「福音宣教の動機」

第一テサロニケ人への手紙2章から
牧師 小林智彦

【テサロニケ人への手紙2章の背景】

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことば としてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」 第一テサロニケ2章13節

今日は第一テサロニケ人への手紙2章から恵みを分かち合いたいと思います。
1章で、テサロニケの教会はギリシャにおいて模範的な教会だったことを学びました。
彼らを短期間の内に霊的に成長させたのは、福音を神のことばとして受け入れたからです。
福音を神のことばとして信じ受け入れる時、福音は私たちの心の内に働くのです!

2章の内容は、パウロの使徒としての権威を弁明する内容になっています。
パウロはユダヤ人の迫害によって、テサロニケから引き離されてしまいました。
宣教は短期間であり、パウロが彼らと過ごした時間も長くはありませんでした。
テサロニケの信徒たちはみことばにより急成長しましたが、彼らもユダヤ人からの妨害、また迫害を受けたのです。パウロは二度までもテサロニケに戻 ろうとしましたが、願いは叶わなかったのです。

厳しい状況に置かれたテサロニケの信徒たちの中には、パウロに対する疑問や誤解が少なからず生まれてきたようです。

ギリシャは昔から文明が栄えた国でした。多くの偉大な哲学者が生まれました。
しかしその一方でソフィストと呼ばれる、お金目的で知識を売る人たちもいました。
彼らは町々を行き巡り、弟子を作り、無駄な知識を教え込んでは授業料を稼ぐ人たちです。

またソフィストと同じように、町々を渡り歩いては新しい宗教を伝え、信者をつくる遍歴宗教家も多数存在したそうです。彼らの多くも権力とお金が目 当てでした。

テサロニケの教会は迫害によってパウロと引き離されてしまったのですが、以上のような背景から、パウロもソフィストの一人ではないか?また遍歴宗 教家のように、お金目当ての布教であって、都合が悪くなれば逃げ去るような者ではないのかと、疑問や誤解が少なからず出てきたようです。

テモテの報告を受けたパウロは、彼らの誤解を解くために2章で弁明をしていると考えられるます。パウロがどのような態度で、また何を目的に福音を 伝えたのかを思い出させることにより、テサロニケの信徒たちの誤解を解き、福音を神のことばとして受け入れた初めの信仰に彼らを立ち返らせよう と、この章を書いたと考えられます。

パウロがどのようにテサロニケの人々に福音を伝えたのか、これは日本で福音を伝える私たちにとって素晴らしい模範です。私たちが置かれている宗 教・文化的な背景とテサロニケのそれが似ていると思えるからです。

日本はに数多くの宗教があり、布教熱心な新興宗教、カルト宗教が存在しています。
この国で私たちが福音を伝えると、新興宗教やカルトと誤解されることがあります。
「宗教やっている人」と思われて、疑われる場合もあります。
オウム真理教や、統一協会のあまりにも悪いイメージのために、普通の日本人は「宗教は危ない」と思っています。エホバの証人の輸血禁止、強引でし つこい勧誘で、「聖書の話なんか聞きたくない!」と思う人は少なくありません。

こんなマイナスイメージの中で、私たちはどうしたらキリストの愛、キリストの救いを伝えていくことが出来るのでしょうか?

パウロの宣教姿勢の中にこそ、その答えがあると確信します!

ソフィストや遍歴宗教家が多数活動していたテサロニケの町。彼らにとってパウロの布教もその内の一つにしか、初めは写らなかったはずです。
しかし、テサロニケの人々は、パウロの伝えている福音を、神のことばとして受け入れたのです。私たちはパウロの宣教姿勢から、福音を伝える者とし ての相応しい姿勢、態度を学びましょう。

【再臨の情熱から生まれた宣教】

「ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあ なたがたに語りました。
私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせよ うとして語るのです。
ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。」第一 テサロニケ2章2〜5節

パウロはテサロニケでの宣教を振り返り、ソフィストや遍歴宗教家とちがって、決してお金目的、また名声を得るための手段として布教したのでは決し てないと断言しています。

@神に認められ、福音を委ねられている!

パウロはテサロニケに来る前にピリピで宣教しました。パウロはピリピで苦しみに会い、辱めを受けたと言っています。使徒の働き16章には、パウロ とシラスは役人に捕らえられて何度もむち打たれ、投獄されたことが書いてあります。

「辱め」とは自分の持っている権利を全て奪われることを意味するそうです。
ピリピでの苦難はパウロとシラスにとって、大変に辛い体験でした。
しかし、彼らはその苦難の中で神を賛美し、福音を伝えることを止めませんでした。
何が苦難を乗り越えさせ、彼らを福音宣教に押し進めたのでしょう?

お金や名誉のためではありません!なぜなら彼らは辱められても、諦めなかったからです。お金や名誉のためだけなら、もっと安全で楽な道を彼らは選 んだでしょう。

パウロとシラスがピリピで宣教を諦めず、さらにテサロニケ、アテネ、コリントへと彼らを進ませたものは、自分は「神に認められ、福音を委ねられて いる」自覚でした。(4節)

この強い自覚は、パウロの救いの体験から生まれたと考えられます。
パウロは以前はパリサイ人であり、彼自身が教会を迫害し、暴力を振るう者でした。
しかし復活されたキリストが直接彼に現れ、彼の心は変えられたのです。

イエス様は迫害するパウロを責めたり、呪ったりしませんでした!
ご自身の名前を汚し、迫害するパウロに愛と赦しをもって接しられたのです。

「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」使徒の働き26章14節

キリストの愛と赦しに触れた時、彼の頑な心は変えられたのです。
彼は熱心なパリサイ人、宗教家でしたが、宗教は彼の心を変えませんでした。
頑張れば頑張るほど、出来る自分を誇り、出来ない人間を見下す高慢な人間になりました。
自分の努力で救いを保っていたので、彼は宗教の中に安らぎを見い出せなかったのです。

しかしイエス・キリストは、行いによる救いを説く宗教とは違っていました。
神に敵対し、神に逆らう者にも、イエス・キリストは愛と赦しで接して下さる。
パウロはキリストの中に、本当の安らぎと救いを見い出しました。

愛された者は、愛するようになり、赦された者は、人を赦せる人になります。
パウロは以前は迫害する者だったので、自分が迫害された時、迫害する者を赦し、愛せる者に変えられたのです。

自分を変えたキリストの愛と赦し、これがパウロの宣教の動機でした。
神の愛と赦しを体験している者はみな「神に認められ、福音を委ねられている」のです。

キリスト教という宗教を伝えることは、止めましょう。
私たちが隣人に分かち合うのは、自分を変えた神の愛と赦しです。
自分をありのまま愛し、赦し、受け入れて下さる神の大きな愛を分かち合いましょう。

A人ではなく、神を喜ばせようとして語る

「人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(4節)」

自分の言動を振り返って考えてみると、相手の心に触れる思いやりの心、建て上げる言葉、配慮のある言葉が少ないことに反省させられます。
心のこもった言葉ではなく、ただ場の雰囲気を保つだけの意味ない会話が多いのです。

イエス様が世間話をしていたと、聖書には書いてありません。
イエス様の会話を見ると、どうも言葉数は少なかったようです。
少ない言葉であっても、イエス様の言葉は聞く者の心に深く届きました。
愛と思いやりの心、その人を心から気遣う心から出てきた言葉だからです。

もちろん人間関係を良好に保つためには、世間話や冗談も必要でしょう。
しかし、いつも上辺だけの、当たり障りのない話で終わっていたら残念です。
自分がどう思われるか?ではなく、いつも相手を思いやり、建て上げる心、主に喜ばれる信仰・希望・愛に満ちた言葉を語らせて頂きましょう。

言葉は霊的なものです。聖霊に満たされて、いのちある言葉を語りましょう。

B与えられた権威(能力)を人を立て上げるために用いる。

「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けよう とはしませんでした。
それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福 音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからで す。兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きなが ら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」第一テサロニケ2章6から9節

パウロは使徒としての権威を自分の利益や名誉のためには用いませんでした。
パウロは使徒としての権威を、キリストの体を建て上げるために用いたのです。

この世の中では、権威を持つ者はひたすら自分のために権威を振りかざします。
だから権威、権力を得ようと必死になる人がいます。
しかしキリストの体、教会の中では、その全く逆でなければならないのです!

与えられた権威、また力はキリストの体である兄弟・姉妹を建て上げるために用いられるべきなのです。人々に仕え助けるために、与えられた権威、力 は用いられるべきです。

これはイエス様の教えでもあります。
「『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうでは ありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたの しもべになりなさい。』」マタイ福音書20章25から27節

人に仕えること、人の得を高めるために自らを犠牲にする者が神の国では優れた者です。
パウロはこのことを教えるだけではなく、実践しました。
彼はもちろん使徒ですから、生活の糧を教会から得る権利がありました。
しかし教会が誕生したばかりで力がなかったため、彼はテントを作りながら生活費を自ら稼ぎ、教会に仕え、福音を伝えたのです。

私たちも与えられた能力、力を兄弟姉妹の信仰を建て上げるために積極的に用いましょう。
誰かに仕えてもらうことを求めるのでなく、積極的に神と人に仕えましょう。
私たちがキリストの恵みに溢れ、誰かに愛されることを待つ者から、積極的に人を愛する者になるとき、私たちは神と人から優れた者と認められるよう になります。

C神の国の価値観に生きる。

「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神 もあかししてくださることです。
また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわ しく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」第一テサロニケ2章10から12節

パウロはイエス・キリストが再臨され、神の御国に引き上げられ、栄光の体を受けて、永遠を神の国で過ごすことを待ち望んでいました。
いつキリストが来られても良いように、彼はキリストの再臨を意識して歩んだのです。

パウロはこの世にあっても、すでに神の国で生きているかのように、神の国の価値観で生きていました。人が見ているところだけで、宗教家らしく振る 舞ったのではありません。
人が見ていなくても、神様は見ておられる!
パウロはいつも神を意識し、神に喜ばれるように語り、行動しました。
キリストの復活の力を受けて、彼は全く新しい人として歩んだのです。

テサロニケの人はパウロの言葉と行いに矛盾がないこと、その言葉がいつも愛と希望に満ちていること、権威があるのに、僕のように仕える姿にキリス トを見ました。
テサロニケの人々はパウロの語る福音を、神のことばとして受け入れたのです。

私たちも先ず古い性質を神に告白し、十字架で滅ぼしてもらい、復活の新しいいのちに生きましょう。キリストの愛と赦しを毎日、聖霊様により聖書を 通して示してもらいましょう。キリストの愛に感動して歩みましょう。
私たちの心がキリストの愛と聖霊に満たされる時、私たちの周りの人々は必ず、私たちの中に神の愛を見つけるはずです。