「自然災害は決して天罰ではない!」
ルカによる福音書13章1節から9節
牧師 小林智彦

3月11日の巨大地震によって、大勢の人が亡くなり、甚大な被害を受けました。
被災された多くの人が、今も避難所で不自由な暮らしをしています。
被災された方の一日も早い復興を祈るとともに、私たちが出来る援助をさせて頂きましょう。

私たち信仰者は、自然災害や不幸な事故を一体どのように信仰的に捉えたら良いのでしょうか。
全知全能にして愛の神なら、なぜ自然災害や不幸な事故が起きるのを許されるのか?
自然災害や不幸な事故は、罪や不信仰への罰なのか?
あまりに被害が大きく、悲惨な状況を目にするとき、私たちの信仰は揺れ動きそうです。

私たちは主イエスが災難、また事故について教えておられる箇所から神の御心を知りましょう。みことばを正しく理解し、このような状況の中でも信仰 を養って頂きましょう。

【災害・事故は神様の罰では決してない!】

「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたという のである。イエスは彼らに答えて言われた。『そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと でも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が 倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言 います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』」
ルカ福音書13章1節から5節

ガリラヤ人が祭りの時に被った災難と、シロアムの塔が倒れ十八人が犠牲になった事故、いずれも詳細に関しては分かりません。
しかしイエス様のことばから、その災難、事故に対して人々が抱いた思いは良く分かります。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。(2節)」

イエス様は同じ語り方でシロアムの事故についても述べておられます。
これらは当時の人々が抱いていた災難や事故についての考えを、代表していると考えられます。
つまり災難や事故は罪への罰であり。災難や事故に遭う者は信仰が薄く罪深いと。
災難や事故に遭わず、不幸に遭わない者は神に愛されており、罪がないと考えていたのです。

残念なことに、自然災害や不幸を神の罰や呪いと受け止めてしまう信仰者は少なくありません。
また牧師や伝道者と呼ばれる人たちの中にも、災害を神からの刑罰だと言う人もいます。

しかしイエスさまはハッキリと「そうではない(3.5節)」と二度も否定しています!

イエスさまはハッキリと、災害や不幸は神の罰や呪いではないと否定されているのです。
信仰のある人は不幸や災害から免れ、信仰のない人や罪深い人が災害にあったり不幸になるという考えを完全に否定されました。

イエスさまは別の箇所で天の父についてこのように教えられました。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人 にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさ い。」マタイ福音書5章44.45.48節

天の父は完全な愛の神です!自分に敵対する者をも変わらぬ愛を持って愛する神です。
天の父は私たちのあら探しをし、間違いがあったら不幸や災害で懲らしめるような、そんな小さな神ではないのです!

災害や不幸に遭われて、さらに自分を不信仰と責めたり、また過去の過ちを嘆いている人がいるなら、ハッキリと言います。あなたの罪はすでにイエス にあって赦されています!
その災害や不幸は神からの罰では決してないのです!
完全な愛の父を仰ぎ見ましょう。あなたを愛しておられる父を見上げましょう。

私たちは不幸や苦しみにつけ込んで宗教行為や献金をアピールするカルト牧師、カルト伝道者に気を付けましょう。そのような間違った教えに苦しむ人 に本当の福音を伝えましょう。

災害や不幸に遭われて痛み、苦しむ人を天の父は痛む心で見ておられます!
天の父は災害に遭われた被災者への愛と憐れみで、心が張り裂けんばかりなのです。
みなさん、神の地上の体は何処にありますか?私たちエクレシア(教会)です。
エクレシア(教会)こそ、地上でのキリストの体なのです!
私たちは天のお父さんの愛と憐れみの心を受けて、神の地上の体として愛を実践しましょう!

【真の悔い改め】

「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

3節と5節で、イエスさまは二度も悔い改めを強調しています。
ここで気を付けなくてはならないのは、何を悔い改めるかです。
この箇所でイエスさまが悔い改めて欲しい具体的な罪を明確にせず、ただ悔い改めの行為だけを強調するなら、続く「みな同じように滅びます」も脅し のことばにしか聞こえなくなります。

イエスさまがこの箇所で悔い改めるように勧めているのは、私たちの生きる目的なのです!
物質的に豊かになること、少しでも長生きすること、やりたいことを出来るだけやること!
自分の欲望、快楽を満足させるためだけに生きているなら、やがてこの世が不完全で滅び去るように、同じように滅びると言っているのです。

私たちの生きる目的が、やがて滅びるこの世の物、はかない快楽にあるなら空しいのです。
私たちの肉体も、またこの地球もやがては滅びるのです!
それは決して残念な悲しむべきことではなく、神の完全な勝利の現れです。
キリストにあって私たちの滅ぶべき肉体は栄光の体に変えられ、不完全な地球は新天新地に再創造されるのです。これがキリストにある永遠の御国、神 の国の完成です。

やがて滅びるべきこの世界を愛する生き方ではなく、永遠に滅びることのない神の国を目標として生きなさいとイエスは悔い改めを求めておられるので す!

人生の本当の価値は、自分の欲望をどのくらい満足させたかにあるのではありません。
自分の欲望を満足させることが人間の価値ならば、事故や災害で短命に終わった人生に価値を見いだすことは難しいでしょう。
しかし人生の本当の価値は、神の御前に如何に生きたのか?その質が問われるのです。
神の御前に愛を尽くして生きた人は、たとえ悲劇的な出来事によって短命に終わったとしても、その人を待っているのは滅びることのない永遠の神の国 なのです!

みなさん、イエスの生き方を思い出してください。
主イエスは自分の肉的な欲望を一つも満たすことなく、最後は冤罪で処刑されたのです!
しかしイエスは天の父の御心を完全に満足させました。
彼の地上の人生は僅か三十年でしたが、永遠の御国の主になられたのです。

私たちはこの震災を覚え、もう一度自分の人生の目標が何処にあるのかを吟味しましょう。
やがては滅びる不完全な世界に完全な満足、永遠を求めてはいないか?
神の御前に喜ばれる生き方を人生の目標としているか吟味しましょう。

【天の父は、一人も滅びず、全ての人が悔い改めることを忍耐して待っておられる】

「イエスはこのようなたとえを話された。『ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、 ぶどう園の番人に言った。「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切 り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってくださ い。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
ルカによる福音書13章6節から9節

このたとえ話は直接は当時のイスラエル、ユダヤ人に向けて語られたたとえ話です。
いちじくは、イスラエルを表す象徴として用いられています。
そしてぶどう園の主人と番人は、ともに父なる神のイスエラエルに対する思いを表しています。
イスラエルに対して神が与えた恵みを考えたら、当然イスラエルは信仰の実を結んで当然です。
しかし、主イエスの三年に渡る宣教に対しても心を閉ざし応じません。

イスラエルを選んだのは、主イエスにある救いを宣べ伝えることによって、世界を祝福することでした。その大切な働きを拒否し続けるイスラエルに対 して、「切り倒せ」という思いは当然です。しかし天の父は愛と恵みの神です!切り倒されて当然のイスラエルに対して、「今年一年待ってやろう、そ うしたら・・・」と希望を捨てないのです。
今年一年、また一年と、天の父なる神はイスラエルを忍耐し続けて二千年にもなるのです!
天の父は、なんと愛と憐れみに富む神でしょう。イスラエルを愛し、イスラエルの回復を心から待ち、イスラエルの滅びることを決して願われないので す。

そして天の父の愛と忍耐は、私たちにも注がれてます!
天の父の御心は全ての人が永遠の国を受け継ぐこと、一人も滅びることを願われないのです!

天の父が私たちに直ぐにでも与えたいのは、地震も津波も、飢えも乾きもない永遠の国です。
そこは「死も悲しみも、叫びも苦しみもない世界(黙示21:4)」です。
神は古い不完全な世界を過ぎ去らせ、私たちを直ぐにでも完全なご自身の国に迎えたいのです。

しかし、もし今不完全な世界を終わらせるなら、多くの人々がこの世とともに滅びてしまう。
神とキリストに背を向け続け、滅びる世を愛する人は、世とともに滅んでしまうのです。
今年一年、また一年と、神は一人でも多くの人が神に立ち返ることを待っておられるのです。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあら れるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって 来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、こ れらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにし て、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けて しまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このような ことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
第二ペテロ3章9節から 14節

私たちは、私たちを待っている新しい天と新しい地があることを覚えましょう。
この世は不完全であり、決して私たちの霊を満足させる場所ではありません。
永遠の御国を待ち望む生き方を通して、私たちは救い主イエスを証して生きましょう。
主イエスの御名を信じる信仰だけが、私たちを救い、御国に相応しく私たちを変えます!

私たちの変えられた生き方を通して、主を知らない人々、不完全な世界で絶望を覚え、嘆き悲しみ希望を失っている人々に救い主イエスを伝えましょ う!