「主の祈りC」

聖書箇所:マタイ福音書6章13節


「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕マタイ6章13節

主の祈りから続けて恵みを分かち合っています。今週は最後の部分になります。
主の祈りは神を変えるためでも、自分の願望をかなえるための祈りでもありません。
主の祈りは、私たちを変える祈りであり、神を第一にする祈りです。
主の祈りは、私たちを神の子供、また礼拝者として相応しい者に整える祈りです。
だからこそ、主の祈りは祈りの中の祈りと言えるのです。

【私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください】

聖書はハッキリと神に敵対する悪魔・サタンの存在を私たちに伝えています。
悪魔・サタンは神に敵対するだけではなく、アダムとエバを罪に誘惑した張本人です。
悪魔・サタンは私たちの罪を責め立てる者(黙12:10)、死の力を持ち、私たちを死の恐怖で奴隷にする者(ヘブ2:14.15)とあります。 悪魔・サタンは福音に覆いを掛け、救いの真理を隠し(Uコリ4:4)、救われた神の子さえも堕落させようと誘惑してきます。(Tペテ5:8)

私たちは霊的な戦い(エペソ6:12)の中にあることを忘れてはならないのです!
私たちは神の守り無しに、霊的な戦いに勝利することは出来ません。
私たちが置かれている状況はこのように、決して楽観出来る状況ではありません。
優れた信仰者でも、ヨブのように激しい試みに遭うのです。
信仰者であっても、残念ですが事故や災害、犯罪の被害に遭うこともあります。
病気や事業の失敗、愛する者を失うこと、信頼していた者から裏切られることもあります。
この世は不完全であり、神に敵対する者が支配しているからです。(ヨハ14:30)

しかし、このような中でも神の守りは完全であることを覚えましょう!

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰 がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22章31.32節

「キリストはいつも生きていて、彼らのために(キリストを信じる私たちのこと)、とりなしをしておられるからです。」ヘブル人への手紙7章25節

主イエスが、私たち一人ひとりを覚えて誘惑から守られ、悪に負けることがないように、父なる神にとりなしておられるます。神の守りは完全であるこ とを覚えましょう。

主イエスが祈って下さり、父なる神の守りも完全であるのに、なぜ私たちに試練がやって来るのでしょうか。

なぜペテロに対するサタンの試みを、父なる神が許されたのかは書かれてありません。
ヨブに対するサタンの試みも父なる神は許されました。
私たちは聖書を通して、なぜ神が試みを許されたのか、その理由を知ることが出来ます。
しかしヨブ本人は、天に帰るまで、その試練の本当の理由を知 ることは出来ませんでした。

なぜ思いもよらない不幸がやってくるのか?災難が続くのか?
何をやっても、上手く行かない時があるのか?
その本当の理由は、天に帰るまで分かりません。
理由が分からない苦しみ、いつ終わるか分からない苦しみは本当に辛いものです。

この世にいる間は、試練の本当の理由を知ることは出来ませんが、しかし私たちは、天の父が許されたことに希望と慰めを見いだしたいのです。

天の父は私たちが滅びるために試練を許されることは決してないからです!
父が試練を許されたのなら、次のことが確かなのです。

先ずはじめに、試練、試みには必ず終わりがあることです!
永遠に辛い状況はありません。必ず試練には終わりが来ることを覚えましょう。

そして、試練は私たちを必ず成長させることです!
試練は私たちに忍耐を養い、人格と信仰をきよめ、高めます。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」
ヤコブ1章2.3節

「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るもので あることがわかります。」
第一ペテロ1章7節

試練に遭わずに神に用いられた信仰者は未だかつて、一人も存在しません!
神の一人子であり、私たちの主であられるイエス・キリストご自身も悪魔・サタンの試みに遭い、多くの痛みと苦しみを体験されたのです。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」ヘブル人への手紙5章8.9節

私たちは救いの創始者であり完成者であるイエスを見上げ、試練の中にあっても堅く信仰に立って進んでいきましょう。必ず苦しい時は過ぎ、あなたは 成長します。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ1章12節
信仰の試練の先には、いのちの冠が約束されています!この希望を堅く持ちましょう。

【信仰の試練を勝ち抜くために!】

私たちは神に敵対する者が支配するこの世に置かれています。
信仰生活は正に霊的な戦いの中にあるのです。
私たちは主イエスの教えて下さった「主の祈り」を祈ることによって、試練を乗り越える信仰を保ち続けたいと願うのです。

神の守りは完全であり、耐えることが出来ない試練を許されることはありません。(Tコリント10:13)
しかし、ペテロが注意しているように悪魔・サタンは食い尽くすべき者を求めて飢えたライオンのように私たちの回りをうろついていることも事実なのです。(Tペテ5:8)

ヤコブは試練に立ち向かう心構えとして大切なことを私たちに教えています。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさるこ ともありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」ヤコ ブ1:13-15

神が私たちに試みを許されるのは、私たちが必ず乗り越えることが出来ると知っておられるからであり、その試練を通して必ず成長することを知ってお られるからです。
しかし、その試みが悪へと堕落する誘惑になってしまうのは、自分の中にある欲望に原因があるのだとヤコブは教えています。

神よりも自分を第一にすること、これこそが欲望の始まりだと思います。
神を第一にする時、神の国と御心を願う時、私たちは欲望を治める力が与えられます。
これが正しい姿です。万物を正しく治めておられる主に従う時、私たちも自分に属する物事を正しく治める力が与えられるのです。神の秩序の中に自分 が組み入れられるのです。

しかし神よりも欲望を第一にする時、私たちは欲望に支配されることになります。
それは全ての無秩序の始まり、堕落の始まりなのです。

主の祈りは、自分の願望を第一にする祈りではありません。
自分の願い事を神に無理矢理に叶えさせようとする祈りではありません。
神を第一にする祈り、神ご自身とその支配、神の御心がなることを第一にする祈りです。
主の祈りによって、私たちの霊と魂が相応しく整えられる時、私たちは欲に支配されない力が与えられ、御国を建てあげ、実を結ぶ神の器となるので す。

主の祈りを祈り続けましょう。主の祈りによって相応しく整えられた者になりましょう。