「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」
マタイによる福音書5章1節から3節

「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』」マタイによる福音書5章 1節から3節

今週から数回に分けて、イエスさまの山上の説教を分かち合いたいと思います。
イエスさまは公に救い主としての活動を始めてから、十字架に付けられるまでの約三年を、御国の福音を伝え、弟子を育てることに用いました。

山上の説教は、イエスさまの天の御国の教えを、マタイがまとめたものだと考えられます。
マタイ5章から7章までの説教は、天の御国(神の国)が主題です。

5章3節から10節まで、八つの幸いについてイエスさまが教えています。
これは単なる幸福論ではありません。幸福になる方法を教えているのでもありません。
天の御国に生きる者の幸せ、天の御国を第一とする者の幸せをを教えているのです。

天の御国(神の国)の主題を見失うなら、山上の説教は内容は美しいが、私たちの実生活とはかけ離れた、理想のお話になってしまうのです。

天の御国に生かされる特権、すなわち恵みによって神の子にされた者でなければ、この幸いは分からないのです。神の子でなければ、イエスの教えを守 ることは出来ないのです。

多くの人が救いを求めて聖書を読みます。山上の説教はマタイの最初の部分です。
多くの人が「右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」のことばで躓きます。
「とても出来ない!」と思うからです。
もっと難しいことばが続きます。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と。

「ダメだ、自分にはとても出来ない!」せっかく聖書を買ったのに読むのを止めてしまいます。とても残念なことです。しかし、中にはそれでも諦めず に教会に来る人もいます。
そして牧師のメッセージを聞く度に深く挫折するのです。「ダメだ!出来ない」と。
何か打ちひしがれるために教会に行くようなものですね。これは大きな勘違いです!

大きな勘違いです!

イエスは一言も、「右の頬を打たれたら、左の頬も向けろ、そうしたら救ってあげよう」とは教えていないのです。勝手に救いの条件のように読み込む のは間違いなのです。
「敵を愛せるようになったら、救ってあげよう」とも言ってません!
勝手に、救いの条件のように読む込んでしまうから、聖書は難解の書物になるのです。

どんなに頑張っても、人間の性質を考えるなら、敵を愛することは出来ません!
それを、自分には「出来る」と思う人は、天の御国から最も遠い人なのです。
天の御国から最も遠い人が聖書に登場します。パリサイ人と呼ばれる人たちです。
自分たちは神から与えられた戒めを全部、守っていると自慢している人たちです。
当時のユダヤ人からも、最も神に近い者と思われ、自分たちもそのように思っていました。
ところがイエスさまはハッキリと言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、は いれません。」
マタイ福音書5章20節

律法学者やパリサイ人は決して天の御国に入れないとイエスは言われたのです。
また、彼らと同じことをやっても、決して天の御国には入れないと教えているのです。
律法学者やパリサイ人の方法とは何でしょうか?
自分の力、頑張りで良い人になろう、完璧な人になろうとすることです。

イエスさまはパリサイ人を偽善者と呼ばれました。
偽善者はギリシャ語で「俳優」と同じことばが用いられています。
私たちがもし、頑張って敵を愛したとしても、それは演技にしかならないのです。
なぜなら本心から愛せないからです。本心から出ないのなら、それは愛ではありません。

それでは、いったい、だれが天の御国に入れるのでしょうか?
ある時イエスさまは弟子達の真ん中に幼子を連れてきて言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子 どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」マタイによる福音書18章3.4節

幼子のようにならなければ、天の御国には入れないとイエスさまは教えられました。
天の御国では、幼子が一番偉いのです。(つまり、模範なのです)幼子の特徴とは何でしょうか?

私が思うのに、幼子の特徴とは、出来ることは「出来る」、出来ないことは「お父さん、お母さん助けて」と素直に言えるのが幼子の特徴だと思うのです。

イエスさまは、このような話もされています。

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上っ た。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆす る者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十 分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の 私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を 高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカによる福音書18章9節から14節

イエスさまはパリサイ人に勝る義でなければ、天の御国には入れないと言われました。
この収税人のように「自分には出来ません!憐れんでください、助けてください」と素直に祈る者が義とされるのです。

なぜ「出来ません!助けてください」と祈る者、「憐れんでください!」と祈る者が義と認められるのでしょう。

天の父なる神様が求めておられるのは、私たち一人ひとりとの正しい関係です。
心と心の通い合う、親子関係を求めておられるのです。
天の父は罪によって失われた、親子関係をもう一度私たちとやり直したいのです。

罪とは「神さま、あなたに頼らなくても、もっと賢くなり、もっと良い人になれる方法を蛇に教えてもらいました。それではさようなら!」と神に背を 向けたのが始まりです。

本来は、天の父が手を取り、足を取り、一歩一歩アダムとともに歩むことを通して、アダムにご自身を現したかったのです。交わりを通して神に似た者 になって欲しかったのです。
私たちは、私たちの強さを通しては、神さまと交わることは出来ないのです。
私たちの弱さを通して、初めて、神に甘えることが出来る、神に依存することが出来るのです。そして初めて、神を信頼することが出来るのです。
パウロは、神の力は私たちの弱さのうちに完全に現れると言っています。(Uコリ12:9)

「私には出来ません!憐れんでください!」と天の父に、イエスに祈ることです。
祈り続けるうちに、心が軽くなるのです。天の父が聞いて下さっているからです。
祈りを通して、自分の弱さ、出来ないこと、ダメな部分、不安、罪を聞いてもらうと、心が軽くなります。天の父が受け入れて下さったのです。
天の父なる神さまとの心と心の交流、これが義です!
私たちの弱さ、罪、心配、恐れはイエスに流れ、十字架に付けられ滅ぼされます。
そしてイエスの復活の命は静かに私たちの心に流れ、心に神の愛が現されるのです。

「イエスさま、私には出来ません、助けて下さい!罪人の私を憐れんでください!」
天の父は幼子のように謙る者の祈りを聞いて下さり、義と認めて下さるのです。

だからイエスさまは、天の御国で幸せな人は「心の貧しい人」と教えているのです!
神の前に誇るものが何一つもない人、素直に「助けて下さい」と天の父に祈れる人が幸いなのです。天の御国はその人のものです!