「復讐心の放棄」
マタイによる福音書5章38節から42節


【目には目を、歯には歯を】

「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」マタイ5章38.39節

「情けは人の為ならず」という格言があります。どういう意味でしょう?
私は「人に情けを掛けると、却ってその人の為にならない」と理解していました。
つまり、人に情けを掛けてはいけないと教えていると思っていました。

ところが、本来の意味は「人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のためになるから、情けをかけなさい」という、全く反対の意味だったので す。
60代以上の人は、正しい意味で理解しているそうですが、若年層になるほど「人に情けを掛けるのは良くない」の意味で理解しているそうです。
言葉というのは、時を経るごとに本来の意味が失われ、新しい意味が付け加えられていくようです。そして時には、全く反対の意味で用いられるように なることもあるのです。

「目には目、歯には歯」も同じです。
本来の意味が失われ、全く反対の意味に用いられるようになりました。

みなさんは「目には目、歯には歯」をどう理解していますか。
私はこの言葉も「やられたら、やり返せ!」と、復讐を肯定していると理解していました。しかし、本来の意味は全く反対でした。
「目を打たれたら、復讐は目だけに止めておけ、歯を打たれたら、仕返しは歯に止めておけ、それ以上の復讐を認めてはいけない」という意味で、復讐 を最小限度に止めるための戒めでした。

なぜこのような戒めが聖書に書かれているのでしょう?
それは、私たちの内にある復讐心には限度がないことを、神さまはご存じだからです。

旧約聖書には世界が一度、洪水によって滅ぼされたことが記されています。
以前の世界は、なぜ滅ぼされてしまったのでしょう?
私は、この復讐心に原因があると確信しています。

「レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとり の人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍』」創世記4章23.24節

イエスさまは七度を七十倍するまで赦しなさいと言われましたが、カインの子孫は、復讐を七倍、七十七倍と増やし、世界を憎しみと復讐心で満たして いったのです。
神は世界が憎しみと復讐心で自滅する前に、人類を救う為にノアとその家族を選び、洪水で世界を滅ぼしました。もし神が地上を裁かなかったら、自分 たちの罪で人類は絶滅してしまったからです。

多くの人は、ノアの洪水をおとぎ話、神話だと考えます。
しかし、私はこの話の中に人間の罪深い本質を見いだし、神からの警告を聞くのです。
復讐心は私たちの罪の性質に根ざし、復讐心は憎しみと怒りを増大させ、最後は自分も相手もともに滅ぼしてしまうのです。

今日でも復讐心は大きな問題です。世界各地で起きている紛争、人種や民族問題の原因は復讐心です。イスラエルとパレスチナの問題がなかなか解決し ないのも、双方の復讐心にあるといえます。パレスチナはイスラエルを憎み、テロを止めない。それに対してイスラエルは報復する。イスラエルの軍事 報復により、一般人に犠牲者が出る。その遺族が復讐の為にテロリストに加わり、テロ活動をする。この復讐の連鎖です。

復讐の連鎖を断ち切る為に、神は「目には目、歯には歯」と復讐心に限度をもうけられた。しかし、私たちの内にある根強い復讐心が、本来の意味を忘 れさせ、この復讐に限度を設けるみことばをも「やられたら、やり返せ!」と復讐を肯定する意味に変えてしまう。

【悪い者に手向かってはいけません】

イエスさまは「目には目、歯には歯」の正しい解釈をここで示されています。
「悪い者に手向かってはいけません」と。そして、そのあとに適用が続きます。
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と。
これは「悪い者に手向かってはいけません」を生活に適用、行う為にイエスが提示された例です。しかしあまりにも難しい適用なので、私たちは驚きと ともに絶望を覚えるのです。

私たちクリスチャンでさえ、このみことばは高い理想であって、実現は不可能だと考える人も少なくないでしょう。またその反対に悪い人の言いなりに なる極端に走る人もいます。

日本で本当にあった話ですが、暴走族や不良少年少女に伝道していた自称伝道師のクリスチャンが、彼らから暴行を受けても全く逆らわなかった為、結 局は暴行されて殺されてしまった事件がありました。これは残念ながらイエスさまの言われた言葉を理解していなかった残念な例と言えるのです。

高い理想だと片づけるのも極端、理不尽な暴行に対して言いなりになるのも、また極端な解釈から生まれた適用と言えるでしょう。

「悪い者に手向かってはいけません」とは、悪者がするのと同じように報復してはならないと言うことです。悪意を持って暴力を振るう者に、同じよう に憎しみと怒りをもって暴力で応戦してはならないと言うことです。決して悪い者の言いなりになりなさいと言っているのではありません。

イエスさまは十字架に付けられる前の違法な裁判の席で顔を叩かれた時、抗議されました。
(ヨハネ福音書18章22節から23節)
イエスさまは抗議されましたが、もちろん自分を叩いた者に、殴り返しはしませんでした。
「悪い者に手向かうな」とは、「目には目、歯には歯」の積極的な解釈であり、復讐の放棄です。悪を見過ごすとか、犯罪行為を甘んじて受けるような 極端な解釈をしないで下さい。

そしてイエスさまの適用を見ると、悪に対して愛で報いなさいと教えています。
悪に打ち勝つには、悪意と暴力ではないのです!
悪に打ち勝つには、人々の罪に打ち勝つには、積極的な愛しかないと主は言われるのです。

これこそが、主が私たちに伝えたいことなのです。
悪に勝つには、復讐心を捨て、積極的に相手を愛することしかないのです!

【復讐心を十字架に付け、愛する力を主から受けよう!】

私たちは自分の内にある復讐心に、また怒りに気付きましょう。
復讐心は放っておいてもなくなる物ではありません。
復讐心、相手への憎しみは、表現されることなしになくなることはありません。
復讐心は相手を滅ぼし、また復讐心を抱える者の心も滅ぼしてしまいます。
復讐心、憎しみ、赦せない心は、心の中に毒を流し続けます。その毒は心を滅ぼします。

復讐心を捨てることは、決して相手の悪を見過ごすことでも、悪人の言いなりになることでもありません。あなたが滅びない為、あなたが悪とともに滅 びない為なのです。

復讐心は決して問題を解決しません。問題をさらに拡大し、複雑にします。
パウロは教えています。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたし が報いをする、と主は言われる。」ローマ12章19節

誰かに憎しみ、怒り、復讐心を抱いているなら、その思いをイエスさまに告白しましょう。キリストの十字架だけが罪を滅ぼします。主の十字架に復讐 を放棄する決心をしましょう。そしてイエスの復活の命に満たされることを願い、積極的な愛に生きる力を受けましょう。

【イスラエルはローマに対する復讐心で国を追われた】

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
この適用は当時のユダヤ人に向けて教えられた適用です。
私たちは誰かと喧嘩した場合、普通は右手で相手の左の頬を叩くことになります。
「右の頬を打つような者」とは、ローマ兵の見せしめの為の往復ビンタを指しています。
彼らは反抗的な者を辱める為に、先ず右手の甲で相手の右の頬を叩いてから、手のひらで相手の左の頬を叩く往復ビンタをしたそうです。
つまりローマ兵に逆らうな、暴力に対して暴力で問題を解決するなと教えているのです。

5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
ローマ兵は占領地において民間人に労働を命じることが出来ました。
一ミリオン、約1.5キロメートルまでは民間人に重荷などを運ばせることが出来たのです。ローマ兵に協力することはユダヤ人にとっては屈辱的なこ とでした。
それに対しイエスさまは、もう一ミリオン自発的に手伝ってあげなさいと言われたのです。

悪意に対して愛で勝つこと。決してローマに対して武力で立ち向かってはならないことをイエスさまは教えられました。

しかしユダヤ人達はイエスさまの教えから悟るところがなく、みことばを拒絶しました。
ローマに対する憎しみを募らせ、結果的には戦争に発展し、エルサレムと神殿は滅ぼされ、ユダヤ人はパレスチナの地から追放されることになったので す。

しかし初代教会のクリスチャン達は、イエスさまの言葉を守りました。
ローマのネロ帝から始まる迫害に対しても、決して暴力をもって抵抗しませんでした。
敵を愛し、迫害する者のために祈ることによって、遂にローマはキリストの前に膝を屈めることになったのです!国を挙げての戦争でも勝利出来なかっ た大帝国に対し、クリスチャンは愛で勝利したのです。

これを決して昔話として片づけないで下さい。
私たちの内にある罪の性質は、憎しみと復讐に生きるように、絶えず私たちを誘惑しているからです。隣人の悪意に対して復讐するのでなく、また、ただ耐え、我慢してストレスを抱え込むのでもなく、積極的な愛、創造的な愛に生きましょう。

私たちは敵を愛し、迫害する者の為に祈ることが出来るのです!
なぜなら、私たちはその愛を知っているからです。

私たちが先ず神を愛したのではなく、天の父が私たちを選び、愛して下さいました。
ここに愛があるのです。これが神の愛です。
私たちが神を知らず、神に敵対していた時に、神はご自分の子供にしようと私たちをキリストにあって選ばれたのです。そして最善の時に、私たちをキ リストのもとに招き、恵みによって罪を赦し、救って下さったのです。

神が私たちの悪に従って私たちを裁き、私たちに復讐する神であったら、私たちはキリストにある救いを得ることは出来ませんでした。キリストにある 救いの喜びを知らなかったでしょう。しかし、神が裁きではなく、愛して下さったから、私たちは救われたのです。

神の愛が私たちを救いました。私たちはこの愛を知っているのです!
人も自分もともに滅ぼす憎しみ、復讐心、怒りを十字架に放棄しましょう。
死に打ち勝ったイエスの復活の命を聖霊によって満たして頂き、悪に対しても愛をもって応答していきましょう。

私たちは一人で、そのことをするのではありません!
神の命が私たちに注がれています。聖霊が私たちとともにいて助けて下さるのです。