「罪人を招かれるために来られた主イエス」

マタイによる福音書9章10−13節


【主は取税人、罪人の友となられた】

「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」マタイ福 音書9章10節

イエスが食事に招かれた家とはマタイの家です。
この直前の箇所、マタイがイエスさまの弟子と召された箇所は先々週分かち合いました。
ルカによる福音書5章29節の並行箇所にはこう書かれてあり ます。

「そこでレビ(※マタイの別名)は、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」ル カによる福音書5章29節

マタイは自宅を会場として、盛大なパーティーを開きました。
自分の職場仲間の取税人、そして取税人と同じように、ユダヤの社会から爪弾きにされた罪人達をたくさん家に招きました。
それは自分のような取税人を、弟子と選んでくださったイエスさまを紹介するためでした。

マタイは自分が弟子として選ばれたことが何よりも嬉しかったのです!
この喜びこそ、イエスさまを紹介する原動力です。
私たちも、マタイのようにイエスに出会った喜びを分かち合いましょう。
喜びのない宗教や、キリスト教の宣伝ではなく、自分を変えた福音、救われた喜びを伝えましょう。

マタイは自分の仲間に、この喜びを分かち合わずにはいられなかったのです。
除け者にされていた取税人の自分をありのまま受け入れ、弟子として選んでくださった。
イエスさまは人を偏り見ることなく、取税人や罪人であっても、一人の人として接して下さる。
マタイはイエスさまの姿勢に、神の愛を見たのです。

二千年前のユダヤも、今の日本も、人が人を見る見方に変わりはありません。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」のです!(第一サムエル16章7節)

学歴や務めている会社、乗っているクルマやファッションで人は人を評価する。
その上辺の評価で、その人の存在価値までも測ってしまう。
多くの人が自分の価値を見失っているのではないでしょうか。
マタイも、彼の家に集まった同僚の取税人も、罪人と呼ばれる人たちも劣等感のかたまり、自分の存在価値を見失っている人たちでした。
しかし、イエスさまだけはマタイの素晴らしい価値を見出してくださった。

当時のユダヤの文化では、ともに食事に着くということは、その人の友となることを表していました。
イエスさまは取税人、罪人の友となられたので す。
イエスさまは彼らの過去の失敗や上辺の行為ではなく、彼らの人としての大切な価値を見ておられたからです。
今は失われているように見える、しかし 神の似姿として造られた価値を、イエスさまは全ての人の中に見出してくださるのです。

私達もイエスさまと同じように、隣人を見る者になりたいと願います。
まずイエスさまがあなたをどのように見ておられるのか、そのことを覚えましょう。

聖書的に、あなたの存在価値を定義するなら、あなたは神がご自身の素晴らしさを表現するために創造された最高傑作です!人はみな顔形が違います、 一人として同じ人はいない。
神は一人ひとりを最高傑作として造られた証拠です。決して大量生産されなかった。
あなたの個性、性格、特技、それらは全て神の特別な計画によるものです。
神がどれほど、あなたを愛しておられるか!
天の父なる神は、ひとり子イエスのいのちと引換にしてまでも、あなたを救おうとされたのです。あなたが永遠に滅びないために、天の父はイエスのい のちと引き換えに、救いの道を開かれたのです!
どれほどあなたは天の父に愛され、価値あるとされているでしょう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と天の父はあなたに語りかけて下さっています。これ があなたの存在価値なのです!

天の父の愛と自分の正しい価値を受け入れること、これこそが自分を愛することです!
そして神が与えた一番大切な戒めは、神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することです。

マタイは自分が見失っていた自分の大切な存在をイエスさまによって見つけて頂いた。
その喜びが、弟子としてイエスさまに従う原動力、福音を伝える原動力でした。
あなたも、キリストにある自分の大切な価値、愛されている自分に気づいて下さい!

【砕かれた心を喜ばれるイエスさま】

「すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのです か。』イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」 とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」マタイ福音書9章11-13 節

パリサイ人というのは、当時のユダヤで熱心に宗教活動をしていた人たちです。
彼らは聖書に書かれてある戒めを守ることには異常に関心があり、熱心でした。
しかし天の父の心、その大きな愛に対しては無関心だったようです。
彼らの関心は、「自分の努力で、如何に神の前に正しくいられるか?」でした。

聖書の細かな戒めに、更に自分たち独自の戒めをも加えて、その複雑な戒めを守る自分を素晴らしい義人、正しい人だと、神と人々の前に自分自身を 誇っていたのです。
彼らの間違いは、神さまなしに自分を正しいとしたことです。
彼らは完璧な自分には神さまの助けは必要ないとまで考えていたようです。
パリサイ人は神さまの愛の心、愛と赦しに富む、憐れみの心を見失っていました。

イエスさまが「正しい人を招くために来たのではない」と言われた「正しい人」とはパリサイ人のことを指しています。
そして、その正しさとは、決し て神の心を満足させない、独り善がりの正しさ、神を必要としない高ぶった正しさ、人を見下げる正しさでした。

イエスさまが招かれた「罪人」とは、自分の罪を正直に神と人の前に認めている人です。
神の赦しと憐れみなしには決して、神の御前に出られないことを自覚している人たちです。
決して罪を楽しみ、罪から抜け出たくない罪人を招かれた訳ではありません。
自分が罪人であることが、嫌という程分かっている。でも、自分で罪深い行い、罪深い性質を変えることが出来ない、根っからの罪人であることを認め ている人です。
神の赦しと憐れみにすがりつくことしかできない罪人。

パリサイ人、宗教家はこのような罪人を憎み、蔑みました。
しかし天の父は決して蔑むことなく、愛と赦しをもって迎えてくださるのです。

罪の解決は、決して努力や修行にあるのではありません!
罪の解決、どうしようもない性格、やめられない悪習慣、それらの根本的な解決はいのちの源である神に立ち返る以外にないのです!

だから頑張って良いクリスチャンになろうとか、聖書を勉強して立派な信徒になろうなどと考えないで下さい。
それは神のこどもではなく、パリサイ人 になる方法です。

神に立ち返るとは神を礼拝することです!賛美すること、聖書のことばを心に刻むこと、天の父の愛で心を満たすこと、イエスの愛と赦しに固く留まる ことです。
天の父の目には、自分の罪を自覚して、ひたすら神を求める者の方が正しく映るのです。

イエスさまは喩え話でこのことを教えておられます。

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上っ た。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆす る者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十 分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の 私をあわれんでください。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を 高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』」ルカによる福音書18章9−14節

天の父はありのままのあなたを愛し、赦してくださいます。
自分の弱さ、自分の罪をありのまま天の父に分かち合い、神のいのちを求めましょう。

人妻と不倫し、その発覚を恐れてその夫を殺害するという恐ろしい罪を犯したダビデ王。
ダビデはこの罪を通して、自分がどうしようもない罪人であることを悟りました。
彼は正直に自分の罪を神の御前に認め、祈りました。

「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなり ましょう。
御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてく ださい。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえ は、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51編抜粋

天の父は心から罪を嘆き、神にのみ、罪の解決を求める砕かれ心を何よりも喜ばれます。
私達にはヒソプ(汚れを清めるため、生贄の血を塗るための植物)ではなく、十字架で流された主イエスの血潮が恵みよって用意されています!
キリス トの血により、心を新しくされ、心から天の父を礼拝しましょう。
神は救いの喜びであなたを満たして下さいます。