「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように(2)」
エペソ人への手紙3章16節
牧師 小林智彦

「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」エペソ人への手紙3章14節から21節

【私たちを変える変化の源】

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3章16節

エペソ1から3章は「恵によって召された私たち」について書かれてありました。
4章から6章は「召しにふさわしい歩み」、クリスチャンとしての相応しい生き方が書かれてあります。

今日は大切な聖書の真理、また優先順位を分かち合いたいと思います。
私たちをキリストに似た者させる力は何処から来るのか?について分かち合います。

一体クリスチャンを成長させる力は何処から来るのでしょうか?
私たちの生き方を変える力はどこから来るのでしょうか?

私は多くの熱心なクリスチャンたちが、「成長したい」、「愛の人に変えられたい」と願いつつも、簡単に律法主義に陥ってしまうのを見てきました。

あまりにも多くの信仰者が「〜すべき」、「〜しなければならない」に縛られているからです。
そして意識的なのか無意識的なのか分かりませんが、回りの人をも「〜すべき」「〜しなければならない」で縛ってしまう。

だから多くのクリスチャンではない人たちに、「宗教はイヤだ!」「窮屈で退屈な人間にはなりたくない!」と思わせてしまうのだと思います。

また実際に「〜すべき」「〜しなければならない」で縛られているクリスチャンには、生き生きとした命を感じられません。命どころか、怒りや厳しさを感じるのです。

残念なことです!

私たちの主イエスは、ありのままの人間として生活し、宣教されました。
しかし、イエスの中には「〜すべき」「〜しなければならない」は微塵も感じられないのです。
もしイエスが律法に縛られ、宗教に縛られた人ならば、当時のユダヤ教社会で罪人、汚れた者と呼ばれた人たちを救い、解放し、友となることは出来なかったはずです。

主イエスは「すべき」「しなければならない」には縛られていませんでした。
そうではなく、「心から愛したい」「心から愛さずにはいられない」に生きたのです!
そのようにして、心から神の愛を実践されました。

私たちは、私たちを変える変化の源を見誤ると、大変な間違いに陥る危険性があります。

【外側からの変化か、内側からの変化か?】

変化、また成長を考える時、外側からの変化と、内側からの変化の二つが考えられます。

手っ取り早く、効果的と思われるのは外側の変化です。
内側からの変化は、時間が掛かり、回りからはなかなか変化に気付いてもらえません。

そのため多くの人は、「変わったね!」「成長したね!」と回りから言ってもらうために、外側を変えることだけに気を取られてしまうのではないでしょうか。

そしていつの間にか、回りから「成長した」という言葉を受け取って、内面も同じように「成長した」と勘違いするのではないでしょうか。

聖書が一貫して教えることは、外側からの変化が、内側を変えることは無いことです!
聖書の中には一人として、行動や外面を変えることによって、信仰の模範となった人物は登場しません。

信仰者として登場する全ての人物は、神との出会いによって内面が変えられ、内面の変化が外側に表されていくのです。

だから私たちは外側の変化ではなく、まず内面の変化を熱心に求めましょう!
なぜなら聖書が内面の変化が外側の変化をもたらし、その逆は無いことを教えているからです。まず内なる人が強められることを願い求めましょう。

【外側の変化が人を変えない例】

外側の変化、人に見える部分を変えることが内面の変化に結び付かない例を聖書から見てみましょう。その代表例はパリサイ人です。

パリサイ人と言うのは、イエスさまが地上で活動されていた頃のイスラエルで多数を占めていた宗教家たちのことです。彼らは熱心に旧約聖書の律法を守り、さらに厳しい戒律を付け加えて守っていました。彼らは熱心に、信じられないくらいの努力をして律法を守っていました。彼らのリーダーである律法学者は、モーセ五書を暗記さえしていました。

もし私が、彼らと同時代に生きていたら、パリサイ人や律法学者を熱心な宗教家、成長した信仰者と思ったでしょう。

しかしイエスさまは、パリサイ人、律法学者を偽善者と呼ばれました。
偽善者とは、ギリシャ語では俳優と同じ言葉が用いられています。
イエスさまは、パリサイ人の行いは本物ではなく、演技に過ぎないと言われたのです。

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」
マタイによる福音書23章25節から28節

パリサイ人はその熱心な宗教活動も聖書的な知識も外側を変えるだけで、内側を変える力にはなりませんでした!


外側の変化が、内側を、内なる人、その人の本質的な霊を変えることは無いのです!
これが努力、頑張り宗教の限界です。行動や見た目は変えられるが、内面は変えられない。そればかりか、努力・頑張りに生きたパリサイ人の内側には恐ろしい怒りがありました。その怒りが神の御子を虐殺したのです。

宗教的な努力・頑張りのもたらす害に気付きましょう。
努力・頑張りは強烈な差別意識を心にもたらします。頑張っている人は、頑張っていない人を見ると怒りや憎しみを覚えます。そして頑張っていない人を排除しようとします。
これがキリスト教を歪めるのです。キリスト教が切り捨て教になります。

私たちは目に見える変化を追い求め、外面の変化だけに気を取られてはならないのです!
最も大切なのは内面の変化、内なる人が変えられ、強められることです!
内面の変化が、やがて、時間は掛かったとしても、必ず外側に現れるのです。

【内面の変化はどのようにして起こるのか?】

内面の変化はどのように起きるのでしょうか?
内面の変化は、いつも生ける真の神との出会いによって起きます。
その例を使徒パウロの中に見いだせます。

パウロ自身も熱心なパリサイ人でした。パリサイ人の中でもエリートでした。
有名な神学校を出て、ユダヤ教の若い指導者として、多くの人から期待されていました。
彼はユダヤ教に熱心でした。力の限り、頑張って戒めを守り、人にも守らせていました。

そして、その熱心からイエス・キリストとその教会を迫害したのです!

何という皮肉でしょうか?彼は熱心に神を喜ばせようとして、最も神から離れた場所にいたのです!神を喜ばす行いが、なんと神に敵対する行いだったのです。

パウロが救われて偉大な使徒となったのは、100%神の憐れみでした!
無条件の赦し、無条件の愛、恵の神がパウロを憐れんで下さったのでした。

真の神の姿に触れ、パウロの目からはウロコが落ちたのでした!(使徒9章18節)
真の神の姿を歪めていたウロコが落ちたのです。パウロは神の使徒へと変えられました。

神との出会いが私たちの内面を変えます!
真の神の姿を仰ぎ見る時、私たちの内なる人は新しくされ、命を受け、成長するのです!

真の神の姿とは、無条件の愛、無条件の赦し、無条件の受容です!

たとえ罪の故にどん底状態、何をやっても上手く行かない、誰も評価してくれない、どんな状態であっても、天の父はあなたを、ありのまま愛して下さり、ありのまま受け入れて下さり、幸いな人生の計画を建てて下さっているのです!

天の父の愛を覚える時、天の父の恵を覚える時、私たちの内なる人は強められ、命を受けるのです!神との出会い以外に、私たちの内面を変える原動力はありません!
父の愛を知り、強められた内なる人が、やがて愛の実を結んでいくのです。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3章16節

神の恵みによって、内なる人が日々、新たにされ、命と力を受けて強められますように!心から祝福を祈ります。