「キリストを知っていることの素晴らしさ」
ピリピ人への手紙3章から

牧師 小林智彦

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」ピリピ3章7.8節

地方の旅館に泊まった東京の有名小学校に通うお子さんが凄く行儀が悪かったそうです。
たまりかねた旅館の女将さんが、「あなたたちだめですよ。お行儀良くしようね」と注意しました。すると子どもは、「何言ってんだよ。僕はね、東京で一番良い小学校に通ってるんだよ」と威張って答えたそうです。

親に植え付けられたつまらないプライドが、子どもから大切なものを見え無くさせていると言うお話しです。

キリストに出会う前のパウロも、たくさんのつまらないプライドがありました。
純粋なユダヤ人であること。自分が属している宗派が優れていること。優れた宗教教育を受けたこと。そしてユダヤ人男性の誇りである割礼を受けていることです。

しかしこれらのプライド、誇りとするものが、パウロに大切なものを見え無くさせていました。パウロはこれらの誇りの故に他国人を見下し、考えが違う人を虐待しました。

プライドは人を傲慢にします。プライドは人を支配的にします。プライドは人を強いか弱いか、持っているか持っていないかだけで判断させ、大切なものを見え無くさせます。

大切なものとは、人の心であり、愛であり、いのちであり、真の神です!
人間の誇り、プライドは、これら本当に大切なものを見え無くさせてしまうのです。

人間的な誇りに満ちていたパウロは、イエス・キリストを呪い、教会を迫害しました。
自信とプライドに満ちていた時のパウロは、最も神から離れていたのです。

プライドとは何でしょうか?人間的な誇りや自慢とは何でしょうか?
神に頼ることなしに自分は生きていけると思う心であり、神に頼らなくても生きていけると思わせる人間的な支えです。神にも人にも頼らなくて生きられる自信です。

自分は高い学歴がある、優れた経歴がある、莫大な財産がある、優れた体力がある!
優れたルックス・スタイルがある、大きな家、高級車、一流企業に勤めている!

「神さまに祈らなくても、十分に幸せです。神さまに頼らなくても毎日とても楽しいです。
神さまなんか必要ないし、神なんかいないと思います。」これがプライド、誇りなのです。

しかし、これはいのちの神から最も遠く離れた人間の姿です。
最も大切なものを忘れた、傲慢で自己中心な心の姿、いのちから離れた寂しい姿です。

しかし人間的な誇りは必ず取り去られる時が来ます。
その時は、本当は幸せな時です。自分を支えていたものが如何につまらないものであったのか良く分かるからです。人間的な誇りが取り去られた時、自分の本当の姿が見えます。本当の裸の姿が見えるのです。その時こそ、真の神と出会う最善の時です!

パウロは神の恵みによって復活のキリストに出会いました。
いのちの光に輝くキリストを見た時、彼は自分を支えていた人間的な誇りが如何に小さく、惨めなものであり、それに頼っていた自分の惨めな姿がハッキリと見えたのです。

プライドとは一番になることです。一番になるとは、孤立することです。
一番になることが最高と思っている人は、二番、三番の人の価値を認めません。
また一番になれない自分の価値も認めないのです。そこにはいのちの輝きはありません。

キリストはいのちと愛に溢れています!
パウロはキリストを見た時、自分を本当に幸せにするのは人間的な誇りではなく、神との正しい関係であることが分かったのです。

一番になることは、あなたの人生に幸せを保証しません。
一番にしがみつく時、あなたの人生から幸せも、いのちの輝きも消え去ります。

神との正しい関係、これこそが人を幸せにし、心を豊かにするのです。
神との正しい関係、これこそいのちそのものです。
いのちは関係の中に存在します。
私たちは両親の関係の中に生まれ、家庭という家族の関係の中で育ち、学校、職場という人間関係の中で生かされているのです。関係が私たちを生かすのです。

神と正しい関係を持つこと、これが永遠のいのちです。
神と正しい関係を持つ時、私たちの心はいのちで満たされ、本当の幸福を知ります。

私たちの心はキリストとつながっているでしょうか?
神を父と呼ぶことが出来る関係の素晴らしさを味わっているでしょうか?

キリストから心が離れ、お金、学歴、比較の中に幸せを追い求めているなら残念です。
いのちに溢れるキリストの本当の姿を見せて下さいと聖霊に求めて下さい。
また自分が求めている世の物がもたらす結果を悟らせて下さいと祈って下さい。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」ピリピ3章13から15節

神との親しい関係、それが永遠のいのち、キリストを知ることです。
パウロが勧めているように、神との親しい関係を追い求めましょう。

【キリストの十字架と復活を知る】

「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
ピリピ3章17節から21節

私たちがキリストを知る最善の方法は、キリストの十字架と復活の力を体験することです。キリストを知的に知ることは大切です。聖書を勉強したり、神学校に行くことも良いでしょう。しかし、キリストを知的に知ることと、体験として知ることは大きく違います。
キリストを知的に知ったとしても、それは私たちの古い性質を変える力にはなりません!
キリストの十字架と復活を自分の体験として知ること、これが私たちを変える力です!

キリストの十字架と復活をどのように、自分の体験として知ることが出来るでしょう?

先ず私たちの内にある罪深い性質に気付くことです。
自分の中に自分ではどうしようも出来ない罪の性質があることに気付くことです。
自分の中に罪深い性質があることを認めないなら、キリストを自らの救い主として受け入れることは出来ないからです。

私たちの信仰の土台は神の一人子イエスが、私の罪の為に死んで、復活されたことを信じることにあります。

キリストを知る、キリストを体験するとは、自分もキリストともに十字架で死に、キリストとともに復活することを体験することです。

自分の内にある罪深い性質を聖霊様によって気付かせられ、それを主イエスに告白し、この罪の為にキリストが死んで下さったことを信じるのです。
心から、この罪の性質を十字架で背負って滅ぼして下さいと祈ることです。
これが自分をキリストの十字架に付けることなのです。

信仰は神と私たちを結びつけるパイプです。

信仰によって自分の内にある罪の性質とキリストの十字架を結びつけるのです!
キリストは私の罪の為に死なれたのです。キリストの死は私たちの罪を滅ぼします。
信仰によって自分の罪の性質とキリストの十字架を結びつけるなら、私たちの罪の性質は滅ぼされ、復活のいのち、神の子としての新しい性質が与えられるのです。
これが私たちの信仰の土台、確信です!

キリストの十字架と復活を体験することは、一回だけの経験ではありません。
毎日の経験です。聖霊が示される度に、その瞬間瞬間に罪を十字架に付けるのです。

罪の実を十字架に付けるのではありません。罪の実とは、罪の結果です。
殺人、姦淫、盗み、嘘、むさぼり・・・これらは罪の実、罪の結果です。
罪の結果は私たちが個人的に償わなくてはなりません。

十字架に付けるのは、罪を行わせようとする心の中の間違った動機、欲望です。
欲求は大切であり、肯定すべきです。しかし欲望は罪です。
例えば性欲。性欲は素晴らしい欲求です!聖書は性欲を肯定しています。
神さま自らが性欲を祝福し、「生めよ、増えよ、地を満たせ」と言われました。
神ご自身が人を男と女に創造し、性を創られたのです。
だから性欲は神聖であり、肯定されるべきものです。しかし情欲は否定されるべき罪です!

神は人にそれぞれ一人の伴侶を定められました。
性は伴侶との間で用いられる時、神聖であり、祝福されるものです。
しかし伴侶以外と性交渉を持つことは罪であり、そのように願うことが情欲なのです。

しかし、私たちの内に働く罪の性質が正しい欲求を罪深いものに変え、情欲を心の中に燃え上がらせるのです!これに気付くことです。否認するのではありません!
否認とは罪の性質、燃え上がる欲望に蓋をして、目を背けることです。
それは何の解決にもなりません。必ず欲望は爆発し、やがて理性を振り切るでしょう。

「自分はクリスチャンになったから、こんな欲望を持ってはいけない!」これは否認です。
「私はキリストによって新しくされた!だから情欲なんてあるはずがない!」これも否認です。もちろんある人は、罪の働きが別の所に出ている人もいるでしょう。
大切なのは認めることです!

どんなに優れたクリスチャンでも、この肉体が死を迎え、栄光の体を受けるまでは罪の性質は無くならないのです。罪の性質を否認することは何の解決にもなりません。
直ぐに気付いて、キリストに告白し、十字架に付けることです!
そして新しい性質が心に与えられるまで、しつこく祈り続けることです。
これがキリストを知ることです。体験することです。また、キリストと日々ともに歩むことです。

十字架を否定し、十字架を退けるものになってはなりません!
自分の努力・頑張りで欲望を抑え込まないで下さい、必ずもっと悪い状態になります。
欲望を直ぐに十字架に付けるのです。キリストの十字架の死と復活の力を信じましょう!