「わたしは、よみがえりです。いのちです。」

ヨハネによる福音書11章1節から44節

【この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです】

「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マル
タとの村の出で、ベタニヤの人であった。そこで姉妹たちは、イエスの ところ
に使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が
病気です。』
 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではな
く、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるた めです。』
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、その
おられた所になお二日とどまられた。」ヨハネ福音書11章1.3−6 節

イエスさまを愛し、イエスさまに愛されていたマルタとマリヤの兄弟ラザロが病
気に罹りました。イエスさまをわざわざお呼びする程ですから、その病 気は深
刻なものでした。
イエスさまは11節で「わたしたちの友ラザロ」と呼んでいるので、ラザロはイ
エスさまと弟子たちと、とても親しい関係にあったことが分かります。
その友ラザロが深刻な病気に罹り、姉妹たちが癒しを願い使いを送ってきた。
このような状況に置かれたら、皆さんはどのように行動されますか。
当然、すぐにラザロのもとに駆けつけると思います。
イエスさまは、おことば一つでも病を癒すことの出来る方ですから、当然癒しの
祈りをされると私たちは思うのです。またマルタとマリヤもそのように 期待し
たでしょう。
しかしイエスさまはラザロが急病との知らせを聞いても二日間、待たれたのです。

ラザロが急病との知らせを聞いた時、イエスさまは天の父に祈られたのだと思い
ます。
イエスさまはどんな忙しい時でも、天の父なる神との関係を優先されました。
大事なこと、急な出来事の時も、まず天の父の御心を求められました。
この時も、愛する友の一大事です。直ぐに駆けつけたい、癒したいと願いつつ
も、まず父の御心を求めました。すると天の父は「この病気は死で終わる だけ
のものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受け
るためです。」と示されたのです。
イエスさまは自分の願いではなく、天の父の計画を優先されました。

これはマルタとマリヤ、そして病気で苦しむラザロには理解に苦しむことでした。
なぜイエスさまは直ぐに癒しに来てくれないのか?
なぜ使いの者に、癒しのことばを授けてくれなかったのか?

私達が切実な願いを祈り求めても、その願いが直ぐに叶えられない時に感じる思
いをマルタとマリヤも覚えたことでしょう。なぜイエスさまは助けに来 られな
いのか?
なぜ神は祈りを聞かれないのか?

自分のわがままや勝手な願いが聞かれないのは分かりますが、家族の病気の癒し
や回復を願う祈りが聞かれない時、私たちは神に対して大きな失望を抱 くので
はないでしょうか。

「神は自分を愛してくれない、なぜなら大切な祈りに答えてくれないから。」
私たちはこのように考えやすい者です。
神はあなたを愛していないから、祈りを聞かれないのではありません!
イエスさまはラザロを、マルタとマリヤも愛し、友と呼ばれていました。
ラザロの病が癒されなかったのは、神はさらに素晴らしい、完全な癒しを用意さ
れていたからなのです!

愛する皆さん、天の父はあなたの祈りを全て聞いて下さっています。
そして天の父の祈りの答えは、いつも最善な時に、最善の答えを下さるのです。
ただ、私達の考える最善と、天の父の最善とは同じでないことがあります。

そのような時、初めは苦しみます。マルタとマリヤのように。「なぜ主は来て下
さらないのか?」と。しかし、そこで天の父に失望してはならないので す。
天の父は必ず最善の答えをあなたに下さるからです。忍耐して待つことです!

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」ハ
バクク2:3

【わたしは、よみがえりです。いのちです。】

「イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについ
て慰めるためであった。マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに 行った。
マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。『主よ。もしこ
こにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう に。今でも私は
知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与え
になります。』イエスは彼女に言われた。『あなたの兄 弟はよみがえりま
す。』マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼が
よみがえることを知っております。』イエスは言われ た。『わたしは、よみが
えりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生
きていてわたしを信じる者は、決して死ぬこと がありません。このことを信じ
ますか。』彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる
神の子キリストである、と信じておりま す。』」ヨハネ11:17-27

イエスさまは死んだラザロを直ぐに生き返らせることはされませんでした。
まずマルタとマリヤに会い、彼女たちの信仰を正しくされました。
これが最も大切なことです!
この聖書箇所が最も伝えたい事は、ラザロが生き返った奇跡ではありません。
イエスさまご自身がよみがえりであり、いのちであることなのです!
よみがえりであり、いのちであるイエスを信じ、信じるものが永遠のいのちを受
けること、これが最も大切な事なのです。

奇跡が人を救うのではありません。イエスに対する信仰が私達を救うのです!

イエスさまは、どんなに遠く離れていても、おことば一つで病を癒すお方です。
そのイエスさまが苦しむラザロの病をすぐに癒さなかったのは理由がありました。

「そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだの
です。
わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしが
その場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行 きま
しょう。』」ヨハ11:14.15

「あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるために」とイエスさまはその
理由を教えておられます。

祈れば直ぐに問題が解決し、直ぐに苦難が去る。しかし、すぐに問題が解決し苦
難が去っても、私たちに信仰が養われないなら何の意味もありません。
信仰とは神と私達を結びつける絆です!
信仰の絆を通して、私たちは初めて神に似たものに心と霊が変えられるのです。

旧約聖書に登場する族長ヤコブの人生は決して平坦な人生ではありませんでした。
人を裏切り、裏切られ、いつも家庭内に問題を抱え、旅から旅の人生でした。
彼は苦しみと困難の中で、絶えず神と格闘し、心が砕かれ、信仰が鍛えられたの
です。
神は人生の難問によって、彼の信仰を鍛え、彼の名はヤコブからイスラエルに変
えられたのです。もし彼が苦しみと問題のない人生を歩んだなら、彼の 心は砕
かれず、信仰は育たなかったでしょう。

祈って直ぐに答えられることも感謝です!しかし、祈っても答えられない願いも
ある。
祈っても解決しない人生の苦難、それは私たちの信仰を養い、鍛え、私達を永遠
のいのちに相応しいものに整える神の手段であるかもしれません。

祈って答えられないからといって、神に不平・不満を言うのは止めましょう。
そうではなく、この苦難を通して神はいったい何を私達に教えようとされている
のかを求めましょう。信仰を求めましょう!イエスに対する信仰が私達 を救う
のです。

イエスはよみがえりであり、いのちです。イエスを信じるものはたとえ死んでも
生きる!この信仰を確かに持ちましょう。

【イエスは涙を流された】

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏
して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死な なかっ
たでしょうに。』そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人
たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺 を感じて、言
われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご
覧ください。』イエスは涙を流された。
そこで、ユダヤ人たちは言った。『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられ
たことか。』
しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできな
かったのか。』と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤 りを覚
えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあっ
た。」ヨハネ11:32-38

イエスさまが霊の憤りを覚えられたのは人類を滅びへと縛り付けている死と、死
の力を持つ悪魔に対してです。イエスさまが来られたのは、死の滅びか ら私達
を解放するためです。

イエスは涙を流されたのは、死によって絶望し、死によって無力になっている私
達を心から哀れんで流された涙でした。

主は今も泣かれています!多くの者が救いの希望を知らず、永遠の滅びへと向
かっているからです。多くの者がいまだに死に支配され、人生に真の目的 を見
いだせないことに涙を流されています。

私たちはただ黙って何もせずにいて良いのでしょうか?
イエスこそ、いのちでありよみがえりなのです!このいのちの主を、死に支配さ
れている私たちの家族、友人、まわりの人に伝えましょう。キリスト以 外に救
い主はおられません。

私達がキリストのいのちにあって輝き、救いの道、失われることのない希望の福
音を伝えることを主は何よりも喜ばれます。福音を伝えましょう。

【その石を取りのけなさい】39-40節

「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは
言った。
『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』イエスは彼女に
言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわ たしは
言ったではありませんか。』」ヨハネ11:39ー40

生きた信仰は必ず行いにおいて現れます!行動の伴わない信仰はありません。
私たちは信じていることを行動で現しましょう。

信仰によって行動する時、必ず約束されているように「神の栄光を見る」のです!
多くの人がこの世の限られた理性で行動し、自分にとって居心地がよく、安全で
簡単な道を歩みます。そこに神の栄光が現れることはありません。
神のことばは私たちの理解を超えます。しかし、そのことばに従う時、私たちは
神の栄光を見るのです!そして、神の栄光は私達を輝かすのです!
主のことばによって、大胆に行動しましょう。石を取り除けましょう!
今までの常識で行動するのでなく、主のことばによって行動しましょう。

【ラザロよ。出てきなさい】41-44節

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わ
たしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あな たがい
つもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、
回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わ しになったこ
とを信じるようになるために、こう申したのです。』そして、イエスはそう言わ
れると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた
人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれてい
た。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、 帰らせなさい。』」
ヨハ11:41-44

主は祈られました。主の祈りは父への感謝であるとともに、まわりの人々に聴か
せる祈りでもありました。それはこれから行う奇跡が、ただ人を驚か せ、また
イエスさまが不思議な力を持っている以上の意味があることを事前に分からせる
ためでした。
イエスさまこそ、よみがえりであり、いのちであり、天の父なる神が遣わした救
い主であることを、私達が信じるためなのです。

「ラザロよ。出て来なさい。」

イエスさまのことばはラザロを死からよみがえらせました!
イエスさまこそ神であり、いのちのことばであられるお方です。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生き
るのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」ヨハネ
25・26

私たちは、このいのちのことばに心からアーメン(その通りです!)と信仰の応答
を主に捧げましょう。