「空しい心で歩んでいてはなりません」
エペソ人への手紙4章17節から32節
牧師 小林智彦

【空しい心で歩んでいてはなりません】

「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」エペソ4章17節から19節

パウロは異邦人が「空しい心で歩んでいる」と言っています。
「異邦人」とは、聖書では非ユダヤ人を指しますが、ここでは「神を知らない人」です。神を知らない人の特徴が列挙されています。

空しい心=生きる目的、生きる価値が分からない。満たされない心。
知性において暗くなり=否定的な考え、マイナス思考、神を否定、希望や愛を否定
神に対する無知=無条件に愛し、赦して下さる天の父を知らない。
かたくなな心=自分の過ちを認めたくない。神と人に対して本音を分かち合えない。
神の命から遠く離れている=喜びがない。平安がない。希望がない。
道徳的に無感覚=刺激と快楽で誤魔化す生き方。アルコール中毒、薬物依存、性的逸脱等

「しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」エペソ4章20.21節

私たちの中に、空しい心で歩んでいる部分はないでしょうか?
キリストを知る前と、救われた後で、あなたの人生は変化を体験しましたか?
これは厳しい質問だと思います。しかし決して誤魔化してはならない問いです。

自分の心はキリストによって満たされているか?
それとも、信じる前と変わらず、空しさに支配され、生きる目的を見失ってはいないか?
心の満足をキリストではなく、別のものに、酒や他の薬物、中毒に依存してはいないか?

決して律法主義的に受け取らないで下さい!
自分の頑張りや努力で解決しようとしないで下さい。それも誤魔化しにしか過ぎません。
あなたが正しいか間違っているか、裁こうとしているのでは決してありません。

キリストの解決を受け入れていない部分を素直に認めることが大切なのです。
イエスを信じた後でも、以前として変わらない部分に気付くことが大切です。
そして、その部分をキリストの十字架に持って行くのです!
キリストの十字架こそ、死を命に、空しさを満たしに変える転換点、神からの答えです。

私たちはイエスを神の一人子、救い主として信じ受け入れるだけで救われます。
救われるために必要なのは、信仰のみです!
これは新生と言います。神の子どもとして生まれることです。

神の子どもとして生まれた私たちは成長します。
成長もまた神の恵によります。神との交わり、礼拝、祈り、み言葉、神の家族との関係が成長をもたらすのです。


しかし、この成長を拒絶する部分がクリスチャン・ライフの中で見えてきます。
神の恵みをも拒絶する赦せない心、怒り、憎しみ、自己中心を認めることが大切です。
それを主の十字架のもとに持っていくのです。

【古い人を十字架に付け、脱ぎ捨てる】

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」エペソ4章22節から24節

私たちが学ぶべき最も大切な教えとは、キリストの十字架と復活を日々体験することです。

「古い人を脱ぎ捨て」、「新しい人を身に着る」とは十字架と復活がもたらす変化です。

「古い人」とは、キリストに出会う前の自分、またキリストに出会っても変化していない心の頑なな部分です。怒り、憎しみ、恨み、自己中心などです。
これらの「古い人」は、自分の努力で変えようとしても変わりません。

ただ!キリストの十字架に背負ってもらい、キリストの身代わりの死を持って滅ぼして頂くしかないのです。そのためにキリストは私たちの罪を身代わりに背負い死なれたのです。

しかし、キリストは死んで終わりではありませんでした!
三日目に死から復活したのです。私たちも「古い人」を十字架に付けて滅びるなら、必ず復活とともに「新しい人」を身に着るのです!これが十字架と復活を体験することです!

私たちを変える神の力、神からの答えがキリストの十字架と復活なのです!

【キリストによる心の変化を体験しよう!】

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」エペソ4章26節から32節

この箇所は三つに分けることが出来るでしょう。
26.27節は心の態度、思いの罪です。28節は行いの罪。29から31節は言葉の罪です。

怒りは努力で止められません。間違った怒りもありますが、正しい怒りもあります。
怒り自体を止めようとしても、限度を過ぎると爆発してしまいます。
また怒りは処理しないと、いつまでも燃え続ける火のようです。
その日の内に解決しないと、怒りは恨みや憎しみに変わり、心の中でくすぶり続けます。
それは悪魔にとって絶好の活躍場所になります。

怒りを処理しなければなりません!憎しみ、恨みを処理しなければなりません。
十字架こそ解決の場所です。
自分の怒りを、なぜ自分が怒っているのかを天の父に伝えましょう!
幼子のように、自分の辛さ、惨めさ、恥ずかしさを天の父に聞いてもらうのです。
心がスッキリするまで、自分の思いを天の父に注ぎ出しましょう。

それから怒り、復讐心を十字架に付け、放棄しましょう。
心が冷静さを回復し、キリストの愛を復活のいのちとして受けとめて、問題の解決に進みましょう。

行いの罪を十字架に付けましょう。28節では「盗み」が取り上げられていますが、それ以外、不適切な行いが聖霊によって示されたなら、十字架に付けましょう。
私たちはすべきでない悪が止められず、すべき正しいことが出来ない存在です。
自分の力ではどんな小さな罪にさえ、勝利することは出来ません。
だからキリストが私たちの勝利なのです!キリストが神からの解決なのです!

「盗みが止められません!○○が止められません!」と天の父には正直に告白しましょう。天の父はあなたを責めません。裁きません。その代わりにキリストの十字架を示されます。あなたが生まれ変わり、新しい歩みをするための答えだと十字架を示されるのです。
「私は盗みの行いを十字架に付けます。イエスさま背負って下さい、滅ぼして下さい!」と自分の言葉で祈って下さい。信仰をもって繰り返し、復活のいのち、新しい行動が自然に行えるまで祈り続け、十字架に付け続けましょ。

言葉の罪にも敏感になりましょう。人の心は言葉によって傷つきます。
言葉は刃物よりも鋭利に、人の心を切り裂くことがあるのです。

私たちは自分が受けた否定的な言葉、傷つける言葉を、そのまま誰かにぶつけます。
悪意ある言葉、否定的な言葉、傷つける言葉、刺のある言葉を十字架に付けましょう。

天のお父さんに「私はこんな辛いことを言われました!こんな酷いことを言われました!」と辛い心、痛む心を分かち合いましょう。父に心を分かち合うことが癒しです。
そして、傷つけられた言葉を十字架に放棄しましょう。

4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

私たちは天の父が下さったイエスさまの十字架と復活を日々体験しましょう。

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。(31節)」

これらを捨て去る場所はキリストの十字架です!
心からの告白とともに、私たち一人ひとりの為に十字架を背をわれたイエスを信じましょう。イエスは私たちをこれら全ての悪と罪から私たちを解放するために死なれました!

そして復活されたのです!

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(32節)」

これらはキリストの十字架を経て、復活のいのちとして私たちに与えられる性質です!
決して宗教的な努力の結果ではありません。十字架と復活がもたらす恵なのです。

【神の家族の中で真実を語る】

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(25節)」

私たちは自分の問題を天の父なる神との親しい関係の中だけで持つことが出来ます。
しかし、また神の家族の中でも天の父なる神との親しい関係を持つことも出来ます。

個人的に罪を告白して、祈ることも素晴らしいことです。
信頼できる兄弟、姉妹の中で自分の弱さ、罪、課題を分かち合い、ともに祈ることも素晴らしいことです。イエスさまは十字架を背負う苦しみを切々と父に祈られた時、ペテロ、ヨハネ、ヤコブをともに祈るように招かれました。

このような関係を神の家族の中に持つことは大切なことです!

礼拝の後、食事の交わりを持っていますが、その後に分かち合いの時間を持っています。
月に二回、ゴスペルと賛美があるので、それ以外の週は互いの課題を分かち合い、祈り会う時を持ちたいと思います。時間の許す限り、積極的に参加して欲しいと思います。