「永遠のいのちとは神との正しい関係」

ヨハネ福音書3章1節から21節


「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるの でなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』(1節、2節)」

ニコデモについて聖書は「ユダヤ人の指導者であった」と書いています。
彼は何不自由ない生活をし、周りの人からは人生の成功者と考えられていたでしょう。
ユダヤ人の中で最も満たされていた人とも言えるのがニコデモでした。
しかし、夜中にイエスさまの下に、わざわざ出向いてきたというのは、彼の人生には深刻な問題があったことを表しています。

人々から指導者と讃えられ、尊敬を受けていても、お金や名誉があっても、人間の心には満たされない部分があるのです。
宗教や道徳、教育によっても満たされない空洞が人間の心にはあります。

「友達がたくさん出来れば人生は満たされ、心は満たされるだろう」。
「恋人を作り、結婚したら孤独から解放されるだろう、満ち足りた人生を送れるだろう」。
心の空洞を友人や異性で埋めようとする人がいます。
しかし、多くの人が人間関係に疲れ、夫婦関係に悩みを持ち、家庭は崩壊しています。

愛されるための人間関係が上手く行くはずはありません。
ティム牧師が結婚カウンセリングで言っているように、「幸せな人が結婚することによって更に幸せになる」のであり、今の自分に満足していない人、 満たされていない人が幸せになろうと結婚しても、結婚によって更に不幸になるのです。
互いに与え合う人間関係が幸せになり、長く続くのです。
愛して欲しい、満たして欲しいと友人や異性に求めても、その人は更に孤独と不幸を体験するだけです。

先ずあなたが満足することです!自分であることに自信を持ち、自分の存在に対して確かな価値を認めることです。生きていること、生かされているこ とに喜びを持つこと。
生きていることに明確な意味と目的を持ち、自信を持って愛に生きることです。

ニコデモも本当の心の満たしを求めてあらゆる努力をしたのでしょう。
学業でも、仕事でも、人間関係でも努力し、そして成功した。
しかし、イエスに出会った時、彼は自分の中にはないものを見出したのだと思います。

彼の心の満足、彼の自信はまるで小さな水溜のようではなかったかと思うのです。
自分で水を汲み、水を補充しなければ、あっという間に枯れ果ててしまうのが水溜めです。
自転車操業という言葉がありますね。必死にこいでいないと 倒れて
しまう、収入を借金の返済に当てながら何とか倒産を免れている経営のことです。
人からの注目を浴び続けるためには、絶えず努力をしなければならない。
努力することを止めた途端に、人々からはすぐ忘れ去られ、見放されてしまう。
孤独が恐ろしく、人から価値がないと思われることが恐ろしくて、必死に努力して生き続けている人
、ニコデモはそういう人だったかもしれません。

しかし、ニコデモはイエスの中に頑張りや無理を見いだせなかった。
イエスは小さな水溜まりではなく、汲めども汲めども尽きない泉を心のなかに持ている方であることが彼には分かったのだと思います。

大きな違いがあります!
人から認めてもらうために、愛されるために必死の努力を続ける人生。自転車操業の人生。
その全く反対に、人を認め、人を受け入れて、更に溢れでてくる愛に満ちた人生。

何処にその違いがあるのか?ニコデモはその答えを求めてイエスの下を訪れたのです。

ニコデモは謙虚な人でした。そしてイエスにしか答えられない問いを尋ねた人物です。
イエスにしか答えられない問いとは、永遠の命についてです!

あなたは永遠の命について、イエスに尋ねましたか?その答えを得ましたか。
永遠の命を求め、それを日々、受けていますか?満たされていますか?
また、あなたはイエスの下に来ながら、永遠の命以外のものをイエスに求めていませんか?
人々からの名誉、地位、お金など滅び行く物、あなたの心を本当には満たせないものを、イエスに求めていはいませんか?

私達もニコデモのように、永遠の命を求めてイエスのもとに行きましょう。
必ずあなたの人生は変えられます。水溜から泉へと変えられます!
奪う祝福から、与える祝福の人生へと変えられていくのです。
第一のものを第一とする時、すべての必要は満たされていきます。

【新しく生まれなければ、神の国(永遠のいのち)を見ることはできません】

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』(3節)」

神の国と言うのは難しい表現です。
これだけを取り上げて意味を考えるのは難しいのですが、イエスご自身が15節で「永遠のいのち」と置き換えてお られます。
神の国と「永遠のいのち」は同義語なのです。
また、このことによって「永遠のいのち」とは何を意味しているのかが明確になります。
それは、神との新しい関係よる心と心、霊と霊の交流、いのちの通い合った関係を指しているのです!

私たちは、私達を創造された真の神と正しい関係を持つことなしには生きられません。
天の父なる神から愛され、赦され、認められ、受け入れられなければ生きて行けないのです。
私たちを創造された神に自分の価値が認められ、初めて私 たちは自分の存在に自信を持つことが出来るのです。

真の神と正しい関係を築き直すこと、それが新しく生まれることなのです!

【どのようにして(新しく)生まれることが出来ましょうか】

3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれるこ
とができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょう
か。」

ニコデモは「どのようにしたら新しく生まれ変わることが出来るのか?」と方法をイエスに尋ねています。
彼はまだ人間的な努力によって新しく生まれ変われると考えていたようです。

天の父なる神との関係を新しく始めるために、人間的な努力や修行は必要ありません!
神の一方的な恵み(プレゼント)を心から受け取るだけです!
これはクリスチャン、神の子の成長、信仰の成長も同じ原則です。
信仰の成長も恵みによるのです。人間的な努力や修行ではありません。
神のいのちを受け取ること、恵みを受け取ることなのです。
(※ただ神のいのちを妨げるもの、悪習慣、偶像(罪深い願望)を十字架に付けることは私たちの責任です。
神との関係を深めるために、自分自身を、 時間を能力を神に捧げることも神のいのちを受け取るために必要なことです。
しかし、これらが私たちを成長させるのではなく、神といのちの交流が私 たちを新しく変え、成長させるのです。)

イエスはハッキリとニコデモに言われました。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉で す。御霊によって生まれた者は霊です。(5・6節)」

水とは、バプテスマ(洗礼)のことを指していると考えられます。
イエスもご自身がバプテスマを受けられてから、救いのための公生涯を始まられました。
また、この3章の後半はイエスと弟子たちがバプテスマを通し て救いを伝える活動をされていたことが記されています。

バプテスマ(洗礼)は重要です。これは受けても受けなくても良いものではありません。
救われた者、神の子と公に認められるためには、必ず受けなければならないものです。

しかし、もっと大切なことがあります!それは御霊によって生まれることです。
御霊によって生まれることなしに、水のバプテスマを受けても意味はありません。
御霊によって生まれた者、肉に死んで霊に新しく生まれた者が洗礼を通して、公に神の子とされるのです。

御霊、聖霊とは人格を持った神のことば、イエスのことばのことです。
ただの言葉ではありません。神の人格を持ったことばであり、私たちの心の奥深くに語り掛けることばです。

聖書に書かれていることばは、ある意味、印刷されていて誰もが読めることばです。
それは日本語に翻訳されていて、意味を伝える記号であるとも言えるでしょう。
信仰者であっても、信仰者でなくても、聖書を読むことは出来ます。
しかし、その書かれていることばが個人的に、直接自分に語られていることばとして心に響いてくるのです。
それが御霊です!聖書に書かれていること ばを通して、神があなたの霊に語りかけているのです。

神のことばを拒絶することも、受け入れることも出来ます。それが信仰の応答です。
聖霊の語りかけを受け入れ、イエスのことばを本当である(ヘブル語でアーメン=真実である)、イエスを神のひとり子、救い主として受け入れる時、 あなたは御霊によって生まれるのです!

神のことば無しに、私たちは霊的に生まれることも、霊的に成長することもないのです。
ですから毎日、聖書をとおして御霊の語りかけに心を開くことは不可欠です。
御霊に導かれるものが神の子供たちなのです。

【十字架を通して与えられた、永遠のいのち】

「『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため である。(14-16節)」

「人の子もまた上げられなければなりません(14節)」とは、イエスの十字架の死を指しています。
イエスの十字架の死をわたしの罪を赦すためで あったと信じる者、
その者が天の父なる神との関係を始めることが出来るのです!

イエスの十字架によって、罪を完全に赦されたものだけが義なる神の前に立つことが許されるのです。
そしてイエスの流された血の代価により、私たち は死と滅びに定められていた者から、神の子へと贖われるのです。

イエスを神のひとり子、救い主として信じ、イエスの十字架によって罪赦されたことを信じるものは、誰でも神の子です。
天地を造られた創造主を、父 と呼ぶ特権が与えられます。
これが新しい神との関係、これが永遠のいのちなのです。

神との新しい親子関係は、私たちの心に満足を与えます!
これは世の中で得られる満足とは、全く異なる満足です。
この世の満足は、私達が努力し、頑張らなければ直ぐになくなってしまうものです。
愛されるため、人から認められるためには、絶えず何かをしなければならないのです。

しかし、天の父が与えるものは私たちの努力によって得られるのではなく、神の一方的な恵み、一方的な愛です。
それは決して失うことがないのです!

私たちは絶えず、神の愛に留まり、神の愛に満たされて歩みましょう。
神の愛と、神から与えられた自分の価値にしっかりと支えられて歩む時、私たちは人の評価、
人からの愛を受けるために無理をする愛情乞食のような人 生から解放されます。
神の愛と、神にある自分の価値に堅く立つ時、私たちは満たされ、
隣人を愛しても愛しても枯れることのない泉のような者、イエスさまに似たものに変 えられていくのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つた めである。(16節)」

これが!あなたの価値です。「世」のところに、自分の名前を入れて下さい。
神はあなたを愛し、死と滅びから救うために一人子イエスを与えられたのです!
天の父の目には、あなたは神の一人子イエスさまと同じ価値があるのです!
これがあなたの価値です。神にある自分の価値に、聖霊によってあなたが気がつく時、あなたは本当に変わります。
この恵の大きさ、福音のメッセージ の素晴らしい価値に気がついて下さい。
これこそが、あなたを生かす永遠のいのちです。

これから目を離して、世が与える滅びいく価値、虚しい人からの評価、変わりやすい人間の愛情、好意を求めないで下さい!
イエスを知りながら、未だ に福音の価値に目が開かれず愛情乞食を演じ続けている可哀想な人達がいます。
イエスの中に永遠のいのち、永遠の充足があります。
人から得る愛ではなく、神の愛を受けて、隣人を愛し、恵みを分かち合う者として、この新しい年 を歩んで行きましょう。