「愛を持って互いに忍び合い(2)」
エペソ人への手紙4章1から3節
牧師 小林智彦

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」エペソ4章1から3節

【謙遜を尽くし、互いに忍び合いなさい】

とても大切な言葉なので、今週も先週と同じ箇所からメッセージさせて頂きます。
互いに忍び会う、忍耐は愛であることを再び覚えましょう。

「(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
第一コリント13章7節

短い一節の中に、愛は「がまんし」「耐え忍びます」と二回も忍耐が強調されています。
この言葉が理想ではなく、聖霊の導きと経験の中から語られていることを覚えます。

エクレシア(教会)が、神の栄光を表すための第一歩が「互いに耐え忍ぶ」ことなのです!
そしてパウロは「謙遜・・・を尽くし、互いにしのび合い」と勧めています。

教会にはさまざまな人が来ます。それは神さまが選ばれて送って下さるのです。
性別、年齢、職業、出身地も違います。性格や性質、価値観、感性、みんな違います。
違いを持った私たちが、一つのキリストの体として進むには、互いの違いを受け入れることなしには進めないのです。

ある人は几帳面な人がいるでしょう。ある人は何をするにしても好い加減な人がいます。几帳面な人は、好い加減な人に対してイライラします。
好い加減な人は、几帳面な人に対しては「小さなことにうるさい」とイライラします。

何事もテキパキと要領よく、速く物事をこなす人がいます。
何をやっても遅く、時間が掛かる人もいます。
要領が良い人は、要領が悪い人に対して「鈍くさい」と思ってムカムカします。
要領が悪い人は要領が良い人に対して、いつも責められている感じがして不満を持ちます。

私たちは、自分と性質や性格が異なる人を自分を基準に見て判断し易いのです。
自分を基準にしたら、自分以外の人はみんな間違いになります。
自分と性質の違う相手を変えようとする時、私たちは心の中にイライラや不満を感じます。

皆さん、隣の人を変えようとしないで下さい!
変えようとするのではなく、隣の人を理解しましょう!

「なぜこの人は、このように考えるのだろうか?」
「なぜこの人は、このように行動するのだろうか?」

人は誰も自分が間違ったことを考え、間違ったことを行っているとは考えません。
誰もみな、自分が最善と思うことを考え、行っているのです。

ただ生まれた環境、文化、家庭が違い、受けた教育や、出会った人間関係によって表現が異なるだけなのです。

「なぜこの人は、このように考え、こうどうするのだろうか?」
相手を心から理解しようと接するなら、相手がなぜ自分と違うものの見方、考え方をするかが分かってきます。

すると、「そのような考え方、見方があるんだ!」と新しい発見もあるでしょう。
この時、相手に感じていたイライラや不満は消え去り、尊敬と愛が生まれてきます。

自分を基準と考えること自体、既に相手を裁いているのです。
相手に対して苛立ちや不満を覚えるなら、自分が基準となって相手を裁いていないか自分を吟味してみましょう。


「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」マタイ福音書7章3から5節

自分こそ正しい基準と考え、いつも正しいのは自分と考える態度こそ、取り除かなくてはならない障害なのです。


相手を、変えようとせず、理解する!

これはイエスさまの謙遜の中に見られます。
パウロが「謙遜・・・の限りを尽くし、互いに忍び合い」と、先ず謙遜を語っているのはイエスさまの性質を覚えてのことだと確信します。

パウロはイエスさまの謙遜をこのように理解しています。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2章6から8節

イエスさまがご自分を基準として、私たちを裁かれたら、誰ひとり救われる者はいません。
イエスさまがご自分の正しさを捨て、ご自分を無にして、弱い私たちと同じ人間になられたのは、私たちを理解するためでした。

英語のUnderstandは「下に立つ」、相手の下に立つ、相手の立場に身を置くことから来ているのです。相手の立場に自分を置いて、初めて相手を理解できる。
イエスさまは私たちを愛して、私たちよりも下に自分を置かれたのです。
なぜなら十字架の死にまでも従われ、黄泉にまで下られたからです!
そして、相手の下に立つことは、謙遜なのです。

私たちはキリストの謙遜によって救われました!
それならなぜ私たちは自分を基準として、兄弟姉妹を裁くことが出来るでしょうか?
イエスさまが、神のあり方を捨てられたのなら、私たちも自分の正しさを放棄しましょう。

私たちもキリストに倣い、自分の正しさを十字架に付けるなら、キリストの謙遜さが聖霊によって養われると確信します。

相手を変えようとせず、理解しましょう!

【柔和の限りを尽くし、互いに忍び合いなさい】

柔和とは優しく、穏やかな性質です。怒りや傲慢さとは反対の性質です。
この性質も、イエスさまの御性質の一つです。

「互いに忍び合いなさい」と勧められていますが、もちろん教会の中で行われている不正や犯罪、また愛と一致を壊すような行為に対して「ただ我慢しなさい」と言うのではありません。教会での問題の対処に関してはマタイ18章に詳しく書かれてあります。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」マタイによる福音書18章15節から17節

このイエスさまの教えを厳しいと感じられますか?
それとも、さっそく「あの兄弟のところに行って責めてこよう!」と思われましたか。
しかし、この直後にイエスさまはさらに大切なことを教えておられます。

「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』」
マタイによる福音書18章21.22節

教会の中で行われている不正や犯罪、また愛と一致を壊す行為に対しては見過ごしたり、ただ我慢してはいけません。解決に向かって取り組まなければならないのです。
しかし、まず相手を心から赦すことが前提です!

怒りや憎しみを抱えて、相手のところに行くなら問題はもっと複雑になります!
イエスさまが教えているのは、愛の回復が目的であって、相手を責め、惨めな気分にさせ、自分の怒りを晴らすためではないのです。

まず怒りを父なる神様のもとに持っていくことです。
父なる神に、怒り、痛みをすべて注ぎだして祈りましょう。
スッキリするまで祈るのです!スッキリして怒りから解放されるまで、怒り、痛み、憎しみを吐き出すのです。父なる神に全てを聞いてもらいましょう。
聖霊なる神の慰めを受け取って下さい。スッキリします。怒りから解放されます。
自分も天の父から赦されていることを覚え、相手を赦す力を受けましょう。

それから、相手の建て上げのために聖霊に満たされて行くのです。
柔和な心を祈りの中で養ってもらいましょう!
時間が掛かるかもしれません。しかし、この大切なステップを省略してはいけません。

柔和の限りを尽くして、互いに忍び合い(愛し合い)ましょう!