「父のみこころを行う者」

マタイによる福音書7章21−27節


「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなた の名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。 不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」マタイ福音書7章21−23節

山上の説教の最後部分になります。この部分は厳しいことばをもって、
私たちがキリストの教えを実践する者になることをイエスさまは勧めています。
どんなに良い教え、自分と隣人を真の幸福に導く教えであっても、それが生活の中で行われなければ何の意味もありません。
私たちは、良い教えを聞いただけで満足し、実行するのを先延ばしし、いつの間にか忘れてしまうことが少なくありません。
イエスさまのことばが厳しいのは、私たちがみことばを行うことによって、真の幸福に生きて欲しいとの強い願いの表れです。

信仰者にはバランスが必要です。静まって神のことばを聞き、良く理解すること、
そしてそれを自分の置かれている状況で心を込めて実践すること、こ のバランスが大切です。
どちらか一方になっては不健全になります。
さて、本日の聖書箇所は、改めて私たちの信仰は何を目指しているのか、信仰の本質とは何かを明らかにすることばです。
宗教としてのキリスト教には何の意味もないこと、口先だけの信仰者は神の御前から追い出されることをハッキリとイエスさまは教え、警告していま す。

救われるのは行いではなく、信仰によると言う信仰義認を否定することばのようにも聞こえます。
もちろん、このイエスさまのことばは信仰義認、イエ スを神のひとり子、
罪と死から救う救い主として神が遣わした救い主であることを信じ受け入れるだけで救われることを否定するものでも、矛盾するも のでもありません。
却って私たちが信じているものは何かを、改めて明らかにすることばであるのです!

しかし、先ず私たちはイエスさまの警告のことばを真摯に受け止めましょう。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるので す。」マタイ7章21節

@律法(聖書の戒め、戒律)を守ることではなく、父のみこころを行う者が御国に入る。

イエスさまは律法(聖書の戒め、宗教的な戒律)を守る者が天の御国に入るとは言いませんでした。
もし律法を守る者が天の御国に入るなら、聖書の中 には矛盾が生じます。
イエスさまが言われたのは「父のみこころ」を行う者が天の御国に入ると言われたのです。

「父のみこころ」とは何でしょう?
ここでイエスさまが言われた「父のみこころ」とは一体何を指しているのでしょう?
「父のみこころ」は何か?皆さん一人ひとりにお願いしたいのです。
「父のみこころ」は何かを求めて下さい。それを真剣に探し求め、理解して下さい。
なぜなら、あなたの救いに直接関わることだからです!

さて、山上の説教の全体の流れ、文脈からすると「父のみこころ」とはイエスさまの教えそのものを指しています。
そして、それをひと言で要約するな ら「愛」なのです。

口先でイエスを主と呼び、自分は洗礼を受けたキリスト教徒だと言っても、
「愛」を行う者でなければ決して天の御国に入ることは出来ないのです。
私たちは、このことを誤魔化してはいけません。
人は騙せても、天の父を騙すことは出来ないからです。
自分が愛に生きているか、そうではないかは天の父と、あなたの心しか知りません。

どんなに宗教としてのキリスト教団体に貢献しても無駄です。
キリスト教の知識を習得して牧師になっても、奇跡や悪霊追い出しをする活動をしても、
心に愛がなければ、天の父には受け入れてもらえないのです。

パウロは同じことをコリント人への手紙第一、13章で教えています。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物 を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありませ ん。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちませ ん。」コリント人への手紙第一13章1−3節

愛です!天の父のみこころは、私たち一人ひとりが心から愛に生きることを求めています。
愛に生きること無しに、天の御国に入ることはないのです!


A神によって生まれた者が、愛に生きる!

愛を行うことです!それも神の愛、アガペーに生きることが父の御心なのです。
神の愛、アガペーとは一体どのような愛でしょう?

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」  第一ヨハネ4章20節

新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、愛を表現するギリシャ語はアガペーの他に、フィオー、エロスなどがありました。
フィレオーは兄弟愛、友 情、好みなどを表す時に用いられ、エロスは男女の愛情を表す時に用いられました。
しかし、イエスが私たちに求めておられる愛はアガペーの愛です!
アガペーの愛とは無条件の愛です。
フィレオーもエロスも愛の対象が自分にとって価値のあるものに限定されます。
しかし、アガペーの愛は無条件の愛、自分の敵さえも愛する愛です。

私たちは時に、自分と同じ血の流れる兄弟を愛することさえ難しく感じる時があります。
妻を、夫を、自分を生み育ててくれた両親さえ愛し敬うことを難しく感じる時があります。
ましてや自分に敵対する者をどうして愛することが出来るでしょう?

私たちの中には、アガペーの愛はないのです!
どんなに努力しても、修行しても、アガペーの愛に生きる愛の人には成れないのです。
アガペーの愛、無条件の愛の素晴らしさを理解し、それを願っても愛を行えない。
私たちの本性は、真の愛に生きられない、真の愛を拒否する罪深い性質なのです。
自分ではこの罪深い性質を変えることが出来ないのです。

しかし、神は私たちを変えることが出来ます。その解決がイエス・キリストの十字架です!
キリストが背負われたのは、私たちの罪深い性質、私たちの罪そのものです。
誰でも、自分のなかに罪があることを告白し、主イエスに罪の赦しと罪からの解放を願うなら救われるのです。
その救いとは、私たちの罪深い性質がイ エスの十字架によって滅ぼされ、
イエスの復活による新しい神の子供としての性質を受けることなのです!

救いとは、ただ死後に天国に行くというものではないのです!
私たちの内面が、キリストの十字架の死と、復活によって新しく造りかえられ、
神の愛、アガペーの愛に生きる者に変えられること、これこそが救いなのです!

口先だけでイエスを主と告白するものが救われるのではありません。
心の性質がキリストによって変えられ、アガペーの愛に生きることこそ父の御心なのです。

だから先ず、自らの中に努力や修行、他のいかなる人間的な方法によっても変えられない罪深い性質があることを認めること、
その解決として神が提示 された救い主イエスを受け入れること、イエス・キリストが私の罪深い性質を十字架に背負い、
ご自分の死をもって罪を滅ぼし、三日目に復活され、私 たちに神の子供としての命を注がれたことを信じることです。
これが父の御心です!

キリストにある新しい性質は、みことばと祈り、クリスチャン同士の交わりを通して成長します。
初めは自分の中に与えられた新しい性質に気が付かな いかもしれません。
しかし必ず神の子としての新しい性質は成長し、やがてイエスに似た愛の人に変えられるのです。
これが私たちの信仰であり、これが天の父が願っておられる御心なのです。

「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者 をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛すると は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエ スを神の御子と信じる者ではありませんか。」第一ヨハネ5章1節から5節


【岩の上に自分の家を建てた賢い人】

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し 寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれ を行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、 倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」マタイ福音書7章24−27節

イエス・キリストを信じて、そのみことばを行っても、人生には試練が訪れます。
信仰者はあらゆる不幸や苦しみから解放され、不信仰者だけが苦しみに会うとは書いてありません。
信仰者、不信仰者の別なく、人生には苦難、試練が 訪れるのです。
ですから人生に起きる試練や苦難を見て、信仰を手放すことがないようにしましょう。
この不完全な地上に住んでいる間は、悩みや悲しみ、問題から完全に解放されることはありません。

しかしイエスを信じ、イエスのことばを行う者は苦難の中にあっても、決して問題に押し潰されることがないと主は教えておられます。
イエスのこと ば、神のことばである聖書は、私たちの人生に岩のように揺るがない土台を形作ります。

イエスのことばによる、岩のように揺るがない土台、どんな試練や苦しみにあっても、私たちを支え続ける岩の土台とは一体なんでしょうか。
私は今回の東日本大震災を通して、このみことばに対する理解を深めることが出来たように思います。
イエスのことばによる岩の土台とは、愛による絆 であると確信するのです。

イエスの教えが目指しているもの、それは愛であるとお話ししました。
愛とは決して個人の中にあるものではなく、関係の中に初めて生まれるのです。
イエスの教え、神の愛の実践は人と人とを愛の絆で結び合わせます。

今回の震災を通して、コンクリートで出来た頑丈な建物も、快適な暮らし、生活の基盤も一瞬にして崩れ去ることを改めて覚えさせられました。
原発の 事故を通して、絶対安心というものは存在しないことも覚えさせられました。
安心・安全の神話が崩れたのです。

何を信じ、何を支えとして生きるべきなのか?私たちは誰もがこの震災を通して考えたと思います。エクレシアの若者たちと岩手にボランティアに行っ た時、ちょうど遠野市で花火大会がありました。花火の最後に、「絆」の文字が花火によって浮かび上がりました。

この震災を通して、人間同士の「絆」こそ私たちの人生を支える土台であることに、日本中が気付き始めているのだと思うのです。
仮設住宅を回り、被災者の方々を訪問しました。仮設住宅に暮らしていると言うことは、
いままで住んでいた家は津波で流されてしまったと言うことです。家を流され、職場を津波で流された。
でも家族がいる方は、それでも表情は明るかった。
家族をも津波で失った方は、本当に表情が暗かったのが印象的でした。
家族の絆が有るか無いか、それがどんなに人生の支えになるのか、改めて考えさせられました。
血縁の絆は確かに強い、しかし、時にはそれさえも失う 時が来る。
その時私たちを支える絆は何でしょうか?イエスの愛によって結ばれた神の家族ではないでしょうか?
私たちエクレシアは、この神の家族の絆を深め、 強めていきたいと思います。
イエスの愛、アガペーの愛の実践により、私たちは互いを支え、励まし、どんな苦難、
試練がやってこようとも一人も人生に失望する者が無いように、 互いに愛し合いたいと願うのです。

イエスのことばを聞いて行う者を支える岩とはエクレシアです!
神の家族です。
私たちは互いに神の愛の絆で結ばれ、励まし、慰め、時には戒め合い、堅くみことばに立ち、主の栄光を表しながら進んでいきましょ う。