「積極的なライフ・スタイル(3)兄妹姉妹を裁かない」

聖書箇所:マタイ福音書7章1節から6節


イエスさまは山上の説教の中で、神の国に相応しいライフ・スタイルを教えています。
これこそイエスさまが教えられた、本当のクリスチャンの生き方です。

【さばいてはいけません】


「さばいてはいけません。さばかれないためです。」マタイ7章1節

@「裁く」の肯定的な意味と否定的な意味。

ここで用いられている「裁く(クリノー=ギ)」の意味には、肯定的な意味と否定的な意味があります。
肯定的な意味での「裁く」には「分析す る」、「評価する」、「価値判断を下す」があります。
肯定的な意味で「裁く」ことは大切なことです。
否定的な意味での「裁く」とは「見下げる」、「批判する」、「有罪判決を下す=罪に定める」、「非難する」、「中傷する」ことです。
この否定的な意味で「裁いてはならない」と命じておられるのです。

(適用)肯定的な意味の「裁き」と否定的な意味での「裁く」を混同していませんか。
私たちを取り巻く思想や哲学などを正しく識別し、判断することは大切です。
しかし兄弟姉妹、また関係の近い人の欠点を見て、その人の人格を引き下げることが主の禁止された「裁き」です。
この違いを理解し、信仰生活に適用 しましょう。

A「裁く」ことの危険性

なぜ、イエスさまは「裁いてはいけない」と命じられたのでしょうか。

(1)共同体(教会=神の家族)を破壊する危険がある。

「裁き」は教会に亀裂を生み、教会を破壊する危険があります。
教会はキリストの体であり、キリストの花嫁です。
教会は地上で神の愛と赦しを表現する共同体として神が造られた大切なものです。
そして教会とは私 たちなのです!
この教会が「裁く」ことによって、簡単に崩れ、機能しなくなるのです。
また、あなたが教会の兄弟姉妹を「裁く」なら、厳しい言い方ですが、すでに自分をキリストの教会から切り離してしまっているか、もしくは相手を切 り離しているのです。

(適用)教会とは何か?なぜ教会は存在するのか?教会は誰なのかを考えてみましょう。
自分はキリストの体に属しているのか?それならば、傷ついた 同じ体の部分に対して無関心、裁きの心で接して良いのか?
何を自分はすべきなのか?
主の前に考えましょう。

(2)自分の霊的な成長を妨げる

裁くことの危険は、自分の霊的な成長が妨げられることです。
私たちは、誰かの欠点や過ちを指摘することによって、何か自分の方が勝っている錯覚に陥る危険があります。
兄弟姉妹の罪を暴き、裁くことによっ て、自分も同じ罪人であることを忘れてしまうのです。

私たちが自分の罪と向き合い、自分の弱さと向き合っているなら、兄弟姉妹の罪を裁き、弱さを責めることは無いはずです。
しかしパリサイ人のよう に、自分が罪人であることを否定し、気が付かない時、簡単に人を罪に定めて優越感に浸るのです。

自分が罪人であり、弱さを負う人間であることを忘れて、どうして霊的な成長があるでしょう。
神の恵みと助け無しには、自分はとても生きられない、 この霊的な自覚こそが神を求めさせ、霊的な成長へとつながるのです。
これが恵みの成長です。

恵みによって歩む者は、兄弟姉妹を裁くことが出来なくなります。
なぜなら信仰の始まりが赦しから始まっているからです。
恵みに留まりましょう!裁きによっては、自分も兄弟姉妹も成長することはありません。

【あなたが裁くとおりに・・・】

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」マタイ7章2節

@神があなたを裁く。

先ず考えられるのは、神があなたを裁くという解釈です。
私たちが兄弟姉妹を裁く同じ基準で、終末の日にあなたも裁かれるだろうと言うのです。
この裁きというのは、永遠を何処で過ごすかの裁きではなく、地上での歩みへの評価です。
兄弟姉妹に対して厳しい基準で裁いているなら、同じ基準であなたも評価されるだろうと言う解釈になります。

A裁く隣人があなたを裁く


もう一つの解釈は、あなたが裁く隣人が、同じようにあなたを裁くだろうと言う解釈です。私たちが厳しく兄弟姉妹、
隣人の罪を指摘し、裁くならば、 同じように厳しい基準で自分が裁き返されるという解釈です。
これは終末ではなく、地上の人生でのことです。

どちらの解釈にせよ、隣人に接する心の態度が、そのまま自分を自信の評価なのです。
隣人を見下げる者は、神から同じ評価を受け、隣人を拒否する者は自分が拒否されるのです。
心の中にある否定的な裁きを十字架に付け、キリストの愛 と赦しの心を聖霊に願いましょう。
赦しと愛、いつも兄弟姉妹の良いところを見ていくこと、これが私たちに相応しいライフ・スタイルなのです!