「主の祈りB」

聖書箇所:マタイ福音書6章11〜15節


今週も先週に続き主の祈りを学びましょう。
主の祈りの前半部分は神の「御名」、「御国」、「御心」を祈る祈りでした。
祈りに於いて、先ず自分ではなく、神について祈ることが主の祈りの特徴です。
主の祈りは私たちの心を神の子、礼拝者として整える祈りです。
今週は後半部分、私たちの必要についての祈りを分かち合います。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
マタイ福音書6章11節から15節

【私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください】

私たちが主の祈りを祈るから、天の父が糧を与えて下さるのではありません。
天の父は私たちが祈る前から、私たちに必要なものを知っておられ、備えて下さるのです。
なぜ主は私たちに、日ごとの糧を祈るように教えられたので しょう。

私たちに本当に必要なものは、天の父から来ることを覚えるためです!
この祈りは、私たちを生かすもの、霊的なものも物質的な物も含めて、全ては天の父から来ることを覚え、父に感謝し、また心に平安が与えられる祈りです。

私たちは日ごとの糧を自分の力、労力で稼いでいると勘違いします。大きな勘違いです。
仕事も神から与えられた賜物ではないでしょうか。
生きていることは、決して自分一人の力では成り立たないのです。
その大きな源は天の父です。日々、天の父に日々の必要を求めることは相応しいことです。

自分が自分を養っている、自分が自分を生かしている、神にも隣人にも感謝の心を忘れると人間は傲慢になります。
金と力だけを求めるようになり、心 の繋がりを見失います。
しかし、その一方で金や力を失った時のことを覚え、不安を抱えているのです。

私たちは天の父を見上げましょう!父は必ずあなたを養って下さいます。
仕事を与え、問題を乗り越える力と知恵も、主は与えて下さいます。自分一人では乗り切れない時も、ともに問題を分かち合える信仰の友、神の家族を 主は備えて下さるのです。
天と地を造り、これを治めておられる方が自分の父であることを覚えましょう。
天の父はあなたの必要のために、御子イエスをお与えになられた方です。
それならば、日常の必要を備えて下さらない訳がありません!
私たちを取り巻く否定的な状況や問題だけを見て振り回されるのでなく、変わることのない天の父を信仰の目を持って見上げましょう。

(適用)天の父が私たちの必要を備えて下さる聖書の約束を学びましょう。
    みことばの約束に立ち、平安が得られるまで父の愛を賛美し、祈りましょう。

【私たちの負いめをお赦しください】

「私たちの負いめ(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人たちを赦しました。(12節)」

イエスさまはこの祈りの意味を、14.15節で補足されています。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

この言葉は、あまりにもハッキリしているので読み間違えることは出来ないでしょう。
主イエスは私たちが赦されるには、隣人の罪を赦すことが大前提であると教えています。

信仰による罪の赦し、キリストの十字架による罪の赦しと矛盾するのではないか?と考える人もおられるでしょう。確かに私たちはイエスの十字架の購 いによって赦されています。信仰によってのみ、神の子とされ、キリストの十字架の購いを信じることによってのみ、罪赦されるのです。

しかし、罪の赦しとしての神との交わり、いのちの回復を受け取るには、私たちの心が隣人を赦すことが大切なのです。

神はキリストにあって私たちを赦され、和解の手を差し伸べてくださっています。
しかし隣人を赦さない心は、その御手を自ら拒絶しているのです。

神は私たちに赦しに伴ういのちの交わりを差し出しています。
しかし、それを受け取る私たちの手に、憎しみと恨みの剣が堅く握りしめられていたら、どうして神の与えて下さるものを受け取ることが出来るでしょ う。
赦さない心を手放して、初めて神の赦しを私たちは受け取ることが出来るのです。

隣人を赦すこと、私たちに害を与え、傷つけた人々を赦すこと、このことに抵抗を感じる方は少なくないと思います。

親子が、夫婦が、兄弟が互いを赦せないでいる。赦しのない関係は滅びにしか進みません。
家庭崩壊の多くの原因が互いに赦せない心にあるのではないでしょうか。
人種間の問題、地域の紛争、その多くは赦せない心に原因があるかもしれません。
教会ですら、互いに赦し会うことが出来ないために分裂することがあります。
赦しの問題は、決して簡単ではありません。

思い出すのもためらうような過去の辛い出来事、犯罪の被害に遭われた方は尚更、赦すどころか、その出来事すら思い出したくもないでしょう。
思い出すだけで、憎しみと怒りがこみ上げてくる、あるいは恐れや痛みで心が締め付けられるようになる。
赦すことなど不可能に思われる。

赦しは決して簡単ではない。しかし、諦めてはならないのです。
憎しみを肯定し、復讐を肯定する時、私たちの心はさらにいのちから遠ざかってしまう。

イエスさまはご自分のことを、道、真理、いのちであると宣言されました。(ヨハネ14:6参)
イエスの道とは信仰の道であるとともに、赦しの道ではないかと思うのです。
私たちはイエスとともに辛くとも、赦しと和解の道に進んでいかなければならないのです。
しかし、主がともに歩んで下さることを覚えましょう。

イエスさまはご自分を拷問し、嘲笑し、十字架に釘付けするローマ兵を赦し、とりなしの祈りを捧げられた方です。
赦すことの難しさ、困難さを誰より も体験された方です。
私たちは主とともに、赦しの道を歩みましょう。
赦せない辛い出来事、痛み、憎しみ、全て主に分かち合いましょう。
主は私たちの重荷をともに背負って下さる方です。
一歩一歩主とともに赦しの道を歩みましょう。

最近出版された「ハマスの息子」モハブ・ハッサン・ユーセフ著(幻冬舎)があります。
パレスチナのテロ組織であるハマスの創立者の息子が、イスラム教から改心してイエスに従う者に変えられました。
彼は自分の民族から平和と領土を奪 い、友人、親戚のいのちを奪ったイスラエルを父親同様に激しく憎んでいました。
イスラエルにテロを企てた彼はイスラエルに捕らえられ、激しい拷問 を受けます。
そしてパレスチナ人テロリストたちが投獄されている牢屋に入れられます。
そこで目にした者は同じパレスチナ人同士の裏切り、密告によ るリンチ殺人でした。彼はイスラエルが敵なのか、パレスチナ人が敵なのか分からなくなる。憎しみの行き着く先は一体何なのかを考え始めるのです。
その時、イエスのことばに出会うのでした。
彼は本当の敵は、イスラエルでも宗教でも人種問題でもないことに気付きます。
私たちの敵とは強欲や傲慢、悪意といった心の闇にあることに気付いたのです。
憎しみや怒りは問題を決して解決することがないこと、赦し、愛に生きることが解決であることを主イエスのことばによって悟らされるのです。

憎しみや怒り、復讐心によって人生の問題が解決することはありません。
憎しみ、怒りを肯定している時、私たちは天の父に背を向けていることになります。
相手を裁く思い、復讐する思い、憎しみ、怒りを主に告白しましょう。
赦しを拒んでいる傷を主に背負っていただきましょう。
心の傷を主に背負っていたく時、私たちは初めて怒りと憎しみから解放されます。
赦しに歩む力を受けるのです。

※赦しとは、決して隣人の犯罪行為や暴行・暴言を許容することではありません。
赦しとは、隣人が自らの罪に気づいて悔い改め、いのちと和解の道を歩めるように祈り願い、自分に出来ることを行うことです。