「善行の動機」
マタイ6章1節から18節


「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」マタイ6 章1節

今週もイエスさまの山上の説教から、みことばを分かち合いたいと思います。
5章の後半部分では当時の宗教的指導者であった律法学者・パリサイ人の聖書解釈と、イエスさまの解釈の違いを見てきました。律法学者・パリサイ人 の解釈が表面的であり、人間の都合に合わせた解釈であるのに対し、イエスさまの解釈はみことばの本質を解き明かし、無条件の愛を示すものでした。
それは神の国に生きる者が、どのように聖書を理解すべきかを示すためでした。

6章の1節から18節でイエスさまは、当時のユダヤ人が宗教生活の中心と考えていた三つの行為について取り上げています。
当時のユダヤ人が宗教生活の中心と考えていたのは、施し、祈り、断食でした。
イエスさまもこの三つを善行と呼び、この行為自体を良いものだと認めておられます。

ここでイエスさまが私たちに教えたいことは、善行をする時の動機についてです。
動機が間違っていると、天の父から報いが受けられないと教えておられるのです。

しかし注目したいのは、イエスさまはパリサイ人の善行が偽善だからと言って、善行そのものは否定されていないことです。偽善な善行はやめろ!と教 えているのではありません。イエスさまは善行を奨励しています。
そして正しい動機で善行をしなさい。そうしたら父から報いを受けると教えているのです。

このことから、信仰の具体的な実践としての善行について、熱心に取り組むことをお勧めしたいのです。

これは救われるための善行ではありません。救いは信仰によるからです!
これは罪が赦されるための善行でもありません。罪の赦しも神の恵みによるからです!
さらに神から愛されるためにするのでもありません。神の愛は完全で、無条件だから。

善行は自分の利益のためにするものではありません。
しかし善行ほど、私たちの愛を成長させるものはありません。

「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱 い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、 私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」使徒の働き20章34.35節
「受けるよりも与えるほうが幸い」、私たちはこの幸いを知る者でありたいと願います。

【だから施しをする時は・・・】

「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まこと に、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られな いようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
マタイ6章2から4節

パリサイ人が施しをする動機は、人から誉められることにありました。
人がたくさん集まるところで、ラッパまで吹いて(本当に吹いたかどうかは分かりません)、人に自分の施しを見せたのです。

人から誉められるために施しをしていたと言うことは、見ている人が少なかったら、本当に困っている人がいても助けなかったかもしれません。
イエスさまはこのようなパリサイ人を偽善者と呼ばれました。偽善者とは俳優と同じ言葉が使われています。施しという善行さえ、パリサイ人には賞賛 を得るための演技なのです。
だから俳優は人からの賞賛を得ることで終わりなのです。それ以上はありません。
だから施しをする動機は、人からの賞賛を得ることであってはならないのです。

イエスさまは「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためで す。(3.4節)」と言われました。

ここに、私たちが善行をする動機が示されていると思います。
「右手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」と言うのは、自分でしていることも意識しないほど、自然に、ありのまま、そうせずには いられない行為でありなさいという意味と解釈します。

人にどのように思われるか、どのくらい誉められるかなどを全く意識せずに、自然で、ありのままであるべきだと、イエスさまは教えておられるのだと 思います。
(※この箇所は、ただ善行を隠して行えという意味ではないと思います。自然で、見返りを求めない施しならば、人目に触れようが触れまいが問題では ないのです。)

私たちの施しは自然で、見返りを求めず、ひたすら相手の益を求めてされるものです。
このような施しは、キリストから受けた愛と恵みから生まれると確信します。

イエスさまがパリサイ人シモンの家で食事をしておられた時、その町で罪深いと思われていた女性がやって来て、イエスさまの足を涙でぬらし、自分の 髪で拭い、香油を塗りました。足を洗うとは、家に招いた客をもてなす行為です。自分の涙と髪で相手の足を拭ったのですから、それは深い尊敬と愛の 表現でした。
その女性に対してイエスさまは言われました。

「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」ルカによ る福音書7章47節

この女性のイエスさまに対する愛と感謝の思いは決して演技ではありません。
そうせざるを得なかったのです!それは罪赦されたことの確信から生まれた行動でした。
赦された者は、人を赦すようになる!
愛された者は、人を愛するようになる! これが私たちが愛に生きる動機です。

天の父の愛と赦しに対する自覚こそ、私たちに演技ではない善行を行わせ、また隣人に対する無関心や、さめた愛から積極的な愛と関心へと動かす原動 力になるのです。

あなたは天の父なる神に愛されています!赦されています!ありのままで受け入れられています!天の父の恵みを確かに覚えましょう。
父の愛と恵みを覚え、心から主を日々礼拝しましょう。
父の愛と赦しに満たされる時、私たちは右手が左手のしていることを意識しないように、自然にイエスの愛に生きる者に変えられると確信します。

私たちはそれぞれに置かれている場所、与えられている賜物は違います。
ある人は、お金や物質的な物で困っている人を援助出来るでしょう。
ある人は、困っている人の心を励まし、慰めることが出来るでしょう。
愛を比較することは出来ません!私たちはそれぞれにキリストから受けた愛を表現する方法があるのだと思います。

私たちがキリストの愛を表して生きるために、先ず日々、イエスによって表された天の父の愛と赦しを覚えて礼拝しましょう。

「受けるよりも与えるほうが幸い」です。私たちが父の愛と赦しの恵みに満たされて、愛と赦しに生きる時、私たちは本当の幸福を得ます。これこそ父 が与えて下さる報いです。