「キリストこそ私たちの平和」
エペソ2章14節から16節
牧師 小林智彦

【キリストこそ私たちの平和】

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2章14.15節

平和は誰もが願うものです。しかし平和の実現ほど難しいものはありません。
平和への取り組みも空しく、世界の各地では絶えず紛争が起きています。
国同士の戦争、民族間紛争と言った大きな問題でなくても、私たちの人間関係のレベルでも平和は求められてます。家庭、職場、学校、あらゆる人間関係に癒しと平和が必要です。

パウロは、神が私たちに備えた平和を紹介しています。

「キリストこそ、私たちの平和です!」

キリストの十字架は対立する人間関係に平和をもたらす、神からの解決です。
和解を阻む対立の原因を、キリストの十字架は取り除くからです。

私たちはキリストにある平和を学び、これを実践しましょう。
イエスご自身も山上の垂訓の中で「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)」と教えています。
この地に平和を実現することは、神の子どもの使命なのです!

キリストの十字架は、平和を実現するために神が与えた解決です。

まず私たちクリスチャンがキリストの十字架を通して、心にある全ての「隔ての壁」、「敵意」を取り除きましょう!

自分の中に「隔ての壁」、「敵意」を抱えたままでは、本当の平和を実現することは不可能です。人間関係に和解をもたらすことは出来ません!

私たちクリスチャンが一人ひとり真剣に、キリストの十字架と向き合う時、人間関係を壊し、和解を阻む「隔ての壁」、「敵意」が取り除かれるのです。

イエスは教えておられます。
「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:4.5)」

私たちは問題の原因を全て、他人にあると考えやすいのです。
「正しいのは自分で、間違っているのは相手の方だ!」、これでは問題は解決しません。
先ず自分の目にある梁に気付くこと、和解を阻む「隔ての壁」が自分の中にあることに、「敵意」があることに、聖霊様によって気付かせてもらいましょう。
キリストの十字架に向き合い、十字架こそが解決であることを体験しましょう。

キリストこそ、私たちの平和です!

【敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法】

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。」エペソ2章14.15節

パウロがエペソ2章で述べている「二つの者」とは、ユダヤ人と異邦人を指しています。
ユダヤ人と異邦人を隔てている壁が「戒めの律法」なのです!
また「戒めの律法」がユダヤ人と異邦人の間に、敵意を生み出していると言うのです。

ここでパウロが言う律法とは、旧約聖書の律法ではなく、律法を守ることによって自分たちを特別な民族であると誇らせる「律法主義」、またユダヤ教の伝統を指していると考えられます。

リビングバイブルでは、このように15節を意訳しています。
「その敵意の原因とは、ユダヤ人を特別扱いし、外国人をのけ者にする、ユダヤ教のおきてでした。 そのおきて制度全体を無効にするために、キリスト様は死んでくださったのです。(エペソ2:15)」

「ユダヤ人を特別扱いし、外国人をのけ者にする、ユダヤ教のおきて」

本来の旧約律法はユダヤ人を特別扱いし、外国人をのけ者にするためのものではありませんでした。旧約律法の目的はアブラハムの祝福を異邦人に伝えるため、ユダヤ人を祭司の王国として整え、異邦人に仕えさせるために与えられたのです!

しかしユダヤ人は律法の本来の目的を見失い、自分たちを特別扱いし、外国人をのけ者にするために律法を用いたのです。

しかしユダヤ人は本当の意味で律法を守ってはいませんでした。
イエスさまはパリサイ人の偽善を指摘しているように、彼らは自分たちに都合良く律法を解釈し、都合良く守っていただけに過ぎないのです。

そして自分たちは自分の努力と頑張りで律法を守っている優れた民族だと自分たちを誇っていたのです。この民族的な誇りこそが、外国人を見下げ、退ける敵意の根本なのです。

行いによる救いは誇りを生み出すのです!頑張りや努力は必ず、自らを誇らせるのです。
この誇りは、同じように出来ない者を見下げ、退ける敵意を生み出すのです。

行いによって得られる正しさ、行いによって得られた誇り、それを肯定する「律法主義」こそが敵意の源であり、和解を阻む隔ての壁なのです!

自分だけを正しいと主張すること、自分こそ優れていると誇ること、この正しさと誇りが無かったら、世界中の紛争は無くなると思います(貧困問題は除いて)。

人間関係でトラブルが生じた時、もしも互いに「ご免なさい、私が間違っていました」と自分の非を認めるなら、問題は解決です!それ以上に問題は発展しないのです。
しかし、「正しいのは自分、間違っているのは100%相手の方だ!」と譲らないなら、最初は些細な問題でも、いつの間にか深刻な事態に発展するでしょう。

民族的な誇りも、紛争を長期化させる大きな原因です。
「日本人と韓国人、中国人、どちらが優れているか?」それを問うこと自体が愚問です。
男性と女性、白人と黒人、性別による差別、人種、肌の色の違いによる差別、みな自分を誇りたいと思う心から生み出された争いです。
自分を誇れば誇るほど、他者を受け入れられない傲慢な人間になるのです。

しかし、私たちは自分の正しさを取り下げられるほど、謙虚にはなれない者です。
偽りの誇りを捨てて、ありのままの自分で生きられるほど、強くない者です。

「隔ての壁」、「敵意」を自分の努力で取り除くことは出来ないのです。
しかし、神はキリストによる解決と和解の道を開いて下さったのです!

【敵意は十字架によって葬り去られました】

「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」エペソ2章16節

十字架こそ和解の土台、十字架こそ全ての敵意を葬り去る神の解決です。

ユダヤ教徒もキリスト教徒も、救われるためにはキリストの十字架が必要だからです!
誰ひとりとして、自分の行いによる正しさでは救われないのです!
キリストの救いの前には、誰もが平等になるのです。

ヨハネ・パウロ二世もマザー・テレサもパウロもペテロも、その他のどんな優れた人物であっても、自分の行いによって罪が赦され、神の子どもになった人はいないのです。
誰もが皆、キリストの十字架による身代わりの死を通して赦され、キリストの流された血によって弱さも、欠点も覆われ、神の聖さが与えられたのです。

キリストの十字架の前に、誰ひとり誇ることは出来ない、自分を正しいとすることは出来ないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8.9)」

伝統と律法主義によって自分を誇るユダヤ人と、同じく伝統を誇り、自分を正しいと思う日本人ではどうやっても一致を保ち、共同体を築き上げることは不可能です!
しかしキリストの十字架によって、自らの誇りを捨て、自分勝手な正しさを放棄するなら、ユダヤ人、日本人、あらゆる国の人々、文化、人種、性別を超えた共同体が建て上げられるのです!

私たちは救われる前は、日本人、韓国人、アメリカ、台湾人だったかも知れません。
しかし、キリストによって救われたのなら、誰もが天国人です。
天国に争いはありません!争いがあるのは地上だけです。

そして地上における、天国人の集まりがエクレシア、キリストの教会、神の家族です!

私たちがキリストの十字架に向き合い、恵による救いを覚える時,自分を誇り高ぶらせる律法主義から解放されます。
自分の誇り、自分勝手な正しさが十字架によって取り去られるなら、エクレシアには一致が生まれ、平和が訪れるのです。

また私たちが人間的な誇りと、片寄った正しさから解放された天国人として生きる時、私たちの周りにも平和が訪れます。

神の子は自分の誇りに死んでいるからです。決して争いの原因や対象にはなりません!

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
                           エペソ2章14節から16節

【キリストの十字架を見上げよう!】

聖霊様によって、心を吟味して頂きましょう。

いま、あなたは誰かと争っていないですか?誰かが憎くて性がない、心の中に憎しみや復讐心を抱えてはいませんか。誰かを羨んだり、自分を価値がないと責めてはいませんか。

偽りの価値観、偽りの正義、偽りの誇りを十字架に付けましょう。

私たちの正しさは、結局のところ人と衝突しか起こしません。
それは人を生かす神の正義とは全く違うことを聖霊様によって悟らせて頂きましょう。
自分勝手な正しさ、争いを産む独りよがりの正義を十字架に付けましょう。

人を羨む思い、また自分を価値が無い、ダメだと思わせる思い。
両方とも神の価値観ではありません。偶像を十字架につけましょう。
私たちはキリストによって、罪赦された神の子どもです。これが私たちの価値です。

キリストは私たちの罪を十字架で背負って下さり、ご自身の死とともに滅ぼされました。
いま聖霊によって示された罪があるなら、心の中で主に告白し、十字架で背負ってもらいましょう。その思いを主に委ねましょう。

主はあなたの全ての重荷を背負い、あなたを罪から解放されました!

いま平和の子として歩めるように、聖霊様からいのちを受けましょう。
エクレシアにさらに深い一致と成長が訪れるように、私たちの家庭、職場、学校に平和を築けるように主のいのちを受けましょう。