「律法の呪いからの解放」
ガラテヤ人への手紙3章13.14節
牧師 小林智彦

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」ガラテヤ人への手紙3章13.14節

イエスさまは、私たちをあらゆる呪いから解放して下さいました!
なぜならイエスさまが身代わりとなって、十字架で全ての呪いを受けられたからです。
私たちの人生はイエス・キリストによって呪いから祝福の人生に変えられました。
主イエス・キリストにあって、呪いは全て祝福に変えられます。

パウロは手紙の中で、キリストは私たちを「律法の呪い」から贖ったと書いています。
「律法の呪い」とは何でしょうか?これはユダヤ人には大変に良く分かることでした。
旧約聖書の申命記28章には、律法を守る者への祝福と律法に背く者への呪いが書かれています。律法を守る者はあらゆることが祝福されが、律法に背く者はあらゆることが呪われ、遂に滅びると書かれています。これはユダヤ民族に神から課せられたものでした。

律法を持たない私たちに「律法の呪い」は、関係がないように思われます。
しかし、そうではないのです。私たちにも「律法の呪い」は大きく関わってきます。

パウロはローマ2章14.15節でユダヤ人以外の者にも、律法が心に書かれていると言っています。旧約聖書に書かれている613ある律法ではなくても、善悪の基準を持っているからです。それが心に書き記された律法なのです。

律法は善悪の大切な基準でありますが、私たちに呪いをもたらすものです。
なぜなら私たちは生まれながらの罪人であって、どんな些細な戒めであっても、それを完全に守ることは出来ないのです。

私たちは何が良いことで、守るべきかを知っていながら、守れないのです。
何が悪で、してはならない、止めなければならないと分かっていても止められないのです。
パウロですら、自分を惨めな罪人であると告白しています。

私たちはユダヤ人ではなくても、心に書き記された律法の呪いの下に置かれているのです。

私たちは心の中には律法があること、そしてキリストによってその律法の呪いから解放されたことを聖霊によって悟らないと、いつまでも心の律法に振り回されるのです。
呪いを恐れ、律法に死んでいるにもかかわらず、自力で律法を守ろうと束縛されるのです。

キリストを救い主として信じ、明確に救われていながらも、心ではキリストの与えた解放と自由、喜びを体験していない人がいます。
クリスチャン・ライフを窮屈と感じたり、束縛と感じる人が多いのです。

キリストは私たちを、心に刻まれた律法の呪いから解放して下さったことを信仰によって受け入れ、聖霊による解放と自由を体験しましょう。

【心の中に書き記された、呪いをもたらす律法】

私たちの心の中に書き記された律法とは何でしょうか?

私は親や教師、特に子どもの時に自分に対して権威を持っていた人の言葉が律法になると考えます。(他に文化・宗教:儒教思想、仏教、地域の因習なども)

もちろん親や教師の教えが悪いと言っているのではありません!
パウロも律法は善であり、良いものだと言っています。
しかしその良い教えが、生まれながらの罪人である私たちには守れないのです。

良いものであること、正しいものであることがハッキリ分かるので、守れない自分を自分で価値がないと判断し、自分の価値を引き下げてしまうのです。
また時には、自分で自分を罰することさえするのです。これが呪いになるのです!

正しい律法、正しい親や教師の教えですら、私たちの心を束縛し、私たちを本当の意味では生かすことがないのなら、親や教師から与えられた理不尽な教えは尚更、私たちの心を束縛し、私たちの価値を引き下げてしまいます。

私の話になりますが、私は高校の時に柔道部に入っていました。
中学の時も柔道部で活躍していたので、高校の時も期待して入りました。
ところが高校の柔道部には陰湿がイジメがありました。精神的、肉体的なイジメでした。
段々と肉体的に限界を示す不思議な症状(怪我や病気)が現れ、退部することになりました。
肉体的にも精神的にも落ち込んでいた私を更に苦しめたのは、柔道部の顧問をしていた教師の言葉でした。私を人生の敗北者と決めつけ、これからも「お前のような人間が成功するはずがない!」と断言までしたのです。

この辛い体験は、キリストにある救い、キリストによる真の解放を受けるまで、私の心の中で呪いとなっていました。

その後のさまざまな苦しい状況、大学受験、就職、職場での人間関係、難しい状況になると、あの顧問の言葉が私を呪うのです。「お前は人生の敗北者だ!何をやっても上手く行かない!」と。

そして、この呪いの言葉に負けないように頑張れば頑張るほど、自分の心と肉体に無理をさせていました。呪いの言葉は自分を全てに上手く行く、問題がない、非難されるところがない完璧な人間へと追い込むのでした。不完全なこと、上手くできないことを受け入れ無くさせるのです。

【キリストにある完全な解放】

しかし、キリストの救い、キリストの解放は完全です!
キリストは私を救い、この呪いの言葉から私を完全に解放して下さいました!

まずキリストは私の心の覆いとなり、盾となって下さいました。

キリストは私を責める側ではなく、私の側に立って下さいました。
私を責め、私を呪う激しい言葉を私に代わってキリストは受けて下さったのです!

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53章5節

キリストは私たちを責め立てる言葉、激しく呪う呪いの言葉をご自身の背に受けられました。私たちを傷つける全ての呪いから守るために!

キリストの背中からは、鞭打たれ、十字架に付けられた時、夥しい血が流れ出ました。
キリストの流された血潮、これが私たちを覆っているのです!
キリストは私たちの身代わりに呪われた者となり、彼の血によって覆われた私たちは、キリストの義で覆われるのです。神が義と認める者を誰が責め、呪うことが出来るでしょう。キリストの義が自分のものとなった時、私たちはあらゆる呪いの言葉に立ち向かうことが出来るのです!

神はキリストにあって、私たちをご自分の子どもとして認め、ありのままの私たちをキリストにあって受け入れて下さいました。

神を越える権威が、この世界に存在するでしょうか?
天と地を造られた唯一の神がキリストにあって私たちをありのまま受け入れて下さったなら、誰が一体私たちを非難し、裁き、呪うことが出来るでしょうか?

キリストにあって私たちは全ての裁き、責め、呪う言葉から解放され、癒されるのです!

あなたの両親、学校の教師、職場の上司、親せき、先輩、友人からの責めることば、裁く言葉、呪う言葉、全ての傷つける言葉をキリストはあなたの変わりに受けて下さいました!キリストの流された血潮が、そのことを証明しています。

あなたが傷つき、苦しまないために、キリストが代わって傷つき、苦しまれました。
この真理を信仰によって受け取って下さい、信仰をもって聞いて下さい!
キリストが傷つき、苦しまれたので、あなたが傷つき、苦しむことは無いのです。

天のお父さんは、キリストにあって、あなたをありのままで愛しています!
キリストによって、ありのままで受け入れて下さいました。
天の父はあなたを責めません!

天の父があなたを責めないのに、誰が一体、あなたを責めることが出来るでしょう?
あなたを責める一切の言葉は、キリストによって無意味になりました!

あなたを責める一切の言葉、権威者から語られた全ての非難の言葉は嘘です。偽りです。天の父が、ありのままのあなたをキリストにあって受け入れたからです!

「キリストは、私たちのために(あなのために)のろわれたものとなって、私たちを(あなたを)律法ののろいから贖い出してくださいました。」ガラテヤ3章13節

キリストにある解放の喜びで満たされましょう!
あなたは呪いではなく、祝福のなかを生かされています。

【約束の御霊を受ける】

「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」
ガラテヤ3章14節

更にキリストにある解放の恵みを深く知りたいと思います。
キリストが呪われたのは、私たちを神の御前に義とするためでした。
そして信仰によって、私たちに約束の御霊を与えるためでした。
「約束の御霊」とは何でしょうか?

「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」」ガラテヤ4章5〜7節

私たちがイエスを信じる信仰によって受けた神の霊は、私たちが神の子とされたことを証して下さるのです!

天と地を造られた唯一の神を、心から「お父さん」と呼べるイエスの心が与えられたのです。
これが私たちの新しい姿です!神の正式な養子にされたのです。
私たちは、神の子どもであって、決して神の奴隷ではないのです!

子どもは決して行いによって、親から見捨てられることはありません。
なぜなら神は私たちが不完全であることを知りながら、受け入れて下さったからです。
天の父は、私たちに自分の努力によって完全な人になることを求めていません。

天の父は、ただキリストにつながること、神の霊に満たされ、神のいのちが私たちを新しい人に造りかえることを願っておられるのです。

律法を守ることでキリストにつながっているのではありません。
キリストの恵を信じる信仰によってつながっているのです。

私たちは神の子です。神の子は父なる神を恐れません。(畏敬の念や畏怖の思いを否定するのではない、恐れとは行いに対する罰を恐れる思いであり、人格的な交わりではない)

天の父は私たちを拒絶されること、見捨ててしまうことは決してありません!
また神が私たちの行いによって、私たちを怒り続けることもないのです。
私たちへの拒絶も、怒りも、呪いも、すべてキリストが代わって受けて下さったからです。

神の子どもに与えられている特権を一つ一つ覚えて、自分のものとして受け取りましょう。

神の子どもでありながら、神の子どもとされた喜びを味わっていないなら残念です。
驚くべき犠牲によって神の子とされながら、未だに奴隷の心を持ち、奴隷の生き方をしているなら、イエスの犠牲が無意味になります。

「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。」ガラテヤ4章8から10節

「各種の日と月と季節と年とを守っています」とはユダヤ教の宗教暦のことと考えられます。また土曜日を安息日とする律法も含まれるでしょう。

ユダヤ人にとって絶対であった土曜安息日も、神の子どもにとっては解放されたものです。
それは安息日を破ることを勧めているのではありません!
神の子どもにとっては、毎日が安息日、毎日が天の父を礼拝する日なのです!

奴隷は神からの罰と呪いを恐れて、週一日だけ神を義務的に礼拝します。
神の子どもは毎日を神とともに歩みます。神を喜びます。毎日が礼拝なのです。

また、何かの事情で日曜日の礼拝式に参加できなくても、残念に思っても、神の罰を恐れたり、何か悪いことが起きるなどと恐れません!
聖書が何かの事情で全く読めなくても、祈れなくても、神の罰を恐れません!
私たちは奴隷ではなく、神の子どもだからです。

行いによって神は私たちを特別に祝福したり、呪ったりする、これが奴隷的信仰です。
神の御霊によって解放されましょう!
私たちの行いが不完全で、不十分でも、神は私たちに対する愛と祝福を変えません!
決して幸いの計画を変えてしまうことは無いのです!

天の父は、子どもの行いにかかわらず、いつも最善を用意し計画して下さるのです。
天の父の懐の中でリラックスしましょう!キリストの救いを味わいましょう。
そしてこの救いの喜び、キリストにある解放を多くの人に分かち合いましょう。
キリストの中にこそ本当の自由、本当の解放があります!