「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい(2)」
エペソ人への手紙4章1せつから16節
牧師 小林智彦

【御霊の一致を熱心に保ちなさい】

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」エペソ4章3節

エペソ人への手紙から「召しにふさわしい歩み(1節)」を分かち合っています。
今週は先週に続き、4章3節の後半部分「御霊の一致」について学びましょう。

恵を常に強調しているパウロでありますが、この箇所は「熱心に務めなさい」「努力しなさい」という積極的な勧めの言葉が使われています。

私たちは何に対して熱心に務めるべきなのか、その目標を明確にしたいと思います。
間違った目標に向けて、熱心に努力するほど悲しいことはありません。
私たちが熱心に努力すべき目標は、「御霊の一致」です!

「御霊の一致」とは何かを先ず正しく理解することが大切です。
「御霊の一致」とは何でしょう?抽象的ではなく、具体的な理解が必要です。

先ずパウロが「一致」を強調していることに気付きましょう。

「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」エペソ4章4節から6節

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」エペソ4章13節

信仰の一致、知識の一致、一致こそ、私たちが熱心に努力して目指すべき目標なのです!

しかしパウロが強調しているのは単なる「一致」ではなく、「御霊の一致」なのです。
なぜパウロは単なる「一致」ではなく、「御霊の一致」を強調しているのでしょう。

私たちが、もしパウロの言おうとしている「御霊の一致」を正しく理解することなしに、ただ熱心に「一致」に向けて努力するとどうなるでしょうか?
その一致は、悲しいことに「御霊の一致」ではなく、「肉の一致」で終わるでしょう。

そして「肉の一致」こそ、神のエクレシア、教会には最も相応しくない姿なのです。
「肉の一致」は自発性や個人の個性を奪い、喜び、いのちを奪ってしまいます。
私たちは間違っても「肉の一致」を目指すことがないように気を付けましょう!

「一致」を強調すると、必ず個性を奪ってしまいます。
「一致」を強調すると、それに従えない人々が苦しい思いを味わい、離れていきます。
「一致」を強調すると、なんと皮肉なことに「分裂」が起きてしまうのです。
「一致」を熱心に求めた結果、カルト的な教会になる危険があります。

それは「御霊の一致」ではなく、「肉の一致」を熱心に求めた悲しい結果なのです。

キリストの霊の特徴を考えてみましょう。

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」第二コリント3:17

聖霊は私たちを罪と死から解放し、いのちを与え、真の自由を与えるのです!

しかし一般的に考えると「一致」と「自由」は対立する考えです。
日本の社会を考えるなら、何かの団体、組織に入ると当然、その前提として団体・組織の主旨に一致することが求められます。そこでは個人の自由は制限されます。
日本の企業は特に会社の社風にまで一致することが求められるので束縛を感じます。

私たちは個性や自由が制限されると、元気を失います。
なぜなら個性や自由こそ、いのちの自由な表現だからです。

「御霊の一致」とは、決して個人の個性や自由を損なうことがない一致なのです!
個性や自由を奪うなら、それはキリストの霊によるものではありません。

最近、アメリカや韓国では若者の教会離れが深刻な問題になっているそうです。
イエスさまを否定しているのではなく、教会を否定しているのです。
教会には自由を束縛される、義務や責任を押しつけられるイメージがあるのでしょう。

若者の我が儘と片付けるのではなく、ある一部の人に都合良く教会が形成されていないか?聖書の目標の他に、人間的な目標が課せられていないかを吟味する必要があります。

肉の一致は、人々から自由を奪い、個性を殺し、束縛を与えます。
霊の一致は、個性と個人の自由を尊重し、真の自己実現をキリストにあって実現します。

【御霊の一致とはハーモニー(調和)】

「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」
エペソ4章7節
御霊の一致とは、ハーモニー(調和)のことです。
オーケストラは様々な音色の違う楽器が、それぞれの楽器の特徴、音色を活かし、一つの楽曲を演奏します。そこには一つの楽器だけでは表現できないハーモニーの美しさがあり、深みがあります。御霊の一致とは、まさにオーケストラのような一致なのです。
それはハーモニー(調和)なのです。

一つ一つの楽器が尊重されます。出番は少ないとしても、一つとして使われない楽器はありません。ましてや太鼓にピアノの音を要求するようなバカな指揮者はいません。
太鼓は太鼓のまま、ピアノはピアノのまま、その性質を生かし切って一つの曲が構成されるのです。これがまさにエクレシアの目指す「御霊の一致」の状態です。

パウロは一致を協調しながら、その一致とは一人ひとりに与えられたキリストの賜物が尊重それ、発揮されることを7節で教えています。

これがカルト宗教といのちあるエクレシア(教会)の一番の違いです!

カルト宗教は個性を殺し、自由を奪います。カルト宗教の人は似たような服装、似たような髪型、似たような受け答えをします。それは恐れのともなうマインド・コントロールの結果です。ほとんどが教祖のコピー、もしくは教祖にとって都合良い信者のコピーです。

私たちは「御霊の一致」を熱心に求めましょう!
「肉の一致」を見破り、徹底的にエクレシアから取り除いていきましょう。

【御霊の一致を熱心に保ちなさい】

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」エペソ4章3節

パウロが「熱心に務めなさい」、「努力しなさい」と強く勧めている理由は、私たちは気を付けていないと、自然に肉の性質(生まれ持った罪の性質)に堕落していくためです。

私たちはエクレシア(教会)を、いつの間にか肉の組織に堕落させてはいけません。
能力がある人、才能、力がある人、人々から注目される人は、いつの間にか人々を自分に仕えさせてしまう危険があります。これはわたし達の肉の性質です。

肉の性質は、自分の力、能力を誇りたい、人を支配したいと私たちを誘惑します。
しかし、エクレシアでは全くその反対でなければなりません。
主イエスが教えたように、力あるもの、能力のあるもの、助ける力がある人は進んで兄弟姉妹の僕、仕える人にならなければならないのです。

肉(生まれ持った罪深い性質)の誘惑を十字架に付け、御霊の一致を熱心に保ちましょう!

【御霊の一致を実現するために】

御霊の一致を実現するために、私たちが具体的に出来ることを分かち合いたいと思います。

@一人ひとりが先ず、主に堅く結び付く!

「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」エペソ4章5節

エクレシアが神の栄光を表すために目指すべき目標は「御霊の一致」です。
そのためには、エクレシア(教会)を構成する私たち一人ひとりが先ずキリストに堅く結び付くことが大切です!

自分の信仰を人任せにしてはいけません!

確かに始めは、聖書の読み方も、祈り方も分からず、牧師や他の信徒に教えてもらう、祈ってもらうことが大切です。しかし、いつまでも神さまとの関係を人任せにしてはいけません。神の霊は、信仰の告白とともにあなたの中に住まわれています!

聖霊に導きを求め、積極的に聖霊の導きを受けるために聖書を読みましょう。
そして祈りを通して、天の父と親しい交わりの時を持ちましょう。それが霊的な命です。
毎日、一瞬一瞬、天の父と交わりを持ち続けましょう。
義務や強制ではありません!
嬉しいこと、楽しいこと、喜びは決して強制になったり、義務になったりしません。
宗教の神ではなく、私たちが求めるのは天のお父さんです!
天の父のふところに安らぎ、いのちと平安を受け、「召しにふさわしい歩み」に歩めるように力を受けましょう!


もちろん、祈れない人、祈り方が分からない人、天のお父さんを人格的に体験でき無い人、心を注ぎだして祈れない人、遠慮無く牧師のもとに来て下さい。一緒に祈りましょう。
私も長い間、祈りが分かりませんでした。祈りを通して、神といのちの交わりを持つには祈りの友、祈りの家族が必要です。

A自分の賜物に気付き、積極的に仕える

「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」エペソ4章7節

私たち一人ひとりには、神の体(教会)を建て上げるための使命と、それを実現するための聖霊の賜物(プレゼントであり、特殊な能力・技能)が与えられているのです!
既にそれは、皆さんの中にあります!

大切なのは信仰を働かせて、使命に気付き、賜物を具体的に用いることです!
あなたの中には必ず賜物があります。それを信仰によって用いることです。
賜物は用いれば用いるほど、磨きが掛かります。
あなたの賜物は、神と人々を喜ばせ、隣人の徳を高めます。
賜物が用いられ、神の栄光を表すとき、お金を出しては決して買うことの出来ない、他では決して得られない喜びと満足が与えられます。

あなたがあなたであることが、神にも人にも認められ、喜ばれるからです!

賜物が眠っているなら、信仰によって掘り起こし、活用して下さい。
ぜひ牧師に相談して下さい。

賜物に気付かない信仰者は可哀想だと思います。
厳しい言い方をしますが、自分の賜物が発見されないことは、神の体の中に自分の居場所が見つからないのと同じなのです!(厳しい言い方でご免なさい!)
神の体の中で、自分が手の部分なのか?足の部分なのか?目なのか、鼻なのか?それを知らないのは残念なことです。

あなたには必ず神の体(教会)の中に大切な役割があります。
神も私たちも、あなたが自分の役割に気付くことを願っています。
自分の神の体(教会)での役割に気付く時、本当の意味で教会生活が始まります。

教会は決してコンサートではありません!一部の人が歌い、話し、他の者はただ聞くだけ。
面白かったか、為になったか?それは生きている教会の姿、教会生活ではありません。

エクレシアはあなたであり、あなたはエクレシアです!

あなたが自分の役割、賜物を通して、神の体であるエクレシアと堅く結び付くことを心から祈り、願います。