「イエスさまの聖書解釈」

マタイ福音書5章20から32節


【パリサイ人とイエスさまの聖書解釈】

聖書をどのように読み、解釈するのか、とても大切なことです。
聖書そのものは変わることはありませんが、解釈の違いからカトリック教会、プロテスタント教会、様々な教派、また異端やカルトと呼ばれる宗教団体 も生まれてしまうのです。

聖書を読み、聖書から影響を受けてガンジーは非暴力による抵抗運動を始めました。
同じ聖書を用いながら、戦争を肯定し、人種差別を肯定する自称クリスチャンもいます。

聖書をどのように読むのか、どのように解釈するのかがどんなに大切であるのか理解して頂けると思います。これは私たちの人生にも大きな影響、大き な違いを与えます。

正しい聖書解釈の方法や原則はあるのでしょうか? もちろん、あります!
聖書解釈の原理、原則については良書が多く出版されていますので、ぜひ学んで下さい。先週の日曜日、中川健一師の成長セミナーをDVD学びました が、とても分かりやすく教えられていましたので、ぜひ参考にして下さい。(別紙にポイントを要約しておきます)

今日の聖書箇所から、イエスさまはどのように聖書を解釈し、どのように適用されたのかを学びたいと思います。律法学者やパリサイ人の聖書解釈と、 どれほど違っていたのか、その違いをもたらしたものは何かについて考えてみましょう。

【人を殺してはならない】

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わた しはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者 は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」マタイ5章21.22節

「人を殺してはならない」、これは十戒のうちの一つです。当時のユダヤ人は皆知っている戒めでした。当時のユダヤ人もパリサイ人も、この戒めをそ のまま受け入れていました。
確かに、私たちが読んでも、解釈の必要がないぐらいに、そのまま理解出来ることばです。

「殺してはならない」、「確かにそうだ!殺人は大罪だ。」と当時のユダヤ人もパリサイ人も、また私たちもそのように読むことでしょう。そして「自 分は人殺しをしたことがない、だから大丈夫だ。この戒めを破っていない」と思うのです。

それに対してイエスさまの解釈は深いものでした。
人に対して「腹を立てる者」、これも殺人者と同じように裁判に掛けられる。
つまり「腹をたてる」ことは「殺人」と同じぐらいに、重い罪であると解釈しているのです。「能なし」、「ばか者」と言う者も、殺人を犯しているの だとイエスさまは解釈しています。

律法学者・パリサイ人、また私たちも「殺人」を肉体の命を滅ぼす罪としか考えないのに対して、イエスさまは相手の人格を憎むこと、精神的に傷つけ ること、否定することも立派な殺人なのだと解釈しているのです。

そして、イエスさまは「殺してはならない」の生活への具体的な適用を教えています。

「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いた ままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼 といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。」
マタイ5章23-25

「殺してはならない」の具体的な適用は、もし人間関係に問題があるなら、直ぐに和解すること、関係を修復することなのです。人間関係を壊れたまま にするなら、悪くなる一方であり、窮地に追い込まれると注意しておられるのです。

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして」とあるように、天の父も人間関係の回復を喜び、願っていることをイエスさまは教えています。

パリサイ人の解釈は表面的であり、具体的な適用にまで至らないものでありました。
一方イエスさまの解釈は深く、核心を突く解釈であり、適用も具体的なものです。
適用が具体的であることは、その人がどれほど真剣に教えを守ろうとしているのかが現れる部分です。具体的な適用が導き出されて初めて、みことばを 理解したと言えるのです。
(※全てのみことばが、生活に適用出来るとは限りません)

パリサイ人の適用は、「人を殺したら、裁判を受けなければならない」でけでした。
自分は殺人なんか犯さない、この戒めは自分と関係ないと思っていたのでしょう。

【姦淫してはならない】

「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」マタイ福音書5章27.28 節

イエスさまは姦淫についても、この戒めの核心を解き明かされています。
パリサイ人は姦淫に関しても、表面的にしか理解していなかったようです。
しかしイエスさまは情欲を抱いて女(異性)を見るなら、姦淫であると教えられました。
情欲を抱いて女を見るとは、性的に利用することしか考えないで異性を見ることと言えるでしょう。聖書は決して性欲を否定していません。イエスさま は禁欲主義を肯定しているのではないのです。情欲とは相手の人格を無視して、自らの性的欲望を満たしたいだけの思いです。また結婚関係によらない 性的関係を姦淫、または不品行と聖書は呼んでいます。

美しい異性を見て、素敵だと思うことは情欲ではありません。
しかし、自分の性的欲望を満たすために異性を眺めること、また性的な行為に至らなくても接触をもつことは、もう姦淫の罪を犯しているとイエスさま は解釈しているのです。

そして適用が続きます。

「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるより は、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよ りは、よいからです。」マタイ5章29.30節

これを文字通りに適用した人はいません。主もそのようには思われなかったでしょう。
しかし、これは適切な助言であり、この真意をくみ取って適用することは大切です。
特に男性は目から性的な刺激を受けやすいのです。ですから性的な刺激を与えるものを徹底的に遠ざけることが賢明です。

ゲヘナに落ちるよりは良いとイエスさまが仰っているのは、永遠の地獄ではなく、姦淫の罪がもたらす精神的な苦痛を適切に表現しているのだと私は思 います。
それほど姦淫、不品行が心と霊に及ぼす悪影響は深刻です。
不倫による殺人事件は少なくありません。不倫による家庭崩壊も少なくありません。
またセクハラや10代の女性と援助交際によって、一瞬のうちに家庭も仕事も失ってしまう男性が少なくないのです!これはまさにこの世のゲヘナ(火の池)です。

律法学者やパリサイ人は「姦淫するな」とだけ教えて、それ以上にこの戒めの真意を求めなかったようです。また適用についても真剣に考えなかったよ うです。
彼らは、戒めは表面的に守られていれば、それでよいと考えていたのです。

そればかりか、律法学者やパリサイ人は一夫多妻を認め、気に入らない妻に離婚状をだして離婚して良いと教えていました。イエスさまは、このような 離婚は合法ではなく、姦淫であると言われたのです。


テロリストのビン・ラディンには22人も妻がいました。イスラムの教えでは一夫多妻を認めていますが、それでも4人までです。彼は気に入った女性 がいると、以前の妻を次々に離婚して、新しい女性を妻としました。彼は姦淫の罪を犯していないと考えていたでしょうが、これは明らかに姦淫です。 当時の律法学者、パリサイ人はビン・ラディンと同じように自分に都合の良い聖書解釈をしていたのです。

【なぜイエスさまの聖書解釈とパリサイ人の聖書解釈は違うのか?】

「殺すな」、「姦淫するな」は十戒の大切な二つの戒めです。
イエスさまは、この大切な二つの戒めの核心を突く解釈と、具体的な適用を人々に教えられました。律法学者、パリサイ人の表面的で、自分に都合の良 い解釈とは大違いでした。
何が解釈の違いをもたらしたのでしょう?

パリサイ人にとって聖書の戒めは、自分がそれを守っているかどうかが大切でした。
神の前に戒めを守る義人であることが重要なのです。
パリサイ人は自分の正しさによって、神を動かせると勘違いしていたようです。
神の律法を忠実に守ることによって、イスラエルの繁栄を回復してもらえる。
神の律法を守ることによって、メシアが与えられ、ローマの支配から解放されると。
神がイスラエルを救い、異邦人を裁く時、神はパリサイ人の努力を認めて、特別な祝福と特権を与えて下さると、勝手な期待を持っていたようです。

パリサイ人は自分の願いを神に叶えてもらいたいために、まるで取引でもするように、戒めを守っていたに過ぎないのです。
親の前で良い子になって、お小遣いをねだる子供と変わりないのです。
願望を叶えるための手段として、いくら聖書を読んでも、本当の意味は見えてきません。

イエスさまの聖書解釈が正しく、適用も適切なのは、天の父が何を願われているのか?
父なる神の御心を求めて聖書を読み、解釈されたからなのです。

【イエスさまのように、父のみこころを求めて聖書を読みましょう】

自分の願望を叶えるために聖書を読むと、都合の良いように聖書を解釈します。
自分の願望、思いこみが聖書の中に読み込まれてしまうのです。
しかし、天の父なる神の御心は何か?父なる神が願っておられることを求めて聖書を読むならば、聖霊が私たちをみことばの核心にまで導いて下さるの です。

イエスさまは聖書を読まれる時、みことばを黙想する時、父なる神との親しい交わりの時を持たれていたのだと思います。聖書の中に書かれている厳し いことば、厳しい表現の中にも、父なる神の愛が隠されていることを見つけては、父の愛に包まれたのだと思います。

殺してはならないとモーセを通して命じられた時、天の父がどれほど人間の霊も
魂も傷つき、滅びないことを願われていたのか?天の父がどれほど人間 の幸福
を願って戒めを与えられたのか?

聖書は神のことばです。ことばは人格の表れであり、霊と心の表現です。
聖書は神の心から発しているので、私たちを生かすいのちのことばなのです。
神の心を見落として、正しく聖書を読むことも、聖書から導きを受けることも出来ません。

私たちはイエスさまのように、聖書を神のことばとして、天の父の愛と義が表されていることばとして読みましょう。神のことばは全て聖霊の導きに よって記されました。
聖書を通して、私たちは天の父の愛に触れ、父の御心を知るのです。

イエスさまのように、天の父を愛し敬い、父のことばとして聖書を読むならば、聖霊が私たちを正しい聖書の理解、解釈、また具体的な適用へと導いて 下さいます。
イエスさまの聖書解釈の態度を見習って、私たちも聖書を学びましょう。

律法学者・パリサイ人のように、神の助けなしに、自分の行いで自分を正しくしようとしているなら、神の厳しさしか見えず、神の御心がさらに見えな くなるかもしれません。
しかし、イエス・キリストによって罪が完全に赦され、天の父の一方的な恵みによって、すでに義と認められている、神の子とされていることを確信 し、父の御心を求めて聖書を読むならば、厳しいと思えるみことばの中にも、輝く父の愛を見いだすのです。