「あなたは祈りに何を求めるのか?」

聖書箇所:マタイ6章5節から8節


今日は祈りについて、イエスさまのみことばから学びましょう。
祈りを強調する人々がいる一方、祈りに否定的な感情、また失望を抱いている人が少なくないことも知っています。
祈りが分からないと正直に思う人も 少なくないでしょう。

ある牧師も言っています。(ロイド・ジョンズ「山上の説教」下巻p68)
「祈ることを教えていただくのは、私たちにとって確かに最大の必要である。正しく祈ることを知らないために、キリスト者生活における本当の素晴ら しい数々の祝福を、私たちはみすみす失っている。私たちは祈りに関して、あらゆる面から教えてもらう必要がある。どう祈るべきか教えられなけれれ ばならないし、何を祈るべきか教えてもらわなければならない。」

祈れることは、神が与えた恵みの大きな一つ、神の子供の特権です。
聖書には信仰の偉人たちの祈りが、そのまま書き記されています。
そしてイエスさまこそ、最高の祈りの模範であり、また祈りの導き手です。
私たちは、聖書から祈りについて学びたいと思います。
祈りについて理解を深めることは、神の恵みを理解することと同じです。
祈りについて学び、そして聖霊によって祈る時、父からの豊かな報いを受けます。

【求めるのは神の御手か、神の御顔か?】

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そし て、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
マタイによる福音書6章5.6節

祈りに失望する人の多くは、神の御手のみを求めて、神の御顔を求めることを忘れているからではないでしょうか?
神の御手を求めるとは、神の力を求めることです。
その奇跡的な力、超自然を求めることです。
自分の問題に神の介入を求めること、奇跡的な解決を願 うことです。
もちろん、神の御手を求めることは、決して間違いでも、悪いことでもありません。
神からの偉大な解決、助けを求めることは自然なことです。

しかし、神は決して超自然の力だけのお方ではありません!
神はご自身の行動をご自身で決定されます。私たちが神の行動を決めるのではありません。
神は私たちの知性を遙かに上回る方、私たちの見えるところは、ほんの一部であるのに対し、神はこの世界の初めから終わりまでを見通すお方です。

私たちは自分で最高と思える解決を神に祈り求めます。
神はもちろんキリストの血潮で購った神のこどもの叫び声を聞いて下さいます。
そして答えも用意して下さるのです。
しかし、私たちの願った答えと、神の解決が異なることがあるのです。
多くの人は、この点で躓いてしまうのではないでしょうか?
自分の願った答えが最高だと思っている間は、神に失望し、落胆するでしょう。

幼子が昼ご飯にアイスが食べたいと言ったので、アイスを昼ご飯代わりに出す親はいないはずです。
必ず栄養バランスのとれた昼飯を出します。幼子が駄々をこねてもしょうがありません。
でも大きくなれば、自分の願った物が最善ではなく、親が出してくれる物が最善であることを学ぶのです。

祈りに失望し、落胆している人は霊的な幼子状態のまま、成長することを拒否しているのかもしれません。
霊的な成長は時間の経過によってはもたらさ れません。
霊的な成長は、イエスさまが教えておられるように、「自分の奥まった部屋にはいり、隠れた所におられるあなたの父に祈(る)」時にもたらされるのです。
これは何を意味しているのでしょうか、神の御手だけではなく、神の御顔を求めることです。
神の人格を深く求めることの表現です。

私たちの霊は、神の心(人格)に触れる時、初めて成長します。
神が下さった祈りの答えが最善であることは、神と深い人格的な交わりの中で初めて理解することが出来るのです。
それは時間が掛かることかもしれませんが。

偽善なパリサイ人は、人からの賞賛が得られないなら祈りを止めたでしょう。
偽善者にとって祈ることは、自分の欲望を満たすことでしかないからです。
私たちも祈ることが、ただ単に困った状況に対する答えだけが欲しく、神の心を求めていないなら、同じように祈りと神に失望することになるでしょう。

しかし、祈りの世界は深く、恵みの世界です。
天の父は、私たちが求める答え以上のものを用意して下さっているのです。
天の父が私たちに備えて下さっている最善の答えを、私たちはしっかり受け取りましょう。

祈りは、神の御手のみを求めることでなく、神の御顔を深く求めることだと覚えましょう。

※この聖書箇所は、祈りの本質は天の父との深い人格的な交わりにあることを教えておられる箇所であり、単純に人前で祈ることを戒めているのではあ りません。
イエスさまも弟子たちの前で祈り、群衆の前でも祈られました。しかしイエスさまはどんなときにも、父との深い交わりを見失われたことは ありませんでした。

【隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。】

「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6章6節

私たちが神との人格的な交わりを求め、神の御心を求めて自分の奥まった部屋にはいり、隠れた所におられるあなたの父に祈る時、神は確かに私たちの祈りに聞いて下さいます。
そして、報いて下さるのです。

私たちの心は、そして心の奥深い部分である霊の部分は神と人格的な交流を持つために造られています。
私たちは神の似姿として神に創造されたのです。
キリストにある救いを受け入れる前は、この霊の部分は眠っている、またはハッキリと死んでいるとパウロは教えています。(エペソ2:1)
しかし、イエス・キリストを救い主として心にお招きすることにより、再び霊は生き始めたのです。
神のことばを理解し感動する。見えない神に愛と平 安を覚える。
神に従いたいと強い意志が生まれるようになる。これこそ天の父からの報いです。

私たちの内にある霊が成長し、神に似たものに変えられることこそ、神が私たちに与えて下さる報いなのです。
私たちの霊は祈りと神のことばによって 豊かに養われ、成長するのです。
霊的な成長、それこそが祈りをとおして父が与えて下さる報いです。

【神を変えるのか?自分が変えられるのか?】

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼 らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」マタイ 6:7.8

祈りは神を動かし、神を変えるために祈るのでしょうか?
それとも祈りは自分が変えられ、御心のために生きる者になるためのものでしょうか?

イエスさまが異邦人の祈りと呼ばれる祈りは、努力で神を変えようとする試みです。
ことば数が多ければ聞かれると仮定して、とにかく長く、激しく祈る。
エリヤがバアルの預言者とカルメル山で対決した時、バアルの預言者は朝から真昼まで激しくバアルを呼びました。
しかし偶像の神は答えるはずがあり ません。
するとバアルの預言者たちは祭壇の回りを踊り始め、踊りながらバアルを呼びました。
しかしそれでも答えがないと、今度は槍や剣で自分の体 を傷つけ、血を流しながらバアルを呼び求めたと書いてあります。
(列王記第一18章)
バアルの預言者は、難行・苦行すれば神は聞いてくれる、神のために何かをすれば祈りに答えて下さると、まるで自分の行いによって神から祈りの答えを引き出せるかのように祈りました。

私たちの中にも、自分の行いによって神から祈りの答えを引き出そうとしている人はいませんか?
神は決して私たちの難行や苦行、また良い行いの報い として祈りを聞かれることはありません。
それは神と取引をすることであり、神はそのような取引に応じる方ではありません。

神は私たちを愛する無条件の愛によって、私たちの祈りに答えられるのです!
私たちに御子イエスをお与えになるほど愛された愛によって、祈りに答えて下さるのです。
神は、御子イエスの血潮で購った大切な神の子供たちの祈りを必ず聞かれます!

何かをしないと神は聞いて下さらない、何かを捧げないと神は聞いて下さらないような間違った神への思いを捨て去りましょう。

また自分の願望、自分の欲望を第一にして、何とか神にその願いを叶えさせようと努力することも止めましょう。
その願いが私たちにとって最善である なら、神は必ず答えて下さいます。
しかし、そうでないなら、何をしても神はその願い叶えることはありません。

神は祈る前から私たちの願いを知っておられ、それを用意して下さっている。
父なる神は私たちに必要なものを全て備え、神の時にそれを私たちに与えて下さるのです。
このことを確信して、平安を得ること、神に強く信頼するこ とこそ祈りの目的です。

祈りは神を変えることではなく、私たちの不信仰を取り除くこと、神の人格、神のみことば、神の約束を思い起こさせ、平安と神への信頼に満たされる ことが私たちの祈りです。

※この聖書箇所も、決して長い祈り、繰り返しの祈りを戒めているのではありません。
イエスさまが戒めているのは、人間的な努力によって神を動かそう、神を操作しようとする自己中心、欲望中心の祈りを戒めているのです。

イエスさまも長い祈りをされました。
ゲッセマネの園では三度も同じ祈りをされました。
パウロも癒しを求めて三度も祈りました。私たちは心の中の辛い気持ち、苦しい気持ちを神に注ぎ出す時、長い祈りになり、繰り返し祈る時もありま す。
それは良いことです。
神は心の重荷を引き受けて下さり、私たちの心は解放されるのです。