「狭い門からはいりなさい」

マタイ福音書7章13節から20節


「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さ く、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ福音書7章13.14節

山上の説教からみことばを分かち合っていますが、いよいよ最後の部分です。
教えのクライマックスは前回分かち合った「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい(マタ7:12)」です。
これ が山上の説教の結論でした。
これが具体的に神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること、また、神の国とその義を求めることなのです。

私たちは山上の説教から、真に幸いな生き方が何であるかを学びました。
イエスを信じる信仰によって、積極的な愛に生きること。天に宝を積む生き方。
天の父を信頼して、自分のいのちのことを心配しない生き方。
兄弟姉妹を裁かない生き方。愛することを積極的に求める生き方。
そして愛するとは何か、具体的に何をすることなのか(マタ7:12)を学んだのでした。
イエスの山上の説教は終わりました。山を下りようとする弟子たちに向かってイエスさまは、
ご自身の教えに応答することを求めておられるのです。
みことばを聞いただけで、行わない者になってはならないのです!

私たちはイエスさまから最高の人生を学びました。
いま私たちの前には二つの道が用意されているのです。
一つは大きな門から入り、滅びへ続く広い道です。
もう一つは狭い門から入り、道は狭いのですが、しかしいのちへと至る道です!

あなたはどちらの道を歩みたいですか?

広い道の「広い」は「繁栄」を意味することばから来ています。
門が大きく、その道は繁栄している道、何もかも上手く行くように見える道。
しかし、その最後はなんと滅びである。
狭い道の「狭い」は「困難・労苦」を意味することばから来ています。
門は狭い上に、その道は困難や労苦に満ちている、しかしその最後はいのちに至るのです。

あなたはどちらの道を歩みたいですか?

滅びに至る道はなぜ広く、繁栄しており、その門は大きいのでしょうか?
これは私たちの生まれながらの罪深い性質を満足させる道なのです。
全てが自分の満足、快楽のために突き進む人生、最後は自分の我欲が最大限にまで膨らみ、
自らを神とする道なのです。だからその最後は滅びであるに も関わらず、心地よいのです。

いのちに至る道はなぜ狭く、その門は小さいのでしょう。
この道はイエスの十字架の道です。自分の罪深い性質、即ち神に背を向け、自分を神とし、
隣人を支配し利用する自己中心の性質を、日々否定する道な のです。
自分だけを喜ばせたい思いに気付き、その思いを十字架に葬り去る歩みなのです。

本当に神と隣人を愛そうとするなら、自分の罪深い性質に死ななければならないのです。
もちろん自分では死ねない。我慢は必ず無理に結びつき、最後は爆発するか燃え尽きる。
イエスの十字架によらなければ、私たちの性質は変えられない のです。
日々、神と隣人を愛するために、自分の弱さを主に告白して、十字架に背負っていただく、
キリストの死の力により、私たちの罪深い性質を滅ぼしてい ただき、キリストの復活のいのちを受ける。
困難と労苦に満ちているかもしれない、しかしその最後はいのちです!
この小さい門とはキリストの十字架であり、その道とはキリストともに十字架を背負って歩く道なのです。
神の前に罪深い性質を小さくされた者だけ が、いのちに至るのです。

あなたはどちらの道を歩みたいですか?
神と隣人を本当に愛するなら、必ず自分に死ななければならない時が来る。
しかし、キリストにあって自分に死ぬ者は、本当のいのちを受けるのです!

自分の生まれながらの性質を愛し、神と隣人を利用する者は、地上の人生は繁栄するかもしれない、
一時の快楽を手にするかもしれない、しかし最後は 永遠の滅びなのです。

私たちはイエスを心から信じ、信頼してイエスとともに狭い門をくぐり、狭い道を歩みましょう。
キリストの十字架によって自我に死ぬ道、それは復活 のいのちを受ける道です。

【にせ預言者に気をつけなさい。】

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができ ます。どうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い 実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒 されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」マタイ福音書7章15から20節

この箇所でイエスさまは、やがて教会に侵入してくるだろう、にせ預言者に対して警戒すること、
その偽りの教えを見抜くことを教えています。
にせ預言者とは、罪深い性質をキリストによって変えられることを拒絶しながら、教会を指導する者です。
ヤコブは「多くの者が教師になってはいけません(ヤコブ3:1)」と注意しています。
なぜならクリスチャンであっても失敗することがあり、教師は格別厳しい裁きを受けるからだと理由を書いています。
そうです!牧師や伝道師であって も、当然間違いを犯します。
しかし、間違いを犯したからと言って、にせ牧師や、にせ預言者ではありません。
私たちは誰であれ、地上にいる間は未完成です。完全な者はいないのです。
しかし、にせ預言者は自分の内面がキリストによって変えられることを拒否する者です。

自分の弱さ、罪深さを否定せず、却って肯定し、主に変えて頂くために自らの罪を一切、告白しない者です。
キリストの十字架を拒絶する者です。十字 架の変革を拒絶する者です。
このような者たちは、やがて罪深い肉の性質を誇るようになる者たちです!

誰が、にせ牧師、にせ預言者なのか?主は、その人が結ぶ実で分かると教えています。
実とは、第一に聖霊の実、聖霊によって結ばれる人格の実を指していると思われます。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22,23)
説教でこれらのことを語っていたとしても、その人の生き方が否定しているなら要注意かもしれません。

しかし、最も大切なのはキリストによって心が変えられているか、その証があるのか?でしょう。
キリストとの生ける交わり、その聖い御霊によって罪 を示され、日々、十字架を体験しているのか?
また、十字架の教えこそが信仰の中心であるか?なのです。

十字架がない説教があります。キリストを信じれば人生全て上手く行く!
ビジネスも成功し、病気も治り、問題も全て解決する!(十字架無しに!)
全くこの世の新興宗教と変わらない、ご利益だけを強調しているなら要注意です。

さて、にせ預言者に注意する教えですが、なぜイエスさまはこの山上の説教の締めくくりに語られているのでしょうか?
この直前は、滅びに至る道、いのちに至る道、どちらを歩むのかの選択を私たちに迫っておられました。
山上の説教、愛に生きることに全身で応答する ことを求めている文脈です。

私はこのように解釈するのです。それは、私たちの信仰が確かなものを見上げているなら、
にせ預言者を、その結ぶ実によって確かに見分けられると。
しかし、もし私たちが滅びに至る道を歩み、その歩みを楽しんでいるなら、にせ預言者を見分けることが出来なくなると。

私たちが自分の罪、自分の弱さに向き合い、心を変えて欲しいと願っているなら、十字架のメッセージは救いです!神からの解決です。
十字架は喜ばし いものです。
しかし、自分の中に罪を認めず、心が変えられることを願わないなら、
にせ預言者の語る十字架の無いメッセージが心地よく聞こえるのです。

私たちが真の幸いの人生を歩みたいのなら、キリストの十字架を仰ぎ、自分の十字架を背負って主に従いましょう。
神と隣人を本当に愛そうとするな ら、私たちは自我を乗り越えなければならないからです。
頑張りや演技で自己否定しても、必ず反動がやってくる。
頑張りや演技で愛に生きることは出来ないのです。
キリストの十字架だけが、私たちの自己中心の古い性質を砕き、滅ぼすことが出来ます!
キリストこそ、私たちの古い性質を十字架に背負って、死んで 下さったからです。
しかしキリストは罪と死に勝利して復活しました。
キリストの復活のいのち、復活の力が、私たちに新しい心、愛に生きる力を与えるのです。これが私たちの信仰です!

人を愛せない自分、愛のために犠牲を払うことを惜しむ自分、
自分が何でも一番でなければ我慢出来ない自分、その思いを主に告白しましょう。
その思 いが罪であることを主の前に認め、主の十字架に背負って頂くように祈り求めましょう。
一度の祈りで、心が変えられるのではありません。祈り続けることです。
主は自分の十字架を背負って、わたしに付いてきなさいと言われました。
自分の罪深い性質を主に告白し、十字架に引き渡すことは生涯の歩みなのです。
主とともに、この道を歩みましょう!
十字架の道を否定し、古い性質のままで生きることを賞賛し肯定する、にせ預言者に聞き従ってはいけないのです。
十字架の道だけがいのちに至る道な のです!