「イエス・キリストの系図」
マタイによる福音書1章1節から17節

牧師 小林智彦

【マタイの福音書はなぜ系図から始まるのか?】

今月からマタイによる福音書を皆さんと分かち合いたいと思います。
来年からは福音書と手紙を交互に分かち合う予定です。

マタイ福音書の冒頭には系図が書かれています。
多くの人がこの系図に躓いて、その先が読めなくなると聞きます。
なぜマタイはわかりにくい系図を、福音書のいちばん始めに置いたのでしょうか?

マタイはこの福音書をユダヤ人に向けて書いたと考えられています。
日本人に向けて書いたならば、系図をいちばん始めには置かなかったかもしれません。
系図は純粋な血縁を大切にする当時のユダヤ人にとっては、とても重要でした。
マタイはユダヤ人の当時の文化に沿って、福音書を書いたのです。
ユダヤ人にとっては親しみやすかったのです。私たちには残念ながら読み辛い原因です。

旧約聖書を読み、ユダヤ文化に親しむと、マタイを始め他の新約聖書も理解が深まります。
新約聖書の土台は旧約聖書にあります。ぜひ旧約聖書を読むこともお勧めします。

系図はマタイ福音書が書かれた約千九百年前のユダヤ人にとっては大切なものであり、ユダヤ人が伝記を書く時は系図から始めることが普通でした。

【マタイが系図を通して、先ず伝えたかった大切なこと!】

伝記を系図から書き始めることが当時のユダヤ文化であったとしても、マタイが系図をいちばん始めに置いたのには更に大切な理由がありました。

いちばん始めに書いてあると言うのは、一番大切なこと、一番伝えたいことなのです!
どうでも良い、詰まらないことを、いちばん始めには書かないのです。

マタイが先ず伝えたかったとても大切なこと、それが1章1節です。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」マタイ1章1節

当時のユダヤ人が初めてこの節を聞いた時、雷に打たれたような衝撃が走ったと想像します。またイエスを既に受け入れた者たちには、深い喜びと希望を常に与えることばでした。

このことばがユダヤ人に強い衝撃を与えたのは、この系図が普通一般の系図、庶民の系図とはかけ離れた系図だったからです。

アブラハム、ダビデ、そしてイエス・キリストです。
ユダヤ人には、このつながりが何を意味しているのか良く分かりました。
これは王家の系図なのです!

王家の系図でも驚きますが、普通の王様ではありません。
ユダヤ民族が始まってから二千年の間、ユダヤ人が待ち続けていた王の系図なのです!

一節に登場するアブラハム、ダビデ。アブラハムはユダヤ民族の生みの親です。
ダビデはイスラエル王国の設立者です。王国の生みの親です。
しかし、それ以上にこの二人は、聖書の上では特別な人物であります。

神と契約を結んだ人物、神に特別な約束を与えられた人物なのです。

アブラハムに与えられた約束とは、創世記12章1節から3節にあります。

「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」

特にイエス・キリストとの関係から言うならば3節後半、
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」です。
このアブラハムに与えられた偉大な約束を実現する者としてイエス・キリストは生まれたのです。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。救いは行いによらず信仰による!
信仰による救いの道を開いたのがアブラハムです。
そして今や信仰の対象である方がハッキリと現れた。
イエス・キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく世界の全人類が救われる!
アブラハムを通して約束されてた救い主が今誕生した、それがイエス・キリストなのです。

ダビデに与えられた約束を見てみましょう。第二サムエル記7章12.13節

「あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

これはダビデの子のソロモンを指してはいませんでした。ソロモンの死後、王国は分裂し、バビロン捕囚後はダビデの血を引く王は途絶えてしまいました。

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」エレミヤ23章5.6節

ダビデへの約束は預言者エレミヤを通してさらに明らかになりました。
イスラエルを救い、永遠の王国を築き上げるダビデの血筋を引く王がやがて誕生する。
それがキリスト(メシア)です!ユダヤ人はメシアの誕生を待ち続けていました。
そして、マタイは約束のメシアこそイエスであると、いちばん始めに書き記したのです!
これが最も大切なことです!

マタイがいちばん始めに書いた最も大切なこと、それはユダヤ人が待ち望んでいたキリストが誕生したこと、そのキリストとはイエスであることです!

イエス・キリストとはイエスはキリストであると言う意味です。
キリストは救い主を意味するギリシャ語で、ヘブル語のメシア(油注がれた者)の訳です。
油注ぎとは聖霊に満たされることを意味していて、旧約聖書時代には王、大祭司、預言者が油注ぎを受ける者でした。やがてメシアとはダビデの子孫でイスラエル王国を再建し、永遠の王国として確立する者、ユダヤ人を救い解放する者としての称号になりました。

マタイ福音書は救い主イエスについて書かれた本です。主題はイエスはキリストです!
なぜイエスがキリストなのか?イエスはユダヤ人と全人類を救うために何をしたのか?
どうしたら救いを受けることが出来るのか?何が救いなのか?
救われた者の新しい生き方が書かれています。
これはマタイ福音書だけではなく、新約聖書全体について言えることです。
なぜなら、マタイ1章1節は、新約聖書全体のいちばん始めでもあるからです。

聖書を人生を幸福にする書物や、自己啓発のために読む人もいるでしょう。
しかし最も正しい聖書との接し方は、救いを得るために読むことです。
イエス・キリストの救いを知り、イエスを救い主として受け入れて聖書に接する時、聖書は永遠のいのちを与える書物として開かれるのです!

まだイエスを自らの救い主キリストとして受け入れていない方がいるなら、ぜひ救いを求めて聖書を読んで下さい。キリストが与える救いとは何かを知ってください。
イエスがあなたを救うために何をされたのかを知ってください。

イエスを既に救い主として受け入れた方は、キリストにある新しい人としての生き方を聖書から学んで下さい。神の国に相応しい生き方、また神の子として生きる力を日々キリストから受け取って下さい。

【系図に登場する四人の女性】

2節以降の系図を見ると、当時のユダヤ人にとっては驚くことが幾つも書かれています。
それは女性の名前が四人も登場することです。家父長制の系図には無いことなのです。
そしてこの四人の女性は、当時のユダヤ人、特にユダヤ民族の純血性、民族的な誇りを強調する人々にとっては恥ずべき存在でした。

3節にタマルが登場します。タマルは義理の父ユダを、売春婦に変装して騙し、性関係を持ちます。そして子どもをもうけました。普通ではあり得ない関係です。
5節にラハブとルツが登場します。ラハブとルツは外国人の女性でした。
これは民族の純粋な血統を誇るユダヤ人にとっては隠したい民族的な恥でした。
またラハブは売春婦でもありました。
そして6節。ここには名前が直接書かれていない女性が登場します。
彼女は「ウリヤの妻」と紹介されています。バテシェバのことです。
バテシェバと書けば良いものをなぜマタイは敢えて「ウリヤの妻」と紹介したのでしょうか?ダビデ王はバテシェバの美しさに誘惑されて、夫のあるバテシェバと姦淫を犯します。
その姦淫によってバテシェバは妊娠しますが、その発覚を恐れたダビデ王は自分の忠実な部下であったウリヤを殺害したのです。これはダビデにとって最も大きな罪でした。
その罪をわざわざ思い出させるように、マタイは「ウリヤの妻」と系図に書いているのです。

マタイはなぜこのような恥ずべき過去を持つ女性、またユダヤ人の嫌う外国人女性の名前をわざわざ書き記したのでしょうか。とても不思議です。

全世界を救う救い主、永遠の王国を築くキリストがユダヤ人の家系を通して与えられたことはユダヤ人にとっては最高に名誉あることです。
イエスさま自ら仰っているように、「救いはユダヤ人から出る(ヨハネ4:22)」のです。
しかし、この名誉はユダヤ人の努力や、純粋な血によるのではないということ、ただ約束に基づいて神は救い主をユダヤ人を通して与えられたことを、マタイは明らかにしたかったのだと思います。

救い主がユダヤ人を通して与えられることは民族としては最高の名誉です。
しかし、これは神の一方的な恵と選びによって与えられた名誉であって、ユダヤ人は自分の努力のように誇ることは出来ないのです。

これはユダヤ人に限らず、全ての民族に共通して言えることでしょう。
どの民族が一番すぐれているか?答えは、この系図の中にあるのです。
どの民族も決して純粋で、恥ずべき過去を持たない民族は無いと言うことです!

ユダヤ人も、世界の全ての民族も、自分たちの努力、能力では救いに達しないのです。
全ての民族、全ての国々は神の恵みと憐れみが必要なのです。
これは私たち個人にも当てはまります。
私たちが救われるのは、私たちの善行や努力に拠らないのです!
ただ神の一方的な恵みの故に、イエスをキリストと信じ受け入れる者が救われるのです。

神の恵みであるイエス・キリストを主とする時、その家族、民族、国は祝福を受けます。
私たちは自分の誇り、功績を捨て、また民族的な誇りを捨て、神の憐れみを乞い、救い主イエスを受け入れましょう。

ユダヤ人の大部分が、未だにイエスをキリストと受け入れられない一番の理由は、民族的な誇りを捨てられないからです!異邦人と同じ救いを受け入れることをプライドが許さないのです。

同じように、日本人の大部分がイエスを救い主として受け入れられないのは、自分を無力な罪人で、救われるためにはただ神の憐れみを受け入れなければならないことをプライドが見え無くさせるのです。難行・苦行をして、自分の努力で救われたいのです。
自分は頑張れば、神の国に到達できる善人にであると思っているのです。
このプライド、自分の力を頼る思いが、キリストの十字架を見え無くさせます。
多くの日本人が恵が見えず、カルト宗教に騙されています!
多くの日本人が、自分は神すら必要としない立派な人間であると思っています。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7章13.14節

自分は神の国にはほど遠い罪人であり、神に喜ばれる性質を何一つ持ち合わせていないことを認めること、自分の罪深い系図を正直に認める人が、実は一番救いに近いのです。

神の愛と憐れみは、私たちの罪深い性質も、弱さも、過去の過ちも全て覆います!
真の神は私たちの良いところだけしか受け入れられない小さな神ではありません。
イエスはイスラエル、ユダヤのあらゆる恥と罪深さを背負い、自らをその子孫として生まれてきたのです。イエス・キリストは私たちの罪を背負うために生まれたのです。
イエス・キリストは私たちを十字架に背負い、ともに死んで下さり、新しい性質を私たちに与えるために復活された救い主です!

この救い主の前に、私たちは無理をしなくて良いのです。
私たちはキリストの前に、あらゆる重荷を下ろし、委ねて、心に安息を得ましょう。

【・・・キリストまでが十四代になる】

「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」17節

マタイはアブラハムからダビデ、ダビデからバビロン移住まで、バビロン移住からキリストまでを十四代で括っています。

実際にはダビデからバビロン移住までの王の中には省略されている王がいます。
マタイが敢えて十四代で括っているのには、霊的な意味があります。
十四は七の二倍です。七は聖書の中では完全を表す数字です。それが二倍されている。
神の完全な計画の中に、救い主キリストが誕生したことを表していると考えられます。

ダビデから続く王の中には信仰の篤い王も含まれていますが、偶像礼拝をユダに持ち込み、国を傾かせてしまった悪い王も含まれます。

こんな悪い王たちも神の計画の中に含まれていたのか?と疑問に思います。
しかし、神の計画の中には、これらの王たちも含まれていたのでした。
もちろん神が、王の堕落や背信を計画していたのではありません!
神は王たちが信仰の道を歩み、国民の模範になることを願っていました。
しかし堕落した王たちは、預言者によって神の御心が何かを知りながら背いたのです。

ユダを堕落に導いた王たちの存在、彼らの不信仰は救い主を与える神の計画を妨げたでしょうか?妨げることはありませんでした!
神の救いの計画は、これら不信仰の王たちによって変わることはなかったのです!

神の救いの計画は、神の完全な時の中で着実に進むのです。
人間の罪や不信仰は、神の計画を変えたり、妨げたりすることは出来ません。

この真理は私たちに希望と慰めを与えます。

私たちにはイエスが再び地上に来られることが約束されています。再臨の約束です。
いつ主が来られるのか?二千年も経つのに、まだ再臨の約束は果たされていません。
しかし、主の計画は遅れているのではありません!
神の定めた計画通りに、着実に進んでいると確信します。遅くなることは無いのです!
主は永遠の都に私たちを導くために、遅れることなく再臨されるのです!

同じように、私たちの霊的な成長、成熟も同じだと確信します。
神は私たちの成長のために完全な計画を建てて下さり、それは遅れることはないのです。
大切なのは、主の計画を信じ、主に良いことも悪いことも主に委ねることです。

自分の目に全てが順調に見える時も、全てが上手く行かず、先が見えないような暗やみの時でも、神の計画が止まることはありません。

私たちがすべきことは、罪を日々イエスに告白し、十字架で滅ぼして頂くことです。
十字架に付けられた罪深い性質は滅ぼされ、神の子としての新しい性質に復活します。
神は必ず私たちの救いを完成して下さいます!主の計画は完全です。
私たちはそれぞれ自分の十字架を背負って、主に従っていきましょう!