「悪魔の試みに勝利されたイエス」
マタイによる福音書4章1節から11節
牧師 小林智彦

【イエスは悪魔の試みを受けるため・・・】

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行か
れた。」

バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、救い主としての公の生涯を始められた
イエスが、先ず初めにされたことは、悪魔から試みを受けることでし た。

ヤコブは手紙の中で、誘惑についてこのように教えています。
「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもあり
ません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
ヤコブ1章13.14節

誘惑は、心の中にある罪への欲望が原因であるとヤコブは教えています。
欲望が解決されない限り、誘惑からの解放はないと言えるでしょう。

イエス様は罪のない方でした。欲望に振り回されることはなかったのです。
それなら、なぜ悪魔からの試みを受けられたのでしょうか。
それは私たちのためでした。イエス・キリストは信仰の創始者であり完成者です。
私たちが受けるであろう誘惑に勝利することで、信仰の模範を示して下さったの
です。

イエス様が試みに対して、どのように勝利されたのかを学びましょう。
イエス様が受けた試み、私たちも同じように試みられます。
イエスの勝利から学び、試みに対して勝利しましょう。

【人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによる】

「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づい
て来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命 じなさ
い。』イエスは答えて言われた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口
から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。』」マタイ 4章2節から4節

悪魔の第一の試みは、イエス様が空腹を覚えた時に来ました。
四十日間も断食をされたのですから、その空腹は当然であり、生死に関わること
でした。
悪魔の誘惑はまさにこのようなときに来ます。余裕のないときにやって来ます。
私たちの上辺ではなく、本音が試されるからです!
良い人を演じたり、信仰者を演じるような上辺の信仰では、誘惑に勝利できません。
心の本質が変えられなくては、誘惑に勝利できないのです。

悪魔は「この石がパンになるように、命じなさい」と誘惑してきました。
飢えによる危機的な状況を、奇跡を用いて切り抜けなさいと提案してきたのです。
一見、親切そうな提案です。(悪魔は、如何にも悪魔ですという姿ではやってこ
ない)
しかし、これは信仰による救いをもたらすイエス様の働きを止めさせてしまう誘
惑でした。

【人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによる】

「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づい
て来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命 じなさ
い。』イエスは答えて言われた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口
から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。』」マタイ 4章2節から4節

パウロはピリピ人への手紙の中でその理由を書いています。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができな
いとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同 じよう
になられたのです。」ピリピ2章6.7節

イエス様が自分のために奇跡を用いなかったのは、私たちの弱さを背負うためで
した。
私たちが飢え、乾き、疲れ、痛むように、イエス様もあらゆる面で弱くなられた
のです。
これがキリストの愛です。私たちを上から目線ではなく下から支え、包み込む愛
なのです。
サタンの一見親切そうな提案は、キリストの私たちへの愛を否定するものでした。

またサタンの提案に従うことは、神から受けた使命に対する不信仰を表明するも
のでした。
イエスが地上に来られたのは私たちの罪を十字架で背負うためでした。
キリストは私たちの罪のために死ぬために、天の父がこの地上に送られたのです。
神が送られたキリストなら十字架以外で死ぬことはないのです。
どんなに空腹になったとしても、キリストが飢えて死ぬことはあり得ないのです。
しかしイエスがもし、飢えを心配して、石を奇跡でパンに変え、飢えを凌ぐな
ら、救い主としての使命を自分で否定することになってしまうのです。
サタンの試みは一見、親切そうでありながら、キリストとその救いの働きを根底
から否定する破壊力を持っていたのです。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためで
す。」ヨハネ10:10
私たちは聖霊に満たされ(神のことばに満たされ)、悪魔の誘惑を見抜きましょう!

イエス様は悪魔の誘惑に対して「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口か
ら出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と申命記8章3節 のこと
ばで答えられました。
イエス様は悪魔の誘惑に、聖書のことばを用いて勝利されたのです!
三つの誘惑すべてに、聖書を引用され、神のことばで誘惑に勝利されました。
これこそ、私たちが模範とすべきことです。

誘惑、試みは必ずやって来ます!
神のことばこそ、誘惑、試みを乗り越えさせる神の解決です。

【神はなぜ信仰の試練を許されるのか】

申命記8章1節から6節までを見ましょう。

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなけれ
ばならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があな たがた
の先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十
年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければ ならない。そ
れは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あ
なたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たち
も知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きる のでは
ない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわか
らせるためであった。
この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練される
ことを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その 道に歩
み、主を恐れなさい。」

この箇所には、なぜ神が試練を神の子供たちに許されるのか、その理由があります。
荒野での試練は、イスラエルを約束の地に相応しい民に整えるためでした。
人間的な限界状況で彼らは、人知を超える神ことばの確かさを経験したのです。
人間のパンではない、神のパン、マナを体験しました。
人を究極的に支えるものは、人間の知恵、力ではなく神のことばであることを教
えるためでした。この厳しい体験によって、神のことばはイスラエルの 霊に刻
まれたのです。

神が私たちに試練を許されるのは、私たちが無くてはならない神のことばを体験
するため、神のことばが霊に刻み込まれるためなのです!
単なる知識としてではなく、上辺だけの知識としてではなく、神のことばが人格
に結びつくため、イエス・キリストの似姿に近づくため、神は試練を許 される
のです。

私は会社で働いていた頃、人間関係で苦労しました。
気むずかしい上司、気の合わない同僚。これらは本当にストレスの原因でした。
なぜ神は、こんな上司を私の上に置かれるのか不思議でした。
一日も早く、こんな会社を去りたいと思って仕事をしていました。
素晴らしいチャンスが訪れました!私は転職することが出来たのです。ハレルヤ!
しかし転職して、しばらくすると、また上司に対して苦々しい思いが出てきまし
た・・・
神がこのことを通して教えようとされたことは、人を裁かないこと、愛すること
でした。

愛は「怒らず」「人のした悪を思わず」「すべてを我慢し」「すべてを堪え忍
ぶ」のです!
(第一コリント13章4節から7節を参照)
隣人をキリストの愛で愛することを、神は試練を通して教えてくださったのです。

神は私たちの心にみことばが刻まれ、思いと行動がイエス・キリストに似たもの
になるために試練を許されるのです。

試練はひとり一人違います。隣人を赦すことを学ばさせるために、神は赦し難い
人、赦し難い状況に私たちを出会わせるかもしれません。

私たちが試練を信仰の訓練として受け止め、聖霊により神の御心を求め、みこと
ばに従うなら、試練は過ぎ去ります。その後には霊的な成長、人格的な 成長と
いう素晴らしい実を結ばせます。

しかし、もし私たちが古い性質のままに歩み、赦し難い隣人を赦さず、怒り、憎
しみ、戦い、肉的な方法や手段で試練をやり過ごすなら、必ず同じ状況 が私た
ちを待っています。
さらに悪い状況が待っているかもしれませ!
なぜなら、私たちが試練に会うのは、信仰と人格の成長のためだからです。
神の備えたみことばを受け取るまでは、この試練から抜け出ることは出来ないの
です!

【試練の中に備えられた、神のみことばを受け取ろう!】

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおき
てを学びました。」詩篇119編71節

試練の時、神はこの試練を通して、何を自分に教えようとしているのかを祈りま
しょう。神は意味もなく、愛する自分の子供たちを試練に合わせるよう なこと
はしません。
神が試練を許されるのは、その試練を通してでなければ得られない、大切な信仰
の教訓、悔い改めるべきこと、人格の成熟などがあるからです。意味の ない試
練は無いのです!

いま自分が苦しみの中に、試練の中に置かれているなら、神様にその意味を求め
ましょう。
みことばをもって示してくださいと、聖書の中に試練の意味を探しましょう。
そして、試練をくぐり抜ける力と、それに耐えられるように自分を変えてくださ
いと祈り求めましょう。