「聖霊と火とのバプテスマ」
マタイによる福音書3章
牧師 小林智彦

【心からの悔い改め】

「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』この人は預言者イザヤによって、
『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせ
よ。」』と
言われたその人である。」マタイ3章1節から3節

バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい」とイスラエルに呼びかけました。
そして聖書は、彼こそ預言者イザヤによって預言されたキリストの到来を告げる者、
またキリストの通られる道を備える者であると教えています。

主の通られる道とは、どんな道でしょうか。
私たちはどの道を通れば、生ける真の神キリストに出会うことが出来るのでしょう。

主の通られる道は、悔い改めの道です。
心から自分の罪を悲しみ、罪を憎み、罪からの解放と赦しを求める者がこの道を
歩みます。

私たちは神の国に帰るまで、罪を悔い改めることを忘れてはいけません!
クリスチャン・ライフの完成は地上にはありません。
「もう悔い改めることが何もありません」と言える人は、一人としていないのです。

罪に向き合うことを忘れてはいけません。
また自分の力だけで罪に勝とう、努力で正しい人を演じてはいけません。
自らの罪に誘惑されてしまう心と性質を悲しみ、心を変えてもらうことを神に願
うのです。

悔い改めとは、決して自分の力で罪を止めることではありません。それは我慢です。
悔い改めとは我慢ではなく、罪に向かってしまう心、罪に親しむ性質そのものを
神に変えていただくことです。

もちろん罪の衝動を抑えること、我慢することも大切です。
しかし、我慢、忍耐で終わらせないで下さい。
罪を慕う心そのものを変えて下さいと、神に求め続けることが悔い改めの道なの
です。

詩篇51編はダビデの悔い改めの詩編です。
「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてくださ
い。(2節)」
「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば私はきよくなり
ましょう。
私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。(7節)」
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてくださ
い。(10節)」
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。
あなたは、それをさげすまれません。(17節)」

私たちもダビデの悔い改めに学びましょう。砕かれた悔いた心を持って、神の助
けと救い
を心から求め続けましょう。これがキリストに出会う心です。

【罪を告白して・・・バプテスマを受けた】

「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのと
ころへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマ を受け
た。(5.6節)」

悔い改めの呼びかけに対して、大勢のユダヤ人がヨハネのもとにやって来て罪を
告白し、ヨハネからバプテスマを受けました。

当時のユダヤ人達は「告白」の喜びを知っていたのだと思います。
自分一人で抱えていた罪を吐き出せる喜び。苦しみ、辛さを聞いてもらえる喜び。
赦される喜び。だからわざわざヨハネの所まで大勢の人は出てきました。

「罪の告白」の喜び、私たちも味わいたいと思います。これは霊的な成長です!

ある心理学者が、欧米では罪を告白するなら赦されるという文化があるが、日本
では罪を認めると罰せられるという文化を持っていると言っていまし た。
日本は「恥の文化」です。自分の罪、弱さ、過ちを認めたら切腹しなければなら
ない。
潔く自分の罪を認めること、まして、それを言い表すことは恥ずかしいと感じら
れます。
これは聖書の福音理解を歪めてしまう、強い文化的な悪影響です。

神と人々の前に、ありのままの自分で生きることは大切なことです。
弱さがあること、罪と戦っていること、正直に神と人々の前に言い表し、愛と赦
しを受け
る神の共同体を船橋エクレシアは目指しましょう。

「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んで
いるなら、
私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、
私たちは
互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにあ
りません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その
罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神の
みことば
は私たちのうちにありません。」第一ヨハネ1章6節から10節

闇の中を歩むとは、罪を楽しみながらも、罪を犯していない人を演じることです。
罪からの解放にはキリストの血と、キリストにある兄弟姉妹の助けが必要なの
に、「自分は大丈夫です!自分一人でやっていけます!」と大丈夫な人を 演じ
続けることです。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は
あわれみ
を受ける。」箴言28章13節

【悔い改めにふさわしい実を結びなさい】

「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たと
き、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒 りをの
がれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
「われわれの先祖はアブラハムだ。」と心の中で言うような考えで はいけませ
ん。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫
を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に 置かれています。
だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。』」
マタイ福音書3章7節から10節

ヨハネはパリサイ人、サドカイ人が形だけのバプテスマを受けに来たのを見て、
警告しま
した。形だけのバプテスマには何の意味もありません!
心から罪を憎み、悲しみ、自分の力ではなく、神によって心を変えてもらう思い
がなければ、バプテスマを受けても何の意味もないのです。何の変化も ありま
せん。

しかし、心から悔い改め、神に心を変えてもらうことを願うなら、バプテスマは
大きな意味があります。バプテスマの一番の意味は罪の性質に死ぬこと です。

これはヨハネのバプテスマの意味ではなく、イエスの名によって受けるバプテス
マです。
ヨハネ自身が、自分が授けるバプテスマには限界があることを告白しています。

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私
のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方 のはき
ものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火と
のバプテスマをお授けになります。」マタイ3章11節

ヨハネは水でバプテスマを授けていました。「水」には汚れを清める象徴的な意
味と、「死」または「裁き」を象徴的に表すと考えられます。(Tペ テロ3:20、U
ペテロ3:6、黙示録20:13)

バプテスマのヨハネが授けるバプテスマは、罪を清めるバプテスマでした。
しかしイエス・キリストの名によるバプテスマは罪を滅ぼすバプテスマです!
なぜならイエスは全人類の罪を十字架に背負い、罪と死を滅ぼされたからです。
それはまさに罪の性質を焼き尽くす、聖霊の火によるバプテスマなのです。

私たちが受けるバプテスマは、ヨハネが授けたように水に全身を浸します。
しかし、それは罪の汚れを水で洗い流すのではなく、罪に対する死を表しています。
私たちの罪のために死なれたイエスとともに死ぬことを表しているのです。
水から上がることはキリストの復活のいのちに生きる表現です。
私たちは、バプテスマの意味を受けとめて、信仰を持ってバプテスマを受けます。
その信仰によって私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活につながるの
です。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテス
マを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのでは ありま
せんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとと
もに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死 者の中からよ
みがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。も
し私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と 同じようになってい
るのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅び
て、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、 私たち
は知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとと
もに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じ ます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリ
ストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリスト が死な
れたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるの
は、神に対して生きておられるのだからです。このように、あな たがたも、自
分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生き
た者だと、思いなさい。」
ローマ6章3節から11節

水のバプテスマは一度で十分です。それは神と人の前に、自分は罪に死んで、イ
エスとともに神のいのちに生きる信仰を表すために受けるからです。
しかし、霊的な意味のバプテスマ、自分の罪深い性質を絶えず十字架に付け続け
る歩みは、天に帰るまで続くのです。

しかし、これは悲しく、辛い、宗教的なお勤めではなく、解放といのちの喜びな
のです!
なぜならキリストともに罪に死ぬなら、罪から解放され、復活のいのちに生きる
からです!
復活のいのちこそ、あなたを心から喜ばせ、信仰・希望・愛に活かす原動力です。

私たちは悔い改めの道を歩み、十字架の死を通って復活のいのちに満たされま
しょう。

【バプテスマを受けられたイエス】

「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダ
ンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエ スにそ
うさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずです
のに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところ が、イエスは
答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正し
いことを実行するのは、わたしたちにふさわしいので す。』そこで、ヨハネは
承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下っ て、自分の上に来られるのをご
覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する
子、わたしはこれを喜ぶ。』」マタイ福 音書3章13から17節

イエスさまもバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。
イエスさまは罪を犯したことがないと、聖書にハッキリと書かれています。
罪がないのならば、本来はバプテスマを受ける必要がありません。
イエスさまに罪がないこと、バプテスマを受ける必要がないことをヨハネは知っ
ていたので、イエスさまが洗礼を受けることには反対でした。

なぜイエスさまは洗礼を受けられたのでしょうか。

イエスさまが洗礼を受けられたのは、自分のためではなく、私たちの為でした。
イエスさまが洗礼を受けられたのは、私たちの罪を身代わりに背負う救い主とし
ての生涯を始めるために、洗礼を受けられたのです。
イエスは全人類の罪を、私たちの罪をご自分の罪として告白し、バプテスマを受
けました。
このバプテスマから、イエスさまの救い主としての働きが始まるのです。

イエスさまが洗礼を受けられたもう一つの理由は、私たちに模範を示すためです。
罪のないイエスさまが洗礼を受けられたのなら、罪人の私たちがなぜ洗礼を拒む
ことが出来るでしょう。イエスは私たちに、ご自分に従う者の模範を示 されま
した。
誰でもイエスを神、救い主と信じる者はイエスのバプテスマを受けましょう。
※洗礼は父・子・聖霊の御名によって授けます。

水のバプテスマ、またキリストの十字架に絶えず自分の罪を付け続ける霊のバプ
テスマを受けるなら、受け続けるなら(水のバプテスマは一度だけ)、 その人
は聖霊を受けます!
これは約束です。(使徒の働き2:38)

水から上がられたイエスに、御霊が鳩のように下られたように、バプテスマを受
け、悔い改めの道を歩む者には神の御霊が臨まれるのです!神の霊、聖 霊こ
そ、私たちに復活のいのちを与える方です。

この約束を信じ、信仰の創始者であり、完成者であるイエスの模範に従いましょう。
聖霊に満たされ、罪から解放された神の子の性質に生きましょう!