「主の祈りA」

聖書箇所:マタイ福音書6章10節


先週に続き、主の祈りを学びましょう。
主の祈りは、主イエスが教えられた祈りの模範です。
イエスの弟子として、また神の国に生きる神の子に相応しい祈りです。
この祈りは偽善者の祈り、また自分の願望を第一にして、神を利用しようとする異邦人の祈りとは全く違います。主の祈りにはイエス様の祈りの心が表 されています。
主の祈りは私たちの生き方を、また内面を変える祈りです。
神の子として、神を礼拝する礼拝者として相応しく私たちを整える祈りでもあるのです。

【御国が来ますように】

御国とは、神の国のことです。御国が来ますようにとの願いには、二つの意味があります。
一つ目はやがて来る神の国、これはキリストの再臨によって始まる千年王国です。
もう一つは、キリストの初臨によって既に始められた神の国、信じるものに働く神の支配が拡大することを願う祈りです。

【やがて来る神の国を願う】

初代教会においては「マラナ・タ(主よ、来てください)」という挨拶言葉を交わしながら主イエスの再臨を待ち望み、励ましあっていました。(Tコ リント16:22、黙示録22:20を参照)
初代教会においては、主イエスが御国を携えて再臨されることを強く願っていました。
イエスの再臨、神の国の到来への強い希望がクリスチャンを励まし慰め、生活を清め、福音を前進させる力となりました。
私たちの救い主は必ず帰ってく来て下さることを覚えましょう!

主イエスが帰ってきて下さる日、その日は私たちの救いが完成する日です。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに 行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためで す。(ヨハネ14:1-3)」

主イエスが必ず帰ってこられ、永遠の住まいに私たちを迎えて下さる。
イエス再臨の時、私たちの不完全な肉体は栄光の体に変えられます。
死も病も苦しみもなくなり、涙、悲しみもない完全な世界が訪れます。
その時、私たちは人生の本当の意味を理解することが出来ると確信します。
私たちも初代教会の信徒たちのように、この約束を覚えて慰めと励ましを得ましょう。

イエスの再臨は喜びの時であるとともに、地上での人生が評価される時でもあります。
キリストを救い主として信じ受け入れたものは、決して永遠の滅びに定められることはありません。また犯した罪もキリストの流された血潮によって覆 われ、赦されています。
そのような罪に定める裁きに遭うことはありませんが、神の子として救われ、新生した後、どのように生きたのかは神の御前に問われるのです。

神は私たちがイエスを救い主として信じ受け入れた時、神の子としての新しい性質を与えられました。
罪に打ち勝つ性質です。これは御子イエスに似た 人格の実を結ぶためです。
そして聖霊によって新しい能力が与えられました。
これは私たちの行いが主イエスに似るためなのです。これが聖霊の賜物です。
私たちはその聖霊の賜 物をどのように用いたのか、どのような聖霊の実が結ばれたのかを問われるのです。
初代教会の信徒たちはこのことを覚え、自分たちの生活を清め、与える愛に生き、福音のために積極的に自らを捧げたのです。

イエスさまの再臨は慰めと喜びの時であり、また私たち自身の生き方が問われる厳粛な時であることも覚えましょう。

「御国が来ますように」と祈る時、私たちは御国の中に慰めと喜びを覚え、また厳粛に自分自身を問われる時であることも覚え、神と隣人に喜ばれる生 き方生きる決意を新たにしたいと思うのです。

【すでに来ている神の御国】

神の御国はキリスト再臨の時に完成されますが、イエスが始めて来られた時、すでに信じる者の心の中に来たのです。これは信じる者の心にある神の御 国、神の支配のことです。
私たちイエスを信じた者の心には、絶えず争いがあります。
キリストを信じる以前の古い性質と、キリストを信じて与えられた神の子の性質が絶えず心の支配権を得ようと戦っているのです。
どちらが勝つか?もちろん神の子の性質が負けるはずはないのですが、勝敗は、私たちの信仰の決断に懸かっているのです。

クリスチャンになったら、自動的にイエスさまのようになれるのではありません。
イエスさまを信じる前は、生まれながらに持っている罪深い性質の奴隷でした。
だから何をしても、最終的には滅びで終わってしまうのです。これ以外に道はなかった。
しかしクリスチャンになったら、滅びの道と、命の道の両方が選べるようになったのです。
どちらを選ぶかは、私たちの選択の自由に委ねられました。

だから私たちは日々、「御国が来ますように」と神の支配を、命の道を選ぶのです。
神の御国ではなく「自分の欲望を満たす快楽の国を!」と願うのが私たちの古い性質です。
神の御国はイエス・キリストが王です。その反対は自分を王とする自分の国なのです。
神の御国か自分の御国か?どちらを選ぶか、これが私たちの信仰生活を変えるのです。
私たちは自分を王とする、自分の欲望を第一とする古い性質を退け、絶えず神の国を、キリストを王とする人生を選びたいと願うのです。

「御国が来ますように」と祈ることこそ、古い性質に死に、新しい性質に歩む決断です!

【みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。】

この祈りも、御国を求める祈りと本質的には同じ祈りと言えるでしょう。
神の御心は、神の国において完全に成し遂げられています。
しかし、この地上では神の御心に反することが行われているのです。
神の御心を知らない人間、神の元から離れ、滅びに向かって真っ直ぐに進む人間が御心に逆らい続けているからです。そして、神の御心を知ることすら出来なくなっているのです。

御心は、神と和解し、聖書と聖霊によって神の御心を知る者の内において行われるのです。
しかし神の御心も、神と和解し、神の子になることで自然に行われるのではありません。
選択です。決断することによってです!

イエスさまもゲッセマネの園で自分の思いを優先させるか、父の御心を優先させるか祈られました。
十字架を背負うか、背負わないのかの大きな選択の 時でした。

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しか し、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。ど うしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』」マタイ26:39-42

イエスさまの願いは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」でした。
イエスさまも祈りの中で葛藤しておられるのです。
しかし、祈りの中で父に自分の願い、自分の気持ちをしっかりと伝え、受け止めてもらえたこと、それでもなお、父の御心は十字架にあることを知り、 父の御心に歩む力を父から受けられたのです。そして、これこそが礼拝なのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、 生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何 か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ 12:1.2

神の御心を知り、行うために、自分自身を神に捧げること、これが本当の礼拝です。
神の御心は一体何か、日常で起きる様々な出来事の中、どちらが神の御心なのか、どちらが神と隣人を愛する道なのかを祈り求めること、これが真の礼 拝者であり、礼拝です。

この世と調子を合わせるなとパウロは注意しています。この世とは私たちの中にある自己中心、自分だけの利益、自分だけを楽しませたい古い性質のこ とです。
絶えずこの戦いの中に私たちは置かれています。
イエスが祈られたように、祈り中に父の励ましを受け、自分の我が儘、弱さを受け入れてもらい、御心に歩む力と励ましを頂きましょう。

御心に歩むことは、決して自己否定ではありません。
自己否定どころか、真の自己実現なのです。キリストにある自分を完成させることです。
なぜなら、新生した私たちの本来の姿はキリストに似たものであるからです!

また御心に歩むことは決して禁欲主義ではありません!
真の喜びをもたらし、私たちを幸せにするのです。
自己中心の快楽を満たすことは、結果的には 心も肉体もボロボロにすることが多いのではないでしょうか?
神に背を向け、人間関係も壊し、楽しい時は一瞬で、後は後悔と、惨めさしか残らない。
不安を誤魔化すためアルコール、薬物、正しくない異性関係、ゲーム、その他諸々の中毒は本当の喜びと幸せをもたらすことはありません。

神の御心に歩むことは確かに辛い時があります。
それは古い自分を否定することだから。
しかし御心に歩む時、それは決して宗教的な生き方をすることと同じではありません。
御心に生きるとは神と隣人を愛し、仕えることです。
御心に歩む時、私たちは本当の喜び、失うことのない幸せに生きるのです。

神の御心は何かを求めましょう。御心は聖書の中に記されています。
神と隣人を、自分を愛するように愛することです。
それをどのように行うのか、聖霊に知恵と導きを求めましょう。
一人ひとり置かれている立場、与え られている賜物が違います。
見返りを求めず、隣人に仕え、愛することです。その喜びに気付き、生きることです。

「御心が行われますように」と、自らを主の御心に捧げて、日々歩みましょう。

主の祈りは、神を変え、神に自分の願望を行わせる祈りではありません。
主の祈りは、自分を真の礼拝者へと変え、自らを父に喜ばれる生きた聖なる捧げものとして捧げる祈りなのです。
私たちは主の祈りを祈り続けましょ う。