「絶えず目を覚まして、全ての聖徒のために祈りなさい」
エペソ6章18節

牧師 小林智彦

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ6章18節

霊的な武具で完全武装した兵士を完全にするのは祈りであると先週学びました。
今週は18節後半から、更に祈りについて分かち合いたいと思います。

【絶えず目を覚ましていて・・・】

「目を覚まして祈りなさい」とパウロは私たちに命じています。
「目を覚ます」と言う言葉を、パウロはどのような意味で用いているのでしょうか。
睡眠時間を捧げて祈る徹夜祈祷会や早天祈祷会の勧めでしょうか。
眠らないで祈ることがパウロが言っている「目を覚ます」ことなのでしょうか。
「目を覚ます」ajgrupnevw(ギ)アグルプネオーは新約聖書の中で4回用いられています。
福音書の中で2回、エペソの箇所とヘブル人13:17でそれぞれ用いられています。
これらの箇所を見ると「目を覚ます」には、二つの意味が込められていると言えるでしょう。

まず福音書の中でも用いられている「目を覚ます」の意味について見て行きましょう。
マルコとルカの箇所は、イエスさまの再臨に対する心構えを教えている箇所です。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
ルカによる福音書21章33節から36節

この箇所では「目を覚ます」とは、放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くなっている状態に対する状態を意味しています。キリストは世の終わりに、神に反抗し続ける世を裁きにやって来られます。その時、神の聖徒がこの世と一緒になって動揺したり、不安、恐怖に陥ることがないように「目を覚まして祈りなさい」とイエスさまが命じているのです。

「目を覚ます」とは、霊的覚醒のことです。(※決して睡眠を削ることではありません)
そして霊的覚醒状態の反対は肉的覚醒です。
「肉」とは、私たちが生まれながらに持っている罪深い性質のことです。
肉が目を覚ましている状態の時、私たちは自分を頼り、神と神の言葉を退け、反抗し、放縦、深酒、生活の煩いに心が奪われてしまいます。

しかし、霊が目覚める時、神の子どもとしての自覚が生まれます。霊の目は神を絶えず見上げ、神を頼ります。霊が目覚める時、神と隣人への愛に生きる願いが起こされるのです。

このどちらかの状態しかありません!選択です。
肉(生まれながらの罪深い性質)に目覚めるか、霊(神の子どもとしての性質)に目覚めて生きるかのどちらかしかないのです。

イエスを救い主として受け入れても、霊が眠り、肉が目を覚ましているなら、私たちは依然として古い性質のまま生きることになります。キリストが十字架で滅ぼした古い性質を目覚めさせてはいけないのです!
自分が古い性質に生きていることに気付いたら、迷わずキリストの十字架に付けましょう。
それらは既に十字架で滅ぼされたと宣言し、聖霊のいのちと力を受け霊に目覚めましょう。

【霊的覚醒のために・・・神の愛に目を開く!】

絶えず目を覚ましているには、どうしたらよいのでしょうか。
私たちが絶えず目覚める為に必要なのは、自分が神に愛されている神の子どもであること、自分の本当の姿をいつも覚えることです!

私たちは生まれながらに神の子どもだったのではなく、貴いキリストの血によって死と滅びから買い取られて神の子どもとなりました。
神は私たちを愛して、ご自身のひとり子イエスを犠牲にして下さったのです!

これほどまでに私たちは愛されているのです!
全能の神を父と呼べること、この父なる神が私たちを守り、養い、導いて下さるのです。私たちは全世界の相続者、永遠を神とともに生きる者とされたのです。

こんなに愛され、満ち足りた生涯を保証され、永遠まで保証されているのに、そして、その保証として聖霊にある喜びが与えられているのに、どうして希望のが無いかのように、滅び行く世の物で自分を誤魔化す必要があるのでしょうか?

神に愛されている自分の姿に目を開く時、私たちは神の子どもとして目を覚ますのです!

子どもの頃を思い出して下さい。
既に泥が付いた古着を着ていたら、迷わず砂場で砂遊びをして、泥団子を作って遊んでいたでしょう。既に汚れた服を着ていたら、砂だらけ、泥だらけになっても気にしません。しかし泥だらけの服を着ていたら、お友だちの綺麗な家には入りづらくなります。

これは霊的な事柄にも当てはまります。
もし自分が自分のことを愛される価値がない、つまらない人間だと考えていたら、人から憎まれるような自分勝手なことを平気で行えるようになるでしょう。また将来に希望が持てないなら、自分を冷静に見つめることを嫌がり、絶えず何か自分を忘れさせることを求めるでしょう。愛や希望、そして高い目的の為に生きることに関して、自分には相応しくないと人生を諦めることでしょう。

自分を自分がどのように見るか?それが私たちの行動を決定するのです。

私たちは確かに罪で汚れた染みだらけの服を着て、自分だけを喜ばせる罪人でした。
しかし、キリストがその貴い血潮で罪に汚れた服を洗い清めて下さったのです。
私たちはキリストの血によって、真っ白い聖徒の衣服が与えられているのです!
キリストにある自分の姿に気付きましょう。
キリストにある自分の姿を、み言葉と聖霊によって正しく知る時、私たちは自分の姿に相応しく生きるのです!

【魂を見張る】

「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」ヘブル人への手紙13章17節

「目を覚ます」ajgrupnevw(ギ)アグルプネオーが、「魂を見張る」と訳されています。
パウロはエペソ6章18節で「絶えず目を覚まして」と命じていますが、この「目を覚ます」には、「自分自身が霊的に覚醒していなさい」と言う意味と、「神の家族の魂に対して心を配りなさい、見張りなさい」との二つの意味にパウロは用いていると思うのです。

まず自分の魂が神の前に健全であり、神の子どもとしての自覚に生きていなければ、当然、他人の霊的状態に気を配ることは出来ません。まずは自分が神の子どもとして生きること。そして、神の家族に対しても心を配りなさいとパウロは教えていると考えられるのです。

霊的な戦いです。一人では決して戦えないのです。
私たちは自分の栄光の為に戦うのではなく、神の栄光、神の国の勝利の為に戦うのです。それは個人の戦いではなく、チーム・プレーです。
自分のことだけでなく、互いの霊的状況を見張り、弱い時には助け、励まし、力を合わせる時、勝利があるのです!

「見張る」と聞くと、何か「監視する」イメージがありますが、「心を配る」「心に掛ける」の方が相応しいでしょう。新共同訳では「心を配る」と訳されています。

キリストの栄光の為に、霊的戦いの勝利のために、また愛の心から神の家族に対して心を配りましょう。キリストから心が離れていないか、世の物だけに心が奪われていないか、キリストの愛といのちに満たされているか、心を配ることが大切です。

【すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい】

もし、エクレシアの兄弟姉妹がキリストから心が離れていることに気付いたら、何か罪を犯していることを知ったなら、皆さんはどうしますか?

相手と話し合う、説得することはとても大切です。これは聖書的な原則です。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」マタイ18章15節

しかし!その前に、先ず相手のために祈ること、これが何よりも大切です!
「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ6:18後半

私たちは救われても、弱さがあり、なかなか悪習慣から解放されない時があります。
自分では分かっていても、変えられない部分、弱い部分があります。
完璧なクリスチャンは地上では存在しません!
人から指摘されても、そう出来ない自分を責めるだけで、ますます元気がなくなります。
元気がなくなると、罪に対する抵抗力がさらに弱くなります。

大切なのはキリストの復活のいのちです!

私たちの罪の性質を根底から変え、弱い部分を強め、悪習慣を断ち切る力はキリストの復活のいのちにあるのです!

罪を指摘するだけでは、決して罪に打ち勝つ力にはなりません。
キリストにつながる以外、キリストからいのちを注いで頂く以外、罪に勝利することは出来ないのです。

だから、まず相手のためにとりなしの祈りを捧げることが大切です!
とりなしの祈りとは、自分のためではなく相手のために祈ることです。

神から心が離れ、自分では祈れない人のために、その人に代わって祈るのがとりなしの祈りです。神から離れている部分にいのちが注がれるために、本人に代わって祈るのです。

罪に沈み込み、自分では祈れない人、神と関係を持てない人の心に、とりなしの祈りを通してキリストのいのちを注ぐのです。
キリストのいのちに触れて初めて、私たちは罪を悟ることが出来ます。
罪を罪だと悟ることが出来なければ、私たちは誰も罪から離れたいとは思いません。
キリストのいのち、キリストの愛だけが、私たちの心に罪を悟らせるのです。

このキリストのいのちが注がれるように祈らずに、罪を止めさせようと説得しても反発を受けるだけで、何の良い実も得られません。それは自分の説得で相手を悔い改めさせようとしているからです。

兄弟姉妹の弱さ、問題に気付いたら、責めたり、指摘しないで、先ず祈ることです!
キリストの愛に満たされ、聖霊に触れられて自らの罪を悟れるように祈ることです。

私たちは先ず、自分を愛して下さっている神の大きな愛に目を開きましょう!
神の子どもとしての自覚を保ち、神の家族の霊的状態に心を配りましょう。
そして神の家族がキリストの愛といのちに満たされるように、祈りましょう。
根気よく祈り続けましょう。とりなしの祈りはキリストの愛といのちを注ぐ祈りなのです。