「愛を持って互いに忍び合う」
エペソ人への手紙4章1節から6節
牧師 小林智彦

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」
エペソ4章1節から6節

【主の囚人である私はあなたがたに勧めます】

エペソ人への手紙から続けてメッセージしています。今週は4章に入ります。
4章からは「召しにふさわしく歩む」ことが主題になります。
信仰を実践する勧めが書かれています。

パウロは4章1節で、勧めをする自分を「主の囚人」と呼んでいます。
なぜ彼は自分を「主の囚人」と呼んだのでしょう。
実際にパウロは、この手紙を書いていた時にはローマの牢獄で文字通りの囚人でした。
パウロが自分を「主の囚人」と呼んだのは、以前の自分は「律法・宗教の囚人」であったが、今はキリストによって救われ、解放されて「主の囚人」になった、だからこの勧めは、あなたを再び「律法と宗教の囚人」にするものではないことを強調するため思われます。

パウロはイエス・キリストの愛に捕らえられたのです!
パウロは天の父なる神の愛と恵に取り囲まれました、だから主の囚人なのです。
私たちもイエス・キリストの愛の囚人になりたいと思います。
キリストの愛に捕らえられ、キリストの愛に囲まれる時、これからの勧めの言葉は喜びになり、確かな目標になります。

これからの勧めの言葉が辛く、苦しく感じられるなら、私たちはまだ「律法と宗教の囚人」かもしれません。キリストの愛に捕らえられましょう!

【その召しにふさわしく歩みなさい】

「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。(1節後半)」
「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み(新共同訳)」

パウロは先ず私たちに、「召し(招き)にふさわしく歩みなさい」と勧めます。
これが大変重要な勧めの言葉です。これから後の内容を全て要約している言葉です。
だから決して、読み間違えたり、読み込んだりしてはいけません。

パウロは「クリスチャンとして恥ずかしくないように生きなさい」とは勧めていません!
また、「既存の教団・教派の伝統、習慣にふさわしく生きなさい」とも勧めていません。

パウロは「(神の)召しにふさわしく歩みなさい」と勧めているのです!
ですから、この重要な言葉を理解するために大切なのは「召し」を理解することです。
神は一体何の為に、私たちを召された(招かれた)のか、その目的を理解することです。

「召しにふさわしく歩みなさい」とは、神が私たちを召した目的に向かって生きることです。
神が私たちを招いた目的に従って生きることを、パウロは勧めているのです。

さあ、それでは一体神は何の為に、何の目的の為に私たちを召されたのでしょうか?

神が私たちをキリストの内に選び、祝福し、召して下さったのは、私たちが神の栄光を表す神の器となるためなのです。

神の栄光を表すとは、目に見えない、手で触ることも出来ない神の偉大さを、私たちを通して神が表現されることです。

それでは神は私たちを通してどのようにご自身の栄光を表されるのでしょうか?

私たちがエクレシア(教会)を建て上げることによって、神は栄光を表されるのです!

エクレシア(教会)とは、建物でもなければ宗教団体でもありません。
エクレシア(教会)とは、キリストの体であり、私たちがキリストの愛によって互いに愛し合う時、建て上げられ、神の栄光を表すのです!

この目的のために、私たちは神に選ばれ、神の御前に招かれているのです!

「召しにふさわしく歩みなさい」とは、この目的に向かって真っ直ぐに進むことです。
キリストの愛で神の家族を愛し、互いに仕え合い、互いの徳を建て上げる時、神の栄光は私たちの間に確かに表されるのです!

なぜなら、神は愛です!
神は物質でも力でも、不思議な現象でも何でもありません。神は愛の人格そのものです!
キリストの愛を受けた者が、互いにキリストの愛で愛し合い、仕え合う時、キリストは私たちの関係の中にご自身を表して下さるのです!

「召しにふさわしく歩みなさい」とは、神の愛の実践であり、これが目的なのです。
私たちはこの愛の目的に向かって、互いに励まし合いながら進みましょう!
互いに愛し合い、互いに仕え合い、キリストの体を建て上げ、神の栄光を表しましょう。

回りの兄弟姉妹に言いましょう!
「私たちは、互いにキリストの愛で愛し合い、仕え合うために、神に召されました」と。

【謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い】

4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

「召しにふさわしく歩みなさい」の具体的な一歩目は「愛を持って互いに忍び合う」こと、「お互いを我慢する」ことだとパウロは教えます。

エクレシアには色々な人が来ます。色々な背景の人が来ます。
文化や習慣が違う人、価値観や好みが違う人、他の場所では多分出会わないだろう人とエクレシアでは出会います。


エクレシアは決して同じ価値観、同じ感性、同じ趣味の人が集まるサークルではありません。自分の好みの人が集まるのではなく、神が呼び集めた集まりがエクレシアなのです。

神が呼び集めた集まりということを忘れてはならないのです。

私たちは、教会の兄弟姉妹に自分と同じ価値観、同じ感性、同じ趣味を求めたら、必ず相手に躓きます。あまりの違いに苛立ちや怒りを覚えるかもしれません。

相手を裁きたい思い、相手を非難したい思いが出て来るかもしれません。
相手の良いところが全く見えず、悪いところだけが大きく見える時もあります。

そのような時、相手の欠点を指摘し、裁き、関係を絶つことは簡単です。
一致するよりも分裂する方がはるかに簡単です。
気の合う者同士だけで集まり、好きになれない人を排除するのも簡単です。

しかし、それではキリストの栄光を表すエクレシアの目的から離れてしまうのです!

神はエクレシアの一人ひとりを目的を持って呼び出して下さいました。
愛しやすい人、愛しにくい人、価値観が同じ人、違う人、弱い人、強い人。

エクレシアは神が計画を持って集められたと言う信仰が無くては成り立たないのです。
気の合う人だけでないからこそ、キリストの愛と忍耐が必要なのです!

教会がみな、マザーテレサや完成された人の集まりだったら、我慢する必要は生まれません。相手が不完全だからこそ、私たちは愛し、忍耐するのです。

私たちが信仰によって、愛し難いひとを愛し、受け入れ難い人を忍耐する時、私たちの中に愛と忍耐の聖霊の実が結ばれていくのです。

一般の社会だったら決して集まらないような者同士が、毎週集まり、キリストの愛で愛し合い、家族と互いを受け入れ合う時、そこに神の栄光が表されるのです!
私たちはこの偉大な神の目的のために一人ひとりが選ばれ、招かれているのです。

しかし、相手の欠点を耐え忍び、相手の弱さを忍耐することは辛いことです。

「私は神さまに祝福してもらうために教会に来ているのであって、教会のごたごたした問題に患わされるために来たのではありません!」
「自分の家にも困った人がいるのに、これ以上、困った人に我慢するのはご免です!」

少なからぬ人々が教会の人間関係に失望して教会から離れます。
「祝福を期待したのに、人間関係で患わされた!」

皆さん、真理に目を留めましょう。
もし私たちの中に忍耐の徳が養われるなら、それこそ神からの最高の祝福です!

忍耐は与えられるものではなく、養われるものです。
どんなに神に忍耐を求めても、次の日、朝起きたら忍耐の人になっていたと言うことはありません!神は私たちに忍耐を養わせるために、ふさわしい環境を備えて下さるのです。

そして、忍耐は愛です。耐え忍ぶことは相手を愛することです。

「(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」第一コリント13章7節

兄弟姉妹の弱さを耐え忍ぶこと、これが愛です!
兄弟姉妹の欠点を受け入れ、ともに忍耐すること、これがアガペーの愛(無条件の愛)です!

愛しやすい人、自分にとって価値のある人や物を愛する愛はギリシャ語ではエロースの愛です。しかしパウロがここで語っているのはアガペー、無条件の愛です、忍耐の愛です。
神の栄光はアガペーの愛にこそ表されるのです。

私たちはアガペーの愛をもって互いに忍び合い、キリストの体であるエクレシア(教会)を建て上げましょう。

【謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し】

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、(2節)」

聖書のみ言葉を守ることは、とても難しいことですね!
愛を持って互いに忍び合うことさえ難しいのに、さらに「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し」が付くのですから。

私たちは正直に天の父なる神の前に、自分の力では出来ないことを認めるべきです。
とても自分の力で、アガペーの愛を行えないことを父なる神の御前に認めましょう。
アガペーの愛に生きられない自分の性質を正直に告白し、キリストの十字架に背負ってもらいましょう。

そして聖霊のいのちを受け取りましょう!
イエスを死から復活させた、聖霊のいのちが私たちに与えられる時、私たちは力を受けます。アガペーの愛に生きる力を受けるのです。

日々、神のみ言葉に向き合いましょう!
そして、神のみ言葉に従えない不完全な自分を愛し、赦し、そのままで受け入れて下さり、子どもとして下さった父なる神の愛を覚えましょう。
父なる神は私たちの弱さを責めたり、裁いたりしません。弱さを受け入れて下さる方です。

この父なる神の御前に、自分の弱さ、罪深さを全て注ぎだし、告白しましょう。
そしてその全てを主が十字架で滅ぼして下さることを信じましょう。

天の父は必ず聖霊を通して私たちに復活のいのちで満たし、アガペーの愛に生きる力を与えて下さいます。

キリストの体を建て上げるのは、私たちの頑張りではなく、私たちの弱さに働く神のいのちの力、キリストを死から復活させた神のいのちによるのです!
私たちは進んで、自分の罪と弱さを主に告白し、十字架に付けましょう。
復活のいのちに満たされ、神の力に押し出されて、キリストの体を建て上げる目的に生きましょう。