「限りないイエスの愛(2)」

マタイ福音書8章14節から22


「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
イエスが手にさわられると、熱がひ き、彼女は起きてイエスをもてなした。」マタイ福音書8章14.15節

イエスさまは、らい病人を癒し、百人隊長のしもべを癒され、そしてペテロのしゅうとうめを癒されました。
当時のイスラエルでは、女性の社会的な地 位は低いものでした。
聖書の中でさえも、人数を数える時、女性とお年寄りと子供は数に入れられませんでした。
高齢の女性、それも病で伏しているとなると、肩身の狭い思 いをされていたと思います。

しかし、イエスさまはこの女性に目を留められました。
イエスさまは人間的な能力や、社会的な地位で人をご覧になることはありません。
イエスの愛は無条件です。人を分け隔てることがありません。イエスさまは社会的な地位の高い人にも、
低い人にも、いつも同じ愛の心で接して下さる のです。

自分の能力や、社会的な業績によって、自分を神の御前に価値のない者だと思ってはいませんか。
他の兄弟姉妹と自分を比較して、自分は神から少しし か愛されていないなどと、神の愛を小さく思ってはいないでしょうか。
それは、大きな誤解です!

神の聖霊はマタイを通し、イエスの愛は全ての人々に隔てなく与えられることを示しておられるのです!
当時のイスラエルでは社会の一員から除外さ れ、差別を受けていたらい病人、
神の恵みから除外されていたローマ人の百人隊長とそのしもべ、社会的地位の低かった女性、老人。
しかし彼らが先ず イエスの大きな愛と癒しを体験したのです!

神の愛と恵みは、この世の価値観では決して計ることが出来ません!

イエスが、マザー・テレサやパウロのような、教会の為にいのちを捧げ、
多くの人に福音を伝えた愛の聖人のために命を捧げたことは頷けることです。
しかし、イエスは人々の目には全く留まらない小さな人々、弱い人々のためにも、
同じようにご自身の命を捧げて下さり、友と呼んで下さるのです!

イエスさまはあなたに目を留めておられます。あなたを友と呼ばれ、
あなたにも限りないご自身の愛を示したいと願っておられるのです。

「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。(15節)」

イエスさまは百人隊長のしもべを癒される時は、触りませんでした。距離があったからです。
イエスはどんなに距離と時間の隔たりがあっても、人を癒 すことがお出来になります。
イエスさまは時間、空間の支配を受けないお方だからです。

しかし、そのイエスさまがペテロのしゅうとめを癒される時は、手に触れました。
イエスさまがペテロのしゅうとめを気に掛けておられること、愛されていることを示されるためであり、
彼女の熱病はイエスさまが癒されたことを明ら かにするためでした。

愛は表現されなければ、相手に伝わることはありません。
天の父がイエスを遣わされたこと、イエスが私たちの罪の為に十字架を背負われたこと、
勝利の復活をされたこと、これらは全て私たちに対する神の大 いなる愛の表現です。

イエスの大きな愛、それは先ずペテロのしゅうとめを見つめる目でした。
彼女を当時のイスラエルの社会的な基準で見下すことなく、愛と尊厳を受けるべき人の人としてご覧になられたこと、
病に対する思いやり、包み込む大 きな愛を持って彼女の手を触られたこと。
この大きな愛を通して、イエスの癒しは彼女に注がれました。

ペテロのしゅうとめは癒され、「イエスをもてなした」とあります。
聖書の欄外の注にもあるように、この箇所は「イエスに仕えた」とも訳せます。
ペテロのしゅうとめはイエスの愛を受け、癒され、イエスに仕える者に変えられました。

私たちがイエスさまと隣人に仕える動機は、まさにここに記されています。
イエスさまの愛に触れられ、神に愛される者としての尊厳を取り戻すと、私たちは神を心から愛し、
神と隣人に仕える者に変えられるのです。

私たちは神に仕え、教会に仕えるから、価値が認められ愛されるのではありません。
先ず神に目を留められ、赦され、愛されたから、神を愛し、神と人に自発的に仕えたいと思う者に変えられるのです。
神の愛こそが私たちを回復し、成 長させる力です。

愛と思いやりのあることば、個人を尊重する暖かいことばで育てられた人は、強い人生の土台を持っていると思います。
優れたクリスチャン・ホームを 見ると、その実が見えます。

しかし私自身を見ると、自信が無く、自分を価値のない人間だと長い間、思って
いました。
自分の子供の頃を振り返ると、親からも教師からも、誉められたり、認められた経験がほとんどありません。
ましてや「おまえを愛している!自慢の息 子だ!」などと言われたことも、ハグされたことなども一度もありませんでした。
決して親を責めるつもりで言うのではありません。きっと私の両親も、
自分の親から愛の表現を受けることは同じように無かったのだろうと思うからで す。
人の前に立つと緊張し、失敗を恐れて消極的な若い頃を送っていた私でしたが、神と隣人に心から仕え、
前にも何とか立てるように変えられたのは、神 の愛に触れられたからです。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3章16節

パウロはこのエペソ3章の祈りの冒頭で、「あなたがたの内なる人」が強められるようにと願っているのです。

罪によって、真の神を知らない人間の「内なる人」は弱く、力がありません。
だからこの世は「外なる人」を一生懸命に強くして、内面の弱さを隠そうとします。
外面の力強さ、人と比べて成績が良いこと、一流大学、一流企業の肩書き、高級車、
ブランドの服、大きな家、それらに心が捕らわれれば捕らわれるほ ど、
その人の「内なる人」が貧しく弱いことを物語っているのではないでしょうか。
私自信がそうでした。

神を拒絶するこの世は「内なる人」を強めることは出来ません。どうしたら「内なる人」が強くなり、成長するのかを知りません。
「内なる人」はキリ ストの愛に触れていただく以外に、キリストの命を受けることなしに、力強く成長することはありません。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いてい るあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリ ストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ3:17-19

キリストの限り無い愛を知り、この愛で満たされる時、私たちの「内なる人」は命を受け、
力に満ち、キリストに似た者へと私たちを成長させます。

いま心開いて祈りましょう。神の聖霊により、イエスがあなたを愛していることが、
あなたの心にハッキリと示されるように。
日々聖霊が、イエスの愛 をもってあなたの「内なる人」を強めて下さるように。

【イエスの癒し】

「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみ なお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負っ た。』」マタイ8章16−17節

イエスさまは御前に来た病人をみな癒され、悪霊に憑かれた人々を解放しました。
今日でも、信仰による病の癒しがあります。また悪霊からの解放も行われています。
しかし、全ての人が癒されることは、残念ながらありません。
イエスさまが全ての病気を癒したのは、神の国がどのようなものであるのかを、
あらかじめ、お示しになるためであったと考えられます。
イエスさまは聖書の約束通りに、天の父の定められた日に再臨されます。
罪と死を完全に滅ぼし、神に逆らう全ての悪しき霊どもは罰せられ、天地も全て新しくされます。
その時、私たちは栄光の体を受けて、永遠を主ととも に過ごすようになるのです。
これが救いの完成、やがて来る完全な神の国です。
そのことを示すために、イエスは神の国で起こることを限定的に地上で行われたのだと考えられます。
そのことを通して、神の国の主が誰であるのかを示すためでありました。
神の国へは、イエスへの信仰によってしか入ることは出来ないからです。

当時、大勢の人々がイエスの癒しを体験したようです。
しかし、癒された者が全て救われたのでしょうか。そうでは、ありません!
イエスの奇跡を体験し、癒しを体験しながらも、イエスに背を向けた者は少なくなかったようです。
奇跡と癒しが、人を救いに導くのではありません。 信仰です!

イエスの十字架と復活を信じる信仰によって、罪赦され、神の子供とされ、心に新しい神の子供としての性質が与えられる!
この信仰による救いの奇 跡、霊と魂の癒しは今日も変わらず信じる者において行われ続けているのです。

【癒しの源】

イエスのもとを訪れた全ての病人、悪霊に憑かれた者が癒された理由、また私たちの罪が赦され、
私たちの霊が癒され、また肉体もやがて癒される根拠 をマタイはイザヤの預言が成就したからだと書いています。

「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。(17節)」

イエスさまは、決して天から私たちを見下ろしておられる方ではありません。
イエスさまは、苦しみ、病む者の傍観者ではありません。
その痛み、苦しみ、弱さをともに担うために地上に来られ、私たちの問題の真ん中に飛び込んで下さる方です!

私たちが罪赦されたのは、私たちの罪を全てイエスが身代わりに背負われ、死の罰を受けて下さったからです!
私たちの病がやがて完全に癒され、栄光 の体を受けるのは、
イエスが私たちの病をも十字架に背負い、死なれ、しかし三日目に確かに復活されたからです。

イエスさまと私たちを結ぶものは、信仰です!
私たちを愛し、私たちの重荷を背負うために、私たちの問題の真ん中に飛び込んできて下さったイエスを心を開き受け入れましょう!
主を救い主として 心から礼拝しましょう。

【イエスの愛への応答】

「さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
そこに、ひとりの律法学者が来てこう言っ た。
『先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。』すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣が あるが、人の子には枕する所もありません。』また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。『主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してくださ い。』ところが、イエスは彼に言われた。『わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。』マタイ福音書8章18−22 節

この箇所はイエスに従う弟子に求められる基準が書かれています。
イエスの弟子とは、決して気ままにイエスに従う者ではありません。
「今日は従うが、明日は分からない」では、弟子ではないのです。イエスの弟子とは住む場所さえも御心のまま、
主が行かれる所なら何処へでも付いて いく者だとイエスさまご自身が仰っているのです。

当時のイスラエルでは父・母を敬うことはとても重んじられ、律法の一つでもありました。
父親の葬儀を守ること、これに勝る子供の務めはありません。
しかしイエスさまは、弟子として主に従うことは家族の義務を守ることよりも優先されるべきだと言われるのです。

常識では考えられない、高い弟子としての基準、また要求です。
あなたは、この主の求めに応じられますか。あなたは主イエスに従いきますか。

イエスの愛を知る者だけが、主に従う者に変えられます。
私たちがイエスの命を懸けた偉大な愛、その限りない愛を知る時、私たちはイエスに仕える者、
イエスに従う者、その弟子に変えられていくのです。

教会生活が苦痛に感じられるなら、教会生活が退屈で、ただの義務にしか感じられないなら、私たちは自分の心に問うべきです。
「自分はイエスの愛を 知っているだろうか。体験しているだろうか」。そして十字架を見上げ祈りましょう。
「十字架に表された、あなたの限りない愛を私に示して下さい」と。