「ガリラヤでの宣教の開始」
マタイ4章12節から17節
牧師 小林智彦

【ガリラヤでの宣教の開始】

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境 にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう 岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」マタイ4章12節から17節

マタイは、イエス様がガリラヤ地方で宣教を開始されたと記しています。
当時のイスラエルの政治・経済・宗教の中心地はユダヤであり、エルサレムでした。
ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」とイザヤによって呼ばれているように、当時のユダヤ人からは蔑まれる地域でした。

イエス様は大切な福音を伝える働きをエルサレムからではなく、辺境の地であるガリラヤから始められたのです。

なぜイエス様はエルサレムではなく、ガリラヤを選ばれたのでしょうか。

マタイは二つの理由を明らかにしています。
一つは預言者イザヤによって語られた預言が成就するため。
二つ目は、バプテスマのヨハネが捕らえられたためでした。

【預言者イザヤを通して言われた事が、成就するため】

ガリラヤ地方はイスラエル12部族のゼブルンとナフタリ族に割り当てられた領土です。
しかし、BC732年にアッシリヤ帝国によって征服されました。
多くのユダヤ人が捕らえ移され、またアッシリヤによって異民族が移住させられたため、民族的にも、宗教・文化的にも混じり合い、イスラエル民族の 純粋性を失ったのです。
このような状態を見て、イザヤは「異邦人のガリラヤ」と呼んだと考えられます。

ガリラヤを含む北イスラエル、やがてユダも滅ぼされ、敵国に捕らえ移されていったのは、彼らが真の神を捨て去り、富と豊かさをもたらすと信じられ ていた偶像の神々に仕えた結果でした。

彼らは真の神を捨て、偶像に仕えるなら敵国に滅ぼされると前もって警告されていました。
それを知りながら彼らは神のことばにそむき、人間の手で作られた偶像に仕えたのです。
本来ならば、神に捨てられて当然でありますが、憐れみ深い神は回復の計画を立
てておられたのです!
神の民として選ばれたイスラエル、その一番初めに征服された地方がガリラヤでした。
彼らは民族の純粋さを失い、同じ民族からも蔑まれたままでした。
神はこのガリラヤにこそ福音の恵みを、愛と赦しを一番に伝えたいと計画されたのです!
これがイザヤを通して語られた預言なのです。預言とは未来を占う予言ではありません。
預言とは神のことばであり、罪と滅びからの回復の計画、希望のことばなのです。

マタイはイザヤの預言がイエス様の宣教によって成就したと言っています。
イザヤの預言は、マタイは少し省略して引用しているので、イザヤ書から見てみましょう。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のか なた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」イザヤ書 9章1.2節

福音とは、「苦しみのあった所に、やみがなくなる」ことです。
また福音とは、恥が神の栄光に変えられることです。
神に捨てられたと思われていた民が、神の愛と赦しを受け、神の民に変えられることです。
この世に何の希望も目的も見いだせなかった人々が、キリストのうちに希望の光、真のいのちを見いだすことです。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある 神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によって これを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げ
る。」イザヤ書9章6.7節

神はイエスを通して、ご自身の愛をガリラヤの人々に示されました。
神はガリラヤの人々を愛することによって、私たちへの愛を明らかにされました!
神は私たちにも回復の計画を立てて下さっています。

過去にどんな大きな過ちや失敗を犯したとしても、神はあなたの恥を栄光で覆って下さいます。あなたの中に不安や失望の闇があっても、神はあなたの 悩みを取り除きます!
イエスを心に救い主として迎えることです。

イザヤはイエスの名を「不思議な助言者」と預言しました。英語ではワンダフル・カウンセラーと訳されています。イエスは私たちの悩み、苦しみ、辛 さを聞き、分かって下さる素晴らしいカウンセラーです。人生に確かな導きを与えて下さいます。

「力ある神」と呼ばれるように、イエスは私たちの人生に力ある変革を行われます。
キリストの十字架の死と復活は、信じる私たちの古い自己中心の性質を滅ぼし、愛に生きる性質を私たちの心に生じさせます。

イエスは父なる神の愛を教えて下さり、私たちの心に平安を与えて下さいます。
イエスを心に救い主として受け入れ、イエスにすべての問題を分かち合いましょう。

〈祈りの時間〉
いま、しばらくの間、祈りの時間を持ちましょう。
あなたの心に闇はありませんか?誰にも見せたくない、自分も思い出したくない部分。
将来に対する不安、現在直面している問題はありませんか?
神はその闇を取り除き、恥を栄光で覆って下さいます。痛みを慰めで覆って下さいます。イエスはあなたの重荷を、ともに背負って下さるために来られ たのです。
心を開いて、イエスに分かち合いましょう。
あなたの全てが、神の栄光に変えられるように、いま個人的な祈りの時間を持ちましょう。

【バプテスマのヨハネの逮捕】

イエス様がガリラヤで宣教を開始したもう一つの理由は、バプテスマのヨハネが捕らえられたためでした。ヨハネを捕らえ、そして殺害したのはヘロデ 王でした。その理由はマタイ14章3.4節に書かれてあります。

「実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、『あなたが彼 女をめとるのは不法です。』と言い張ったからである。」

預言者は社会の悪、不正を糾弾する役割も神から委ねられていました。
しかしヘロデ王は神の預言者さえも捕らえ、殺害したのです。

ヘロデ王以外にもバプテスマのヨハネの働きを快く思っていない人々がいました。
パリサイ人たちです。ルカ福音書7章29.30節にはこのように書いてあります。

「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、 律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。」

ヨハネの使命は、悔い改めを通して、イスラエルの人々をキリストの前に霊的に整えることでした。しかし、ヘロデ王とパリサイ人はバプテスマのヨハ ネに反対したのです。

そしてイエス様は、ヨハネに反対する勢力から遠ざかることを選ばれたのです。
バプテスマのヨハネに反対した勢力の影響が及ばないガリラヤに、活動の拠点を設けられたのです。

神は愛と憐れみの神であり、赦しを求める者を赦し続けるお方です。
神はご自身を求める者には、誠実に救いの道を示し、救い、導いて下さいます。

しかし心を頑なにし、神を拒み続けるなら、神の恵みは遠ざかったしまうのです。

ヘロデ王は罪を指摘されたにもかかわらず、赦しを願う代わりに、ヨハネを殺害し、神に敵対しました。パリサイ人は自分の努力と行いを神以上に信頼 し、誇り、恵みを退けたのです。

神に心を閉ざしてはいけません。頑なな態度をとり続けるなら、いつしか聖霊の勧めを聖書から聞くことが出来なくなります。

神は、不正や悪を愛して神に敵対する者、また神の助けなしに完全になれると考えたパリサイ人のような高ぶりを憎まれます。

私たちは神の前にいつも素直な心を持ちましょう!
神は私たちを裁くためにイエス様を遣わしたのではなく、私たちを救い、助けるためにイエス様を遣わしたのです。

神は私たちが、神なしに完全になることを願われていません。それは不可能です。
神が私たちに願われていることは、私たちが謙って、心にイエス様をお迎えすることです。
そして、これからの人生をイエスとともに歩むことを願っています。

〈祈りの時間〉

私たちの心は、いまどうでしょうか?神の御前に謙り、砕かれているでしょうか?
イエス様を心に迎え入れ、イエス様の御顔をまっすぐに見ながら、親しい交わりを持っているでしょうか?イエス様はあなたの王ですか?それともあな たの僕になっていますか?

神の御前に素直な心が持てていないなら、そのことを主に告白しましょう。
その罪を赦して下さいと祈りましょう。高慢な心を捨てる決心を主にしましょう。

神の御前に、罪だと認めない思いはありませんか?手放したくない悪や不正はありませんか。イエス様の前に素直に認めましょう。そして罪を憎む心、 清い心を主に求めましょう。