「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、
永遠のいのちへの水が湧き出ます」

ヨハネ福音書4章1節から26節


【この水を飲む者はだれでも、また渇きます】

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。』
(13節)」

イエスさまが出会ったサマリヤ人の女性は渇いていました。
その渇きは肉体的な渇きではなく、心の渇き、霊的な渇きでした。

「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫で
はないからです。あなたが言ったことはほんとうです。(18節) 」

このサマリヤ人の女性は異性との関係を通して、心の渇きを満たそうとしたよう
です。
しかしどんな異性も、結婚生活も、彼女の心を満たしませんでした。
彼女の心は本当の満たしを求めて渇き、疲れ果てていたようです。

昼の十二時頃に井戸に水を汲みに来るように、サマリヤの女性には親しい近所と
の付き合いも無かったようです。夫が五人もいた女性、当時の因襲に縛 られて
いた村人には彼女はうわさ話にはなっても、進んで友達になりたい人ではなかっ
たのでしょう。
近所の人間関係は彼女にとっては苦痛であり、心を満たすものではありませんで
した。

サマリヤの女性は宗教にも心の満たしを求めていたようです。
しかしサマリヤの宗教は彼女の心に混乱をもたらし、民族的な敵意を煽るだけで
した。

「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父
を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が 来ま
す。』(21節)」

ユダヤ教、サマリヤ教、宗教は私たちの渇く心を完全に満たすことは出来ないの
です。

サマリヤの女性は渇く心の満たしを求めて異性に、友人に、宗教に頼りました
が、心の満たしどころか、さらに心は激しく渇くことになりました。

私たちの心はどうでしょう?心が渇いていませんか?心は満たされていますか?
私たちはは何によって心を満たそうとしているでしょう?

この水を飲む者はだれでも、また渇くのです!
この世にある家族も、友人も、異性も、お金、名誉、地位、学位・・・それらす
べてのものは私たちの心を、霊を満たすことは出来ません。
一時的には潤ったような感じがする。しかし段々と心が渇いてくる。
次に心を満たすためには、もっとたくさんのものが必要になってくる。
私たちの心、霊を完全に満足させるものは、この地上には何一つないのです!

【わたしが与える水は・・・】

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありませ
ん。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水 がわ
き出ます。(14節)」

地上にあるどんな物も、私たちの心を満たすことは出来ません。
しかしイエス・キリストが与える水を飲む者は誰でも、もう渇くことがなくなり
ます。
なぜなら、その水は私たちの内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るから
です。
これはイエス・キリストの約束です!

イエス・キリストは願うすべての人に、この水を与えて下さいます。
そして、誰でも、誰でもです!この水を飲む者は心が満たされ、水溜めではな
く、いのちの水が湧き出る泉へと変えられていくのです。

心の渇きを癒すために、異性を求めなくても良いのです。人からの関心で心を満
たすために無理しなくても良いのです。心の空洞を満たすために、お金 や物は
必要なくなります。
なぜならあなたの心から、生きている喜び、生かされている喜びが湧いてくるか
らです。
いのちの充実感、愛、喜び、平安、希望、感謝が沸き上がってきます。

【いのちの水とは神との正しい関係を通して溢れ流れる】

イエスが与える水を、私たちはどのようにして受け取ることが出来るのでしょう。
イエスが与える水、心から湧き出す永遠のいのちへの水とはいったい何でしょう。
これらはみな、真の神との正しい関係を通して与えられる聖霊を象徴しています。
イエスが与える水とは、イエスを信じるものに与えられる聖霊の象徴です。

イエスが来られた目的は、神と私たちを和解させ、正しい関係を築くためでした。
イエスは私達に、真の神がどなたであるのかを示し、真の神との和解の道を開か
れました。

イエスの十字架は真の神と私たちを隔てていた罪を取り除くためでした。
私たちの罪を身代わりに十字架に背負い、私達が受けるべき死の罰を代わりに受
けられたのです。イエスの十字架と復活によって、閉ざされていた神へ の道は
開かれました。

イエスは罪と死を滅ぼし、三日目に勝利の復活をされました。
イエスを救い主として信じる全ての者には、神の子としての新しいいのち、聖霊
にあるいのちが与えられ、神を父とお呼びする神の子としての特権が与 えられ
るのです。
イエスは神と私たちを完全に和解させ、親子関係を始めさせて下さるのです!

イエスを信じる者には、神の聖霊が与えられます。
神の聖霊は私達に神の子どもとしての心を与え、人生を導き、励ましと慰めを与
え、みことばを悟らせ、みことばを守る力を与えて下さいます。
神との和解の道であるイエスさまを通して、聖霊は私たちの心に豊かに注がれます。
これが私たちの心から沸き上がるいのちの水です。

【礼拝を通して、いのちの水は湧き上がる】

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今が
その時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからで す。神
は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりませ
ん。」ヨハネ4章23.24節

イエスさまがサマリヤ人の女性に礼拝の真理を教えられたのは、霊とまことに
よって父を礼拝する、真の礼拝者にいのちの水(聖霊にある豊かないの ち)は
湧き上がるからです。

宗教的な儀式としての礼拝ではありません。霊とまことによって父を礼拝する礼
拝です。
霊とはイエスを救い主キリストと信じ告白する者に、神が与えて下さるイエスの
霊です。
まこととは、神の真理のことば、聖書のことです。
神のことばに心から応答し、イエスの霊と心をもって礼拝する者の礼拝を神は喜
ばれます。
そして真の礼拝を通して、神のいのちは豊かに礼拝者に注がれ、湧き上がるのです。

礼拝は日曜日の公の礼拝だけでなく、祈り会、個人的な礼拝(ディボーション)も
ともに大切です。聖霊の導きと、みことばの原則に基づくなら何時で も神に礼
拝を捧げることができます。「父は礼拝者求めている」とあるように、人生のそ
のものを神への礼拝として捧げることを天の父なる神は願われ ているのです。

毎朝、起きて先ず天の父に祈り、神の御言葉である聖書を通読することをお勧め
します。私は起きて、先ず主の祈りを捧げます。献身の祈りを捧げ、聖 霊の導
きを求めて祈ります。
ただ形式的、儀式的にならないように気を付けています。
朝が苦手な方は夜でも良いのです。あなたにとって最善の時間なら何時でも良い
のです。
聖書を開き通読します。聖書の中に示されている神のご性質を覚え、「私もあな
たに似た者になりますように助け導いて下さい」と祈ります。神の願 い、神の
みこころを見つけて、それを実行できるように祈ります。このような習慣、個人
礼拝の習慣は大切です。

「それをしなければならない!」と言った律法的な動機ではなく、「いのちの水
が豊かに溢れるため!」に、日曜の礼拝とともに個人礼拝を充実させる ことを
お勧めします。