放されるように
助けあう関係でなくてはならないのです。これが神の家族、教会での人 間関係
の土台です。

キリストの体である教会以外のどこで、罪の取り扱いを受けられるところがあり
ますか?教会以外で、十字架に付けられたイエスの血潮以外に、どこで 罪の赦
しときよめを受けられるのでしょうか?教会しかないのです!建物の教会ではあ
りません。
キリストの霊が住む神殿、すなわちクリスチャン共同体のことです。

私達が日曜日に集まるのは、私たちの罪のために死んで、復活した勝利の主を礼
拝するためです。主が死と罪に勝利され復活されたのが日曜日でした。
復活されたイエスを礼拝し、罪に打ち勝つためにキリストの復活のいのちに満た
されるために集まっているのです。

ですから私たちは真実な交わりを持ちましょう。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいま
す。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。で すか
ら、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされ
るためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ 5章
15.16節

キリストの模範に従い、互いに足を洗い合う、互いに罪を言い表し、互いのため
に祈りましょう。